chapter 5
数日経った日の放課後、アヤはお気に入りの丘に来ていた。春の暖かい風が吹く度に、アヤは気持ちよさそうに目を細める。木に寄りかかって本を読んでいたが、栞をはさんで本を閉じると伸びをした。
「何の本を読んでたんだ?」
不意に、木の後ろから少年の声がした。人の気配を感じていたアヤは、驚くことなく声を返す。
「昔の物語。読む?」
手にしていた本をクリスの方へやりながら言う。本を受け取ったクリスは、タイトルの文字を見て目を丸くした。
「これって、上級古代文字じゃないのか?」
「そうだけど、何か?」
驚いているクリスを後目に、アヤは普通に答える。
「いや…。ただ、この文字は大人でも読める奴が少ないんじゃなかったのか?」
「そう言われてるよね」
「古代文字の教師でも、読めない奴の方が多いんじゃ…」
「あぁ、聞いたことあるかも」
「読めるのか?」
「もちろん」
アヤは正直に答えた。それでも疑っているクリスは「本当に?」と訊く。アヤは一度溜め息を吐くと言った。
「さっきまで、そこで人のことを観察しておいて疑うの?」
「いや…。やっぱり気付いてたんだな」
クリスは何気なく呟いた。
「当たり前でしょう?気付かれないとでも思ってたの?」
「思ってねぇよ。てか、思うわけないだろう? 相手がお前なんだから」
「あ、そう」
素っ気なく返されたクリスは、黙ってしまった。
だいぶ陽が傾き、草原に吹く風がほんの少し冷たくなってくる。そろそろ夕刻の鐘が鳴る時間だ。
「お前に、あまり外をうろつくなと言っても無駄だろうから言わねぇ。けど、気をつけろよ」
クリスが本を返しながら言う。
「判ってる。けど…ありがとう」
アヤが言い終えるや否や、クリスは姿を消した。クリスが去ってしまってもアヤはまだ丘にいたが、少しして立ち上がると丘を後にした。
賑わう街の中を歩いていると、前方に親友の姿が見え、こちらに向かって歩いていた。まだ気付かれていないため、見付かる前に違う道に入ろうとしたアヤだったが、その前に気付かれてしまい声をかけられる。
「…ユキ。こんなところでどうしたの?」
「それはこっちの科白よ」
どうやら怒っているようだ。面倒だなと思っていると、ユキが勝手に話し出した。
「アヤに会いに行けば、出かけてるっていうじゃない。少しすれば戻ってくるだろうからって待ってたのに帰ってこないから、諦めて家に帰ることにしたのよ。そしたら、こんなところでアヤを見付けたのよ」
ユキが怒るのも無理ないなと思いながら、恐る恐る聞く。
「ちなみに、どれくらい待ってた?」
「二時間よ! 一体、どこで何をしてたのよ!」
案の定、怒鳴られた。しかし、何年も同じようなことを繰り返してきたアヤには慣れてしまっている。
「…それは悪かったね」
「全然悪かったと思ってないでしょう。で、どこで何をしてたの?」
「いつもの丘で、ちょっと…ね。そしたら、Aクラスのアクマに会った」
いつものことだが、ユキが溜め息を吐く。
「あのね、いろんな人に夕方はなるべく外に出るなって言われてるでしょう?それに、人気が少ないところに行くなんて。何かあったらどうするの?」
親友というよりもむしろ、母親のような口調になっている。アヤは笑いながらも、堂々と答えた。
「何もなかったから大丈夫」
すると、ユキが呆れた表情を浮かべる。
「あのねぇ…。今回は平気だったけれど、他の時は何があるか判らないでしょう?」
「大丈夫だって」
「……その自信はどこからくるのよ」
「私が強いから」
アヤが明るく言うと、ユキが睨んだ。睨まれた方は、特に気にすることなく笑っている。
「冗談だって」
ユキはどっと疲れが増したように感じた。
「いつもちゃんと気をつけてるから、大丈夫だよ」
「気をつけてるだけじゃ、駄目でしょう?」
「だから、ちゃんと気をつけてるって言ったじゃん。一人でいる時は、アクマの魔力を感じるようにしてるの」
ユキの目が少し、大きくなる。それを見たアヤは、頬を膨らませた。
「なあに? そんなに驚かなくてもいいじゃん。私だってそれくらいはやるよ」
「そういえばそうだったわね」
「だから、大丈夫なの」
今度こそユキは呆れた。二人で城への道を歩き出す。正確には、城に帰ろうとしたアヤに、ユキが後からついていったのだ。
「で、私に会いに来たってことは、何か用事があったんじゃないの?」
「たいした用事ではないのよ。ただ、この間借りた本を返しに行っただけよ。本は、アヤの部屋に置いてきたわ」
