chapter 8
タクトに『絶対助ける』と伝えてから数日が過ぎた。最近、やけに襲われる人が増えてきた。ついに、アクマが動き出したのかと思う人が多くなった。
そんなある日の午後だった。アヤは、ハルルの古代文字の授業を受けていた。珍しく眠らないで話を聞いていると、突然頭の中に声が響いた。
『アヤ、今時間あるか?』
その声は、クリスのものだった。アヤは落ち着いて、頭の中でクリスに言葉を返す。
『授業中。まぁ、抜けられるだろうけど…。今すぐの方がいい?』
すると、すぐに返事があった。
『できれば』
『判った、今から行く。場所は?』
『あの丘の上だ』
クリスとの会話が終わると、アヤはノートの片隅を切り取って短い文を書いた。そして、手を挙げてハルルに声をかけた。
「ハルル先生」
「どうしたの? アヤちゃん」
「ちょっと急用を思い出したので、早退させて下さい」
アヤはそう言いながら、ハルルを呼ぶ前に事情を書いたメモを渡した。誰かに読まれると困るため、古代文字に詳しい人でも読むのが困難とされている文字で書いてあった。ハルルは、難無くそのメモを読んだ。
『クリスに呼ばれた。詳しいことは後で話す』
ハルルはメモを閉じて、一度息を吐く。
「判ったわ」
「ありがとうございます」
アヤはお礼を言うと、そのまま教室の窓から出ていった。ハルルは、何事もなかったかのように授業を再開した。
アヤは走って丘に向かった。城からも学校からも遠い丘だが、アヤの呼吸はなかなか乱れなかった。丘が見えてくると同時に、丘の上に一人の少年の影も見えた。
「クリス」
丘を登ったアヤが、クリスに声をかけた。走ってきたにもかかわらず、アヤの呼吸はあまり乱れていなかった。
「来たか。…にしても、結構早かったな」
「物分かりのいい先生の授業だったからね」
「それでもだ」
「走ってきたんだもの、当然でしょう?」
アヤの言葉に、クリスの目が大きく開かれた。それもそうだ。学校から丘までの長い距離を走ってきたはずなのに、アヤの呼吸はそれほど乱れていなかったのだ。普通なら、疲れて途中から歩きだしたり、丘に着いたところで肩で息をしたりするはずだ。
「で、話って何?」
クリスが驚いているのをよそに、アヤは本題に入ってきた。
「あ…あぁ、そろそろ本当に時間がない」
「なんで、そのことを知って…」
今度は、アヤが驚く番だった。このことは、タクトにしか話していないのだ。だから、クリスが知っていることに驚きを隠せなかった。
「タクトが話してくれたからさ」
「そう」
落ち着いた声で返事をしながら、クリストタクトは随分と仲が良いんだなと思う。
「なぁ、タクトを助けたら、主様がお前の存在に気付きかねない。そしたら、お前が危険な目にあいやすくなるかもしれない」
クリスがアヤを心配して、これから起こるかもしれない可能性を言った。そして、一度間をおいてから静かな声で尋ねた。
「それでも、タクトを助けるのか?」
「助けるよ」
即答だった。
「もう、決めたことだから」
そういうアヤの瞳には、強い意志の光があった。それを見てとったクリスは、静かだが強い意志のこもった声で言った。
「判った、協力する」
その言葉に、アヤは再び驚く。そして、ずっと疑問に思っていたことを口にした。
「ねぇ、なんで私のためにそこまでしてくれるの?」
アヤの問いを聞いたクリスは、本当のことを言うか悩んだ。少し考えて、おどけた調子で別のことを答えることにした。
「優しいアクマなんだろう?」
「答えになってない」
すぐに否定され、
「…俺の事情だ。まだ話せないけどな」
仕方なく本当のことを答えた。
「…ありがとう」
アヤは深く聞こうとせず、お礼を言った。自分が話したくないことを他の人に尋ねられるのが嫌いなアヤは、他人にもあまり詳しいことを聞かないようにしている。それは、クリスにも同じことだった。それに、クリスは『まだ話せない』と言ったのだ。まだということは、いつかは話してくれるということだ。アヤは、クリスが話してくれるまで待つことにした。
