chapter 2
始業日の次の日からは、当たり前のように授業が開始する。この日の月組の一限目は、ハルルが担当の古代文字だった。新年度ということもあって、ほとんどの生徒が真面目に授業を受けている。しかし、何人かは集中力がないのか、よそ見をしたり友達と話をしていたりする。
「それじゃ、この例文を誰かに読んでもらおうかしら」
古代文字の復習としていろいろ説明していたハルルが、教壇から教室の中を見渡す。ハルルは、窓際の列の一番後ろに座る生徒のところで目を止めたが、その人を指名せずに違う人を指す。指名された生徒は例文を読み、すぐに読み終える。
「はい、合ってます。じゃあ、次のページ。ここは…