chapter 7
タクトの呟きは、独り言のようでそうでないような言い方だった。タクトの近くまで来たアヤは、彼の名前を口にした。
「…タクト」
「アヤ、こんな時間に危ないよ」
タクトは、アヤの方へ振り向かないで言った。その言い方やその声色は、以前と違って優しいものだった。
(こっちが、本当のタクトなのかな…)
「眠れ、なくて…。タクトこそ、どうしてここに?」
「…うん、アヤに話すよ」
静かに言われたその声は、何処か哀しみを含んでいるような気がした。
「夜はね、操りの術が弱まるのか、自分の意志で行動できることが多いんだ。それに、アヤも多分知っていると思うけど、この丘は闇系の術を弱らせる力があるみたいなんだ」
そのことは、アヤも知っていた。
「僕がよく此処に来るのは、それが理由なんだ」
「そうだったんだ…」
「でも、そろそろ本当に時間がなくなってきてるんだ。僕が、僕でいられる時間が、ね…」
今度は本当に、哀しみと諦めが含まれていた。
魔力の強い相手に操られているため、もう自分ではどうすることもできない。
「だからアヤ、そろそろ僕に関わるのはやめた方がいいよ。何時か、アヤを傷つけるかもしれないから」
優しく接してくれた人を傷つけたくない。だから、もう別れた方がいいのだと、タクトは考えていたのだった。
一方、別れを告げられたアヤは、迷っていた。
タクトを助けたい気持ちはあるが、時間がなくなってきている。そのうえ、確実に助けられるかすら判らない。タクトの言う通り、大人しく引くべきかもしれない。しかし、もしここで引き下がったら…。
「嫌だよ」
「アヤ…」
沈黙がおりる。
流れる雲が白く輝く月を隠し、辺りが暗くなる。
「ねぇ…。私がタクトを助けるよ」
アヤの声が、やけに大きく響いた。
「危ないよ」
「そうかもしれない」
「かも、じゃない。危険すぎる。もしかしたら、アヤを傷つけるかもしれないって言っただろう?」
止めようとするタクト。
「いや、もしかしたらじゃない」
タクトは、首を横に振って訂正する。
「僕を操ってる人、主様がアヤのことを知ったら、僕は確実にアヤを傷つけることになる。そんなのは、嫌なんだ。だって…」
そこで一度、タクトは言葉を切った。そして、一呼吸おいてから後を続ける。
「アヤは、僕に優しくしてくれた。そんな人を傷つけたら、僕は自分を嫌いになる」
「タクト…」
タクトの気持ちも判るアヤは、また揺れた。
「お願いだ、アヤ。僕を助けようとして、傷つかないでほしい。それなら、助けなくていい。アヤを傷つけるくらいなら、僕は助からなくていい」
その言葉が決め手だった。
「嫌だ」
アヤは即答した。もう一度、新たに決意した。
「アヤ…」
「嫌だよ」
簡単には揺らぎそうのない、意志の強い声だった。
「タクトが反対しても、私はタクトを助けるよ」
これが、ようやく見付けた答えだった。悩んで、誰かに相談して、そして本人の話を聞いて出した答え。それは、そう簡単には変わるものではなかった。
「なん…で…」
「私が、決めたことだから」
そしてアヤは、笑った。タクトはアヤが笑みを浮かべたことに驚き、その後渋々と頷いた。
「…………判った」
「なるべく早く、術を解くから」
「待ってる。ただ、これだけは言わせて」
タクトがまっすぐアヤを見る。アヤも、タクトの瞳を見た。
「もし、アヤを傷つけたら、ごめん」
「気にしないから大丈夫だよ」
アヤは優しい声で言った。タクトが、ほんの少しだけ嬉しそうに口元を緩ませた。
「あと、なるべく怪我をしないでほしい」
操られた自分が、アヤに攻撃することになるだろうと、タクトは予想していた。状況によっては、アヤが怪我をするであろうことも。
