崩壊
「それじゃあ、長らくお世話になりました。オリ様も、ほら」
「あああーありがとうございました。美味しいご飯が恋しいよう」
頭を下げながらオリは既に泣き言で、リューリンなんて半目で「明日にしない?」とオリの頭で寝転がっている。
すでにあれから何日か。飲めや食えの宴会で、胃袋暴れ放題の日々――も過ぎ去って、この階層はいつも通りの平穏な日常へと戻ろうとしていた。
オリ達も英雄だなんだと、死ぬほど贅沢な休息を取らせてもらった。これ以上いるわけにはいかない、このままじゃ住んでしまう、とは、オリも分かっているのだが。
「はーやだやだ。ダラダラして死にたい」
「駄目です! そんなこと言って、いつまでもここにいるじゃないですか。ほらオリ様、お弁当もらったでしょ。後で食べましょうね」
「っていうか、なんかアンタ張り切ってるわねー」
「……私ずっと、オリ様の好きなように、って思ってました。けど、それじゃ駄目だって気付いたんです。放っておいたらオリ様が、まるで妖精みたいになってしまうかもしれない……!」
「オリにアタシの真似ぇ? 無理無理。これほどの存在にはそうそうなれないって」
「止めなくてはっ、私がオリ様を、立派な覇王に成長させなくてはっ」
「覇王? オリあんた覇王目指してんの?」
「えっなんの話? オリは人類だけど」
「――お前たち、最後くらいちゃんとできないのか……」
もうここへ来て何度目だろう、呆れたようなトゥケロの溜息には、若干の微笑ましさが込められている。その証拠に、オリがごめんごめんと軽く謝ると、彼は声もなく小さく笑った。
オリ達の前には、数名だけの見送りがきていた。森の長、トゥケロ、プリェロ。それ以外の皆とは、もう前日までに散々挨拶を交わしておいた。
チナも来ようとはしていたのだが、昨夜に飲みすぎたせいで今も二日酔いで寝込んでいるらしい。
色々あって傷心真っ最中のチナだが、初めこそ「男とかくそだわ。うんこだわ」と苛々し、スパイ野郎を泳がすためそこまで注意してくれなかった森の奴らに八つ当たりもしていたのだが、今は一応、落ち着いてきたらしい。相変わらずクソクソうんこうんこ言っているみたいだが。
それでもプリェロは上機嫌だ。
「前みたいに冷静なお姉さんになってくれて、とってもうれしいんです!」
冷静、に疑問符はつけたくなるが、まあ傷心が癒されてきたなら何よりである。
昨夜は酔って絶叫しながらトゥケロをその尾ではじき飛ばしていたけれど、まあいいか。オリは微笑んだ。
「そう。よかったね」
「はい。お兄さんにお花の場所を教えてもらったー、なんて嘘吐いちゃったときはどうなるかと思いましたけど……お姉さんがもとに戻ってくれて、よかったです!」
「えっ」
えへ、と爆弾発言をしたプリェロは、固まるオリに気づかず、そっと彼女に瓶を手渡した。
小瓶のなかでは、とろりと橙に近い金が揺れている。
「これ、蜂蜜です。がんばって集めたんですよ。皆さんで食べたり、消毒したり、えーっと、上手に使って下さいね。初めから今まで、本当にありがとうございました」
「おっとやるじゃない緑チビ。あんたの好感度が今アタシの中でうなぎ登りの大出世。オリ、それは預かってあげなくもないけど」
「布巻いて、荷物袋にいれとこうか」
オリはぺちんと、背負ったリュックサックを叩いた。
全て終わったあと、礼だのなんだの煩い彼らに、オリがただ一つねだったのは、丈夫な荷物袋だった。ぺたんこのリュックサックのような形状で、布と皮を組み合わせて造られている。
一応、黒虎の宝箱につめこまれていた、ぺらっぺらの小さい布袋を使ってはいたが、どうにも破れそうで、これから使えるとも思っていなかったのだ。
この荷物袋も大して変わらないサイズだが、丈夫さでは段違いだ。
「うん、やっぱりリュックがあると違うねー」
「もっと別の物でもよかったんだぞ」
「宝石に食べ物に鞄に、それから? そんなに貰えないよ。そもそも私たち、そんな大したことしてないしね……」
敵だって、結局あちらの事情で去っていったのだし。暴徒の鎮圧だって、ほとんど森や草の奴らで片づけていた。