少しの沈黙の後、突然クリスが口を開いた。
「なぁ、もしかしたら、俺がタクトを操ることになるかもしれない」
珍しく、クリスの声は小さかった。クリスはAクラスアクマで、その上には、アクマ達に命令を出す人がいる。たとえそれが嫌なことだとしても、クリスはその命令に従うしかない。
「仕方ないことだよ」
アヤは優しい声で言った。
「判ってる。でも、辛いんだ」
仲の良かった人を、自分の手で操ることになるかもしれない。それは、誰だってやりたくないことだ。
「できるなら、そんなことしたくない」
クリスは、Aクラスのアクマであると同時に、アヤが言うように優しいアクマでもある。
普通のアクマならなんとも思わないことでも、クリスには辛いことだった。
「だから、早めに助けてやってくれ」
自分がタクトを操る前にアヤが操りの術を解いてしまえば、自分は辛い思いをしないで済む。わがままだと判ってはいるが、願わずにはいられなかった。
「努力する。でも、どうなるかは判らない。けど、絶対にタクトは助ける」
「判った」
話が終わると、クリスは姿を消しアヤは学校へと戻った。
学校に着き、かばんを取りに教室へと向かう。既に下校時間は過ぎていて、どの教室にも人はいなかった。自分のクラスである月組の教室の中へ入ると、アヤに声をかける人がいた。
「おかえり」
「ただいま…。残ってたんだ」
中にいたのは、アヤのクラスの担任で、アヤと友達のような関係にあるハルルだった。ハルルは、アヤの席に座っていた。
「まぁね。あ、ユキちゃんはちょっと前に帰ったよ」
「はるるんが帰したんじゃなくて?」
いつもの調子でアヤが返すと、ハルルは困ったような笑みを浮かべた。
「鋭いなぁ。確かに、ちょっとそんな感じだったけどさ…」
そして、いつもより早く認める。
「でも、アヤちゃんだってユキちゃんがいない方がよかったんでしょう?」
少しあきれた様子のアヤを見て、ハルルが言う。すると、アヤは少々気まずそうに肯定の言葉を口にした。
「まぁ…ね。否定はしないよ」
「ほらね。で、何を話したの?」
アヤは前の人の席からイスだけ引いて、ハルルと向かい合うように座る。そして、クリスと話したことを聞かせた。
「時間がない、ねぇ…」
話が聞き終わると、ハルルは一人呟いた。
「仲間のクリスくんが言うんだから、それは本当なんだろうね」
「…どうすればいいんだろう」
珍しく、アヤは弱い声で言った。
「助けるとは言ったけど、あの時は半分勢いで言っちゃったから…」
「アヤちゃんにしては、珍しいことだよね」
ハルルが苦笑いを浮かべる。
「勢いで言ってるように見えても、多少は何かを考えてるっていうのにね…」
「…あの時は、本当に必死だったんだよ」
タクトを納得させようと、必死になっていた日のことを思い出しながら言った。今思えば、先のことを考えていなかったことに気付く。ただ、どうしてもタクトを助けたくて、アヤは喋っていたのだ。
「そうだろうね。ま、今から考えれば大丈夫だよ」
「うん…」
反応を示すアヤは、まだ元気がなっかった。
「どうかしたの?」
「いや、なんでもないよ。それじゃ、私はもう帰るね」
アヤはかばんを手に取ると、明るく言い放った。しかし、心の中はまだ沈んだままだった。
今から考えて、間に合うのだろうか。もう、手遅れのような気がしてならないアヤは、なかなかいつもの調子に戻れずにいた。
「判った。気をつけてね」
ハルルは、アヤの気持ちがまだ沈んでいることに気付いていたが、明るい声といつもの笑顔で返した。アヤが教室を去ると、薄暗い部屋にはハルルの一人だけになった。教室に差す、夕日の朱い色。ふと窓から外を見て、ハルルは呟いた。
「…本当、悪いことが起こらなければいいんだけど…」
その呟きは、朱く染まった教室に響いて、消えていった。