「わざわざありがとう」
感謝の気持ちがこもっていないような言い方にムッとしたユキは、隣を歩くアヤを睨んだ。睨まれた方は、気にすることなく歩き続けていた。
「…なんだか、騒がしいわね」
城の前の噴水広場が見えてきたころ、ユキがぽつりと呟いた。夕方の街の賑わいではない。すぐに、二人はアクマの仕業だということに気が付いた。
「逃げるわよ」
ユキがアヤの腕を掴み、城とは反対方向に歩き出す。
「あぁ…家が遠くなってく…」
ユキに引っ張られながら歩くアヤが嘆く。
「ふざけてないで、ちゃんと歩きなさいよ!」
「ちゃんと歩ってる…よ」
アヤの言葉が不自然に途切れる。ユキは焦りと怒りのせいで、そのことには気付かなかった。今度は逆にアヤがユキの手を掴み、民家の立ち並ぶ小道に入っていこうとした。
「ちょっと!」
ユキが声を荒げ、足を止める。
「何で小道に入ろうとしているのよ!」
「アクマから逃げるためだよ」
「それだったら、このまままっすぐでも問題ないでしょう?」
ユキの言っていることはもっともだったが、アヤは譲ろうとしなかった。
「そうだけど…前の方にアクマがいるんだよ」
「前の方…?」
ユキが前方に目をやるが、アクマらしき人は見当たらない。
「姿が見えないけど?」
「さっき気配を感じたの」
「私は感じなかったけど」
「でも、そこにい…ユキ、危ない!」
「えっ?」
叫ぶと同時にユキの目の前に飛び出したアヤは、防御魔法で自分とユキの身を守る。しかし、術が不完全だったため、アヤは少しだけ攻撃を受けた。
「アヤ!?」
「だい…丈夫。ちょっと攻撃を受けちゃっただけだよ」
心配するユキに、アヤはにっこりと笑ってみせた。
「でも、このままじゃまずいな…。ユキ、早く逃げて」
珍しく、アヤの声が真剣なものになる。
「で、でも…」
「いいから早く」
アヤとユキが話をしている間に、次の攻撃が飛んできた。再び、アヤが防御魔法で攻撃を弾く。
アヤはユキの言いたいことを判っていた。親友を残して自分だけ逃げるなんてできたいし、したくもないと言いたいのだ。ユキを説得するために、アヤは身体ごとユキの方に向けた。
「ユキの言いたいことは判ってるよ。でも、逃げてよ」
「そんなことできないよ!アヤは、親友なのに…」
「気持ちは嬉しいけど、私じゃユキを守れないから。だから、お願い」
判って? と言うように、アヤはユキの目を見た。しかし、すぐに視線を逸らされる。アヤが三度目の攻撃に気付き、ユキに背を向けた。とっさに防御魔法で防ごうとするが、予想以上に強い攻撃で、防ぎきれなかった分を受けてしまう。
「アヤ!!」
「大…丈夫」
そう言って笑ってみせるアヤだが、辛そうにしている。
「私のことは平気だから、逃げて。このままじゃ、ユキも危ないよ」
「できないよ。だって、怪我してるじゃない! そんな人を放っておけないわよ」
「うん。それでも、逃げてよ」
ユキに逃げるように言うアヤの声は、哀しみを含んでいた。
短い会話の間に、次々と光の玉が飛んでくる。一応防いではいるものの、いくつかは防ぎきれずに当たってしまう。このままではまずいと思ったアヤは、泣きそうな表情をしたまま立っているユキの手をとって、人気の少ない民家の方へ走り出した。その後を、三人程のアクマが追いかける。
「アヤ、大丈夫?」
「これくらい、平気だよ」
ほんの一言会話しただけで、二人は無言で走った。
すぐに民家が少なくなり、隣の領地へ続く道の一つである小道を走る。この道はちょっとした森の中にあるため、全くといっていいほど人気がない。小道を少し進んだところに小屋があり、アヤはその小屋の中にユキを押し入れた。そして、魔術の鍵をかけ、中から出られないようにした。
「アヤ! ねぇ、何を考えているのよ!」
中からユキが叫ぶ。
「ユキ、学校で習う戦い方と実際の戦いは違うものなんだよ。それに、狙われてるのは私なんだよ。ユキまで巻き込むわけにはいかないよ」
「そんな…」
「そろそろお話もおしまいかな」
「アヤ!!」
「大丈夫。Cクラス三人だったから、心配いらないよ」
アヤの言葉がちょうど切れた時に、追いかけてきた三人のアクマが姿を現した。
「アヤ・フォルアナ・ウィルソン、用があるのはお前だけだ」
「そうだろうと思ったよ。狙いが私じゃなかったら、今ごろ街で人を襲ってたんだろうからね。わざわざ、こんな森の中にまで来なくても済むはずだもんね」
アヤの物言いに、三人はムッとする。