それまでも散々お世話になっておいて、これ以上は要求できまい。ここを訪れたタイミングと、今までの騒ぎのせいで、皆オリ達の行動を無駄に高く評価しているだけなのだろう。
結局最初のきっかけとなったプリェロ襲撃事件の加害者、あの黒ずくめの奴だって、先の暴動時にも捕まえられなかったわけだし。
「お前がそう言うなら、いいんだけどな。……気を付けろよ」
「うん、ありがと」
やはり最後は、森の長だった。恐らくこの人なりの礼の表し方ななのだろう、彼はかしこまった様子で胸に手をあてていた。
「オリ。我が――いや、この階層を救ってくれたこと、礼を言おう。他の奴らも代表して、改めて感謝したい。ありがとう」
「こちらこそ、色々過分な物を頂いて」
「またいつでも来なさい。その時までには、ここももう少し……暮らし安い場所になっているだろう。ま、多分だがな?」
長が笑うのにつられてオリも微笑み、期待してます、と応えた。
オリ達は何度も振り返って見送りたちに手を振っていたが、途中でなにやら相変わらずの漫才を始め、そのままわいわいと去っていった。
その背を見送るトゥケロに、森の長が声をかける。
「付いて行きたかったんじゃないか?」
「――まさか」
そう言いつつ、ずいぶん彼女らに気を許していた右腕を、森の長は苦笑して眺める。
中からも外からも遠巻きに見られる男だ。表情すら滅多に緩ませない。しかしそれにしては珍しく、オリ達の前では微笑んだり呆れたり、その表情筋もずいぶんと忙しそうであった。
「行ってもいいぞ」
「は!?」
「道案内も必要だしな。お前なら腕も立つだろうし。それに、チナを見てビビった奴らも多い、ここもしばらくは安全だろう。ま、骨休めだ。適当なところで帰ってこい」
「ですが、後処理も色々……あの四人――三人が去った理由もまだつかめていませんし、もしかするとまた、戻って来るやもしれませんし」
歯切れの悪い態度で、トゥケロは動こうとしない。長が、更に何か言い足そうと口を開きかけた瞬間、「あっ」とプリェロが小さく声をあげた。
どうした、と見下ろせば、頭の葉っぱのなかから、何やら丁寧に紙で包まれたものがでてくる。楕円の、どうやら今日のお菓子のビスケットかなんかであるらしい。
プリェロはそれを、おもむろにトゥケロにつき出した。
「あの、これ、えーっと、……あ、お姉さんからのプレゼントで、渡すのわすれてたんです! 持って行ってあげてください!」
「おー行って来い、それでしばらく帰ってくるな」
けらけら笑う長、慌てふためくプリェロ。
トゥケロは彼女(もしかしたら彼の可能性もあるし、無性別の可能性もあるが、それはトゥケロすら知らない)の震える手からその包みを取り上げると、しばらく無言で眺めてから、その頭部をぽんと抑えるようにして撫でた。
びくりと肩を強ばらせるプリェロに、トゥケロはそっと笑いかけた。
「キリがよくなれば、帰ってきますよ」
それだけ言い残して、彼は音も無く素早く去っていった。これなら、あっという間に追いつくことだろう。
長とプリェロも、それぞれの場所へ戻った。
長は、いつかプリェロが己の仕事を手伝ってくれるようになれば、と考えつつ。プリェロは、いつかオリさんたちもここで暮らせばいいのにな、と考えつつ。
以前と同じ、それでもほんの少し異なった日常を歩み始める。
「ヘレンがいない、ヘレンがいないよぉ」
一人欠けてしまった三姉妹は、しばらく揃ってめそめそぐすぐす泣いていた。つるりとした頬を、真珠のような粒の涙がころころ流れ落ちていく。
「ううっヘレン、ごめんねヘレン」
「メイヤの耳がないよぉ、片方しかない」
「とられちゃった、あたしのお耳、とられちゃったぁ」
隠せばいい、とフライヤがメイヤの髪に手を触れ、耳の欠けた部分を覆うように、そっと流した。ルニャが紐を取りだし、その一部分だけを縛れば、もう傍目には分からない。
ルニャがそうして「もう見えないね」と囁けば、フライヤもメイヤも「もう見えないね」と鸚鵡のように応じる。
彼女らは会話しているにも関わらず、まるで全部が揃って独り言のような調子で喋り続ける。
「でももう行かないと、どうしようもないわ」
「もうここには居られないわね。折角、あの場所に近いところだと思ったのに」
「早く逃げないと。ああさよならヘレン。ずっと一緒だからね。死んだって一緒よ」
「さよならヘレン」
「さよなら」
形式ばった儀式のように、彼女らはぽつりぽつりと別れの言葉を宙へと投げかける。その度に悲しみだけを固めた涙の粒が零れおちた。
しかしいずれその惜別の嘆きも掻き消えて、残された者達は思い出だけを胸に移ろうてゆくしかなかった。
彼女らには目的がある。立ち止まるわけにはいかないのだ。
既にあの広い空間を抜け出して、久々の味気ない通路を地道に進んでいるオリだが、彼女はほっこりした心持ちでぺちゃんこのリュックを背負い直した。
いい所だった。不穏だったりパシらされたりしたが、報酬はちゃんと貰えたし、だいたいが気のいい奴らであった。
アンテナと出会った川の中の美しさといったら、水へのトラウマが消えた、ような気になるほどだ。
他にもトゥケロ、彼は布だかなんだかを手配して、小さい夜をオリにくれた。色々と世話になったり、逆に世話をしたりして、一言では言い表せないものの、どれも今となってはいい思い出だ。
彼含めた全員が、オリに人らしい生き方を思い出させてくれた。
振り返ってもすでにあの場所は見えない。そのことに一抹の寂しさを覚えるくらいにはいい所だった、とオリはもう一度思い返す。
ただ、気がかりといえば、あの四姉妹だろうか。既に一人は破壊されたため三姉妹か。それはともかく、最後まで彼女らの意図は知れぬままだった。
彼女らのしたこと自体は単純だ。
あの空間を狙って、集落同士で潰し合わせようとした。しかしすたこら逃げ出した。そして失敗に終わった。――ということは、あそこに何かしらの危険が迫っている、ということだろうか?
分からない。
考察を立てるにしても、その元となる何もかもが不足している。
――まあ大抵の危険なら、あのチナとかがどうにかするだろうし。
心配ではあるが、いつまでも留まっているわけにはいかなかった。オリには目標がある。もう少し居たいと駄々をこねはしたが、己を待つ元の世界を思い出してみれば、その気持ちも容易く焦燥へと変わる。
あそこを去ったオリに出来ることなんて、ほとんど無い。
ただ、あの三姉妹がまた皆にちょっかいをかけないとも限らないし、もし偶然会うことがあったら、有無を言わさず殺しておいてやろう。
穏やかな思い出ばかりに塗り潰されて、オリはすっかり忘れていた。
彼の面妖な少年との、ほんの一時の邂逅を。
わざわざ訪れ寄越された、あっという間の忠告を。
『あんまりこの場所に留まらないほうがいい』、『この階層に』。
そして時は等しく過ぎる。
それからしばらく経ったある日、『川』の住人である親子が二人、水辺で健やかに休息を取っていた。人のごとき四肢であるがその身体には所々魚類らしき特徴が表れている。
母親がおっとりと見守るなか、少年は特別綺麗な形をした落ち葉をよりわけては、川に流してみたり、意味もなく振ってみたりしていた。
その内、ふと些細な興味であるがその葉脈自体が気になって、よく観察できるよう頭上にかざし、迷宮内の光源に透かした。
己の肌色によく似た葉っぱの色加減を、少年は幼子特有の好奇心でしげしげと眺める。
その刹那、その黒目がちの瞳はちかりと目を刺すような銀の輝きを捉えた。
きょとんとして母親を振り向けば、彼女も気づいたのだろう、歩みを止めてそれに釘付けになっていた。少年が頭上にかざした葉の向こう、そこには彼と同類らの頭上を延々と覆う、迷宮の天井しかないはずなのである。
しかし、それは確かにそこにある。
隙間の無い天井、そこから伸びる銀色。
在り得ぬはずの異端は現実的な質量を持って、確かに彼らの目の前に存在している――。
そんないつかの事実をオリが知るはずもない。
未だ名も知らぬ少年の、含みを持たせたいつかの忠告すら忘却の彼方である。
思い出しても既に手遅れのまま、オリはまた最奥に向けて、再び歩きだしている。
「品行方正な覇王にするんですっ」
「悪辣非道の覇王の方がいい!」
背後でわいわい騒ぐ仲間達はともかく、彼女は一人気分よく、まるで歌うように呟いた。
「また来れるといいなー」