「うん」
アヤは静かに頷いた。
風が吹き抜ける。それと同時に、タクトが短い別れの言葉を呟いて姿を消した。その場に残ったアヤは一人月を見て、決意を新たにした。
次の日の放課後、アヤはハルルと教室で話をしていた。
「昨日の夜ね、いつもの丘でタクトに会ったの」
「夜、外に出たの?」
ハルルが呆れた声で尋ねると、アヤは小さく「うん」と頷いた。普通ならここで何か言う人が多いが、ハルルはそうしなかった。夜、時々アヤが外に出ることは知っていたし、重要なのはそこではないと判っていたからだった。
「それで?」
「タクトは、誰かに操られてるって…。今はまだ平気だけど、そのうち完全に操られるだろうって」
「前に話してたね」
「うん。それで、危ないからもう近付くなって…」
アヤの声がだんだん小さくなり、アヤはしゅんと下を向いてしまった。
「なんとか、してあげたいのに…」
「そうだね。でも、タクトくんもアヤちゃんのことを想って、そう言ったんだと思うよ?」
ハルルが優しい声で言う。
「うん。それは判ってる。けど、どうしてもこのまま別れるのが嫌で、助けてあげたかったから…」
アヤが気まずそうに言葉を切る。すると、ハルルは困ったような笑顔を浮かべて、アヤが言おうとしていたことを先に言った。
「もしかして、『嫌だ』って言ったの?」
こくん、とアヤの首が縦に振られる。
「そして、『助ける』って言ってきたの?」
再び、アヤの首が縦に振られ、ハルルは苦笑いを浮かべた。
やっと気まずさが消えたアヤは、その後タクトと話したことをハルルに聞かせた。
「そっかぁ。タクトくんの気持ち、判らないでもないけどさ、もう少しタクトくんの言い分も受け入れてあげなくちゃ」
「う、うるさいなぁ。昨日は必死だったの」
「それはそうかもしれないけどさ。でも、ちゃんと本人に伝えられたんだからよかったね」
にっこりと笑うハルル。アヤは、少し照れながら「うん」と頷いた。
「ま、いい方向に進んだんじゃない? 私にできることだったらなんでもするから、困った時は相談してね?」
「うん…努力する」
すぐ頷いたアヤだったが、少ししてから小声でつけ足した。
「『努力する』じゃなくて、絶対だよ!」
「うん、判った」
強く言ってきたハルルに、アヤは笑みを浮かべた。
「今、笑ったでしょ」
確信をもって、ハルルが言う。
「笑ってないよ」
即答しつつ、アヤは先程よりも笑みを濃くする。
「嘘つき。何で笑うのよ」「笑ってないって」
尚も、アヤは否定する。
「笑ってた! 私、ちゃんと見てたんだから!」
子供のように大きな声で言うハルル。アヤはそんなハルルを見て、子供みたいだなと思う。
「判った、認めるよ。でも、悪い意味じゃないんだよ?」
アヤは笑ったまま言った。一方、ハルルはふざけたままで、少々怒っている。
「ただ、はるるんらしいなって思っただけ」
「そうなんだ。でも、今は違うでしょう?」
あっさりといつもの調子に戻り、尋ねる。
「ん? まあね」
今度は悪びれもせずに答えた。
「むぅ…」
再び子供のように振る舞うハルルに苦笑して
「ほら、そんなに怒んないでよ」
「もう! アヤちゃんのせいだからね」
「違うけどね」
ハルルの言葉に、アヤはいつもの調子で返した。
「冷たい…」
「自業自得。でも、ありがとね」
パッと気持ちを切り換えてお礼を言うと、ハルルもふざけるのをやめた。
「何かしたっけ?」
故意に言われた言葉に、アヤはきょとんとする。しかし、すぐに別れの言葉を口にした。
「いや、なんでもない。じゃあ、また明日」
「うん」
表面上は教師と生徒という立場だが、二人は友達同士のように別れを告げた。