「何だ、強がりか?」
「本当のことを言っただけだよ」
「ちょっとアヤ。相手を怒らせてどうするのよ」
小屋ね中で、アヤとアクマの会話を聞いていたユキが口を挟む。
「怒らせるつもりはなかったんだけど…」
「お喋りで時間稼ぎがしたかったのか? だが、残念なことに、そんな時間をくれてやるつもりはない」
「時間稼ぎをするつもりもなかったけどね」
「さっきまで攻撃を防ぎきれていなかったくせに、よく言う。今も、三対一なのは変わらないんだぞ?」
「そうだね」
確実に不利だというのに、アヤはずっと落ち着きを保っている。そんなアヤを見ているアクマの方が、焦りを覚える。
「何故、そんなに落ち着いていられる?」
「さぁ? 何故だろうね」
アヤが楽しそうに笑うのを見て、アクマ達は少し後退る。
「しいて言えば、本気を出してなかったから、ちょっとだけ出してみようかと…」
「なっ!!」
驚いたアクマ達は、一斉に攻撃しようと呪文を唱え始める。しかし、彼らよりもアヤの方が、唱え終えるのが早かった。
「ちょっと遅い、かな」
そんなことを言いながら、沢山の氷が三人のアクマを襲う。なんとか全て防ぎ反撃しようとするが、できなかった。アヤが三人に向けて光の玉を放った後だったからだ。光の玉は、それに込めた魔力の量により強さが変わる。アヤが放ったのは、Cクラスのアクマでは防げるかどうか判らないもので、三人は防ぎきれずに攻撃を受けた。そして、自分達では勝てないと思った三人は、何も言わずに姿を消した。
「…ふぅ」
「ごくろーさん」
ユキがいる小屋の陰から、アヤのよく知る少年が姿を現した。
「クリス…」
「強いんだな」
「そう? それにしても…疲れた…」
アヤが小屋の壁に寄りかかる。
「そうだろうな」
クリスは笑いながら、アヤの隣に立つ。魔力を使いすぎると眠くなることがあるが、今のアヤもそんな状態だった。
「無理してたのか?」
「…してないよ」
そう答えるアヤだが、いつもより声が小さい。クリスは溜め息を一つ吐くと、アヤを横に抱えた。
「えっ? わっ、ちょっと!」
「何だ?」
「何だ? じゃないよ。降ろして!」
突然お姫様抱っこされたアヤは、驚いた後に暴れた。
「暴れるなよ。落ちるぞ?」
クリスの言葉に大人しくなるが、アヤは機嫌を悪くする。
「お前のことだ。どうせ、街にいた時から俺の気配に気付いてたんだろう? 何をしに来たのかも、判ってるんじゃないのか?」
「………」
クリスの言った通り、アヤは街にいる時から彼の気配に気付いていた。だから、三人のCクラスアクマを連れて、この森に来たのだ。
ずっと黙っているアヤから肯定ととったクリスは、優しい声でアヤに言う。
「無理して起きてなくていい。早く、寝ろ」
「その前に、一つ…やることが…」
「何だ?」
「ドアに近付いてよ」
降ろしてもらえないと諦めたアヤがクリスに言うと、クリスはアヤの言葉に従った。
「…アヤ?」
中から、アヤの心配をするユキの声がする。
「ユキ、私は大丈夫だよ」
アヤが優しく告げると、
「よかった」
中から安心しきった声が返ってきた。
「ユキ、もし私が明日登校してこなくても、私は平気だから心配しないでね?」
「まさか、無理したの?」
すかさず、ユキが尋ねてくる。
「してないよ」
「嘘…。アヤはいつもそう答えるから、もう判るわよ」
「そっか…。ごめん」
アヤは素直に謝った。沈黙が降りようとするが、アヤが口を開く。
「鍵、開けとくから。あと、さっき言ったこと、お願いね?」
そう言うと、アヤはドアにかけた術を解く。そして、クリスが森の出口へと歩き出した。
ドアにかけられた術が解けたことが判ったユキは、すぐに外に出た。ユキの瞳に映ったのは、見知らぬ少年に、アヤが連れていかれるところだった。その少年がAクラスのアクマだと気付いたユキは、慌てて家に帰った。
そのころクリスは、アヤを横抱きしたまま森の中を歩いていた。アヤも大人しくしている。というより、疲れのせいで今にも眠ってしまいそうだ。
「寝ていいんだぞ?」
「ん? …うん…」
クリスの言葉に頷いたアヤだが、まだ寝ようとはしなかった。
少しして、クリスがまた寝るように言おうと口を開いた。が、先にアヤが話しだしたため、口を閉じた。
「ねぇ…私は本気を出せない身体なのに、さっきは本気を出してみようかなって言った。なんだか、矛盾してると思わない?」
「おい。それ、どういうことだよ?」
クリスは尋ねたが、アヤは既に目を閉じて眠っていた。