はらはら水族館
『川』に向かう前に、最後の身体チェックを行う。
トゥケロは空気を読んだのか、はたまた女子だらけのこの空間に居辛かったのか。まあ、ただ本当に用事があるだけなのかも知れないが、とにかく『草』の長へ別れの挨拶を述べると告げてでていった。
「ほれオリ、とっとと今日噛まれたとこ出して」
「ほれ妖精。もうすっかり元気。バイ菌が不安だけど、そのときはドクターを呼ぶから大丈夫」
ドクター。それはもちろん、あの未だに本名すら不明な少年のことである。ダミアン? 一度忘れたころにその名で呼んでみたが誰それ? と言わんばかりの顔でスルーされてしまった。
聞かないのも癪なので、その後度々尋ねていたのだが「エミール」や「フレディ」、「チビ」に「タロー」などとどんどん変わっていくので、もう「少年」と呼称を定めてしまうことに決めたのは記憶に新しい。
彼が治療行為を行えるのかは不明だが、まあなんとかしてくれるだろう。なんてったって、カミサマなのだから。
「はあ。ホントに大丈夫そうですね。噛まれたときはビックリしましたよ。だって子どもで女だから、絶対に大丈夫だって思いこんでいて……。次からは、もっとがんばります。わん」
ミオの口癖はいたって単純、「がんばる」だ。この一言にいろんな意味を込めている。今回なら例えば、「もっとがんばって油断しないように気をつける」、だろうか。
前に向けて挑戦する気概が感じられるので、オリはミオのこの口癖を結構気にいっていた。
がんばる、がんばる。
「ま、びーびー悲鳴あげなくなっただけマシね」
「うーん。というか、味方の注意がいきなりこっちに向いちゃうから、しかたないというか」
もちろん叫べるものなら叫びたい。激痛にのたうつがまま、腹から奇声をあげまくりたい。
「うん、悲鳴あげていいならあげたいよ。小さかろうが大きかろうが怪我って痛いよね。ずっきんずっきんするよね」
「う、私はあんまり怪我とかしないので分かりかねます」
「……確かに、ミオの体って岩みたいに硬いもんね」
そのしなやかで敏捷な動作からは想像もつかないくらい、ミオの肉体はがっちりしている。
ミオは筋肉の鍛錬のためだけに時間を費やしているわけでもないので、これは種族差のようなものかと思う。
「爪と歯はもーっと硬いですよ」
ミオがにっと微笑んで珍しい表情をつくると、鋭い犬歯がちらりとのぞいた。その顔のそばで、アピールするように手が揺れる。今はきちんと手袋に覆われているが、戦いのときになると指先から厚みのある爪が飛びだすのをオリは知っている。
だから少し頬をひきつらせてから、避けるように体をミオから遠ざけた。
彼女が自分を故意に傷つけることはないと分かっているが、結構うっかり屋なミオだ。手がすべって思わず、なんてことは否定できない。
「どちらも私にとっては自慢できる武器なんですけどぉ、隙間にゴミがはさまるのがちょっと……」
「ま。武器といったらやっぱ私のよ。コレ、コレ! ちゃらーん、妖精族の秘宝! オークの樹から授かった枝で、じっくりこってり造りました! その名もそのまま! 妖精の杖!」
「借りパクは黙ってろよ」
リューリンが持つその杖は、試しに使ったオリも思わず引いてしまうほどの高性能っぷりだ。
その持ち運び余裕ですなコンパクトさ、相手を問わない一撃必殺の威力に、状態異常付加の効果まである。おまけにサイレント機能までついているので、いわゆる影のお仕事――暗殺やなんかには最適だろう。つまり人類が手にするには早すぎる一品である。
しかし、これは彼女自身の物ではない。
彼女が属していた妖精グループにおける門外不出のお宝で、しかもその中でもトップクラスで貴重なものだったのである。我が家における通帳と印鑑、と言いたいところだが、そんなレベルではないのだ。
リューリンの話を聞けば聞くほどなぜかこちらが身につまされるような思いになるオリだったが、当のリューリンは平然としている。
「だからパクったんじゃないって。ちょっとだけ借りて冒険――お散歩して? 帰ったらすぐ返すつもりだったんだってばァ」
「門外不出のものを持ち出した時点でアウトだと思うけどね」
「バレなきゃいいのよ、んなもん。それがあの虎公のせいで帰れなくなっちゃって――どれくらい経ったかしら? 分かんないけど、もう絶対バレてるわよね。ありえない。ホントあの虎ありえないわ。つまり、全部、あいつのせい」
「お前だよ」
オリはリューリンと共に暮らしていたらしい妖精達を、心から可哀想に思った。
「妖精は悪戯好きっていうけど、これはちょっとひどい……」
「いいのよ別に。妖精なんてけっこーロクでもない奴ばっかよ」
「それは知ってます」
間髪いれず答えたのはミオだった。凛々しいくらいの真顔に、オリも心から同意した。
そろって妖精に殴られた。痛くなかった。
『森』とは一転、オリ達は『川』について数分で、トップと難なく面会することができた。もうそれだけでオリの好感度は急上昇である。
「き、ムグッ」
ほんの一瞬、開きかけたリューリンの口をコンマ数秒でオリは塞いだ。本人もびっくり、珍しく自画自賛できるほどの神業だ。
できた理由は簡単、ソレを目にした瞬間、このとっても素直で嘘がつけない妖精が何を言い出すか予測できたためである。
答えは簡単、「気持ち悪い」だ。
「いやぁトゥケロくん。ひっさしぶりだねぇ。元気してた? いえーいいえーい」
「お久しぶりです、アンテナ殿」
癖のある無邪気な声できゃいきゃい喋っているのは、端的に言い表せば、ピンク色のイカだった。いや、イカにしては横に広いし少し形も変わっているし、もしかしたら新種のタコかもしれない。胴に比べてすこし短い十本の足が、うねうね動いて、その湿ったツヤのあるボディを支えている。
そして、人で言うところの頭部が、うっすらと黒く濁っていた。その様子からして、内蔵が透けているのだろう。じいっと目を凝らせば、その内臓器官の詳細を知ることもできそうだった。さすがにそれは遠慮したいオリは少し目を逸らした。
まあ、その濁ったところにさえ目を瞑れば、気持ち悪いなんて言うほどでもないだろう。むしろ体色のピンクは、色調明るくてかわいらしい。
「えっと、彼女たちは君の……お友だちかな? はじめまして、ボクはアンテナ。ここの長だよ。よろしくね!」
「はいどうもこれはご丁寧にすいませんね」
「ううん、素っ気ないね! 名前とか正体とかその他とか、教えてくれてもいいんだよ。電波と電波でお友だちだよっ」
「名前はオリ。正体はテレビ、出身はマバセ市」
「あ、君、嘘ついただろー。分かるよ分かるよー。嘘つきだって電波がぴんぴん知らせてくれてるよっ」
こう、相手に最高に困ってしまったとき、会話なんて考えながらするものじゃない。ただ感じて受け容れて返答するだけだ。そう、考えるな。感じろ。
「はいはい。私はオリ。種族は人類、出身は日本のどこか」
「うんうん、今度はホントだね。やっぱり正直が一番! ニホン、ニホン」
「まったくですね、デンパデンパ」
目なんて見当たらないというのに、この生物は一体全体どうやって周囲を認識しているのだろう。真っすぐ正面でこちらと対するアンテナに、オリは内心首を傾げる。これも彼の言う電波の仕業か?
「えへへ、君とは仲良くなれそうだな。よろしくね、オリ。ボクのことは気軽にアンテナって呼んでね」
ちょっと仲良くなった。
適当な回答がウケたのだろうか。理由はいまひとつ分からないまま、オリは後ろのほうへ下がってトゥケロに場を譲った。
途端、不必要なほど下がっていたリューリンがひらりと寄ってきてオリの肩にとまった。
「ちょっとオリ、あんたよくあんなのと会話できるね」
「リューリン、聞こえるよ」
「だから? それ私となんか関係ある?」
ふんぞり返った頬を、オリは指先でぐーっと押しこんで後ろに追いやった。
「私にはある。ちょっと黙っててちょーだい」
「はいはい、オッケーよ」
リューリンはまたひらりと軽やかに帰っていった。
――この後ろ姿だけ見ていれば可憐な妖精そのものなのに、もったいない。
「で、トゥケロ。一体全体、僕に何の用があってこんな所まで遠路遥々やって来たのかな?」
「すでにご存知かと思いますが、うちの領土『森』の住人一人が、何者かに襲われました。今ここにいるオリ達のおかげで怪我はありませんでしたが、問題はそれがどこかの誰かの依頼、もしくは命令により起こったものだということです。その件については、すでにうちの長が――」
「うんうん、お手紙ならちゃんときたよ! でもまちがえて水に浸かってぐっちゃになっちゃたから、全く読めなかったんだよねー」
「…………一応、『関係ない』と書かれた返事が届けられていたのですが、それは」
「適当」
「……」
相性悪そうだな、となんとはなしに思っていたのだが、本当に悪いらしい。
トゥケロは直前まで『川』行きを渋る素振りをみせていたのだが、その理由はなにもここが得体の知れない場だからというだけでなく、ただ単にこのアンテナと顔を合せたくなかったからでもあるのだろう。
――任務を受けた以上来ざるを得ないのだから、組織に生きる人間というのは大変だなぁ。
きゃぴきゃぴ明るい声をだすアンテナと、そっと距離を取って彼(?)と対面するトゥケロを見ながら、オリは余所事のように思った。
まだ若干十代半ばであるオリにとっては、現代社会人の気苦労すらいつかの、遠い未来の話であったのだから、当然といったら当然のことなのかもしれない。
「なーんちゃってね。内容のことならちゃんと察しがついてるよ。うちが関わったかどうかってことでしょ? でしょ? ふふふ、アンテナ電波に抜かりなし。というか、普通考えてそれしかありえないか。というわけで、もっかい言うよ。うちはほんとに全く全然関係ないよ。少なくとも、僕とその周りはね!」
「つまり、その周り以外に怪しい動きが――?」
「いやー基本みんな陸上じゃ活動できないから。まず言葉も分かんないだろうし、ありえないよー」
あっはっはと自分のお腹をぺちぺち叩くイカを前に、トゥケロは脱力したように肩を落とす。
「僕でさえこうして水から出るのはしんどいからなー、気持ち的に」
「気分の問題……?」
「うん、別に行動する分にはまったく問題無いんだけどね。今みたいにさ」
今、オリ達がいるのは『川』の中である。といっても、水に浮かんで流されながらぺちゃくちゃお喋りしているわけでなく、ここは川の始まり、源流にある広い湖のちょうど中心地。
桟橋の先から続く、ガラス張りだろうか? ――謎の物質で造られた透明なドームのなかで、オリたちは会話していた。
もちろん周りからはまる見えだが、アンテナ曰く防音に関しては全く問題無いらしい優れものだ。むしろ逆に、こちらが水面下の世界をじっくり楽しむことができる。
「本当に綺麗なとこだよね、ここ。どんなすごい水族館も敵わないな……」
「君の方が、百億万倍は綺麗だよ」
「億と万はいらなかったかな」
「乙女心と秋の川」
オリは茶々をいれてくるイカを他所に、ほう、と溜息をついて透明な壁に手をつける。
『水神様のお腹』へと落とされた記憶が呼び起され、最初は水底へ下りていくことを忌避していたオリだが、こちらの世界はどこまでも明るくのびやかだった。
視界いっぱいに広がる薄青色は日光をなめらかに透かしながら流れ、天井――川の表面はそれに合わせてうるうると波打っている。時折小魚の群れが、銀の鱗を光らせオリたちの真横を横切っていく。水があんまり透明なので、目をじっと凝らせば川底の小石や砂利の数ですら数えられそうだ。
アンテナは感嘆の吐息をもらすオリに、自慢げにふふんと胸を張った。
「まあ、それはともかく。『草』でも『川』でもないとすると……」
「うん。君たちの自作自演でもないとすると、単純にそれ以外ってことになるかな」
トゥケロが何気なく零された言葉に渋い顔を作ったので、オリは慌てて間にはいった。
「それ以外ってことは、他の勢力ってことだよね。こんな感じのところがまだあるなんて、知らなかった」
「あはは、無いんだよね。ということはね、上か下からはいってきた奴になるんだけど――ううん、そんなの探したくないなぁ。見慣れない顔も気配もないから、どうせ水中にはいないもの」
「へー。顔と気配だけで分かるようなものなの?」
「ううーん、オリも見たら分かると思うよ。ほら、僕やトゥケロと、森の動物ちゃんや川のお魚ちゃんを見比べてみてよ。――ね、全然違うでしょ?」
「ここまで分かりやすいと、まあ……」
「うん。だいたいみんな、分かりやすーい見た目なんだー。考えたり、喋ったりするようになると、見た目がおかしくなっちゃうのかな? あれ、それとも逆? まあどうでもいーやあ」
「…………」
確かにそう言われてみれば、今まで人語を操り知性を有しているように見えた奴らはみな、巨体であったり特徴的な形をしていたり、どこか目を引かれるような形態をしていた、ような。
「あれっ、どうかした?」
「……ん、別に」
オリは違和感を覚えた気がしたが、それは掴みどころのないあやふやなまま、形になることはなかった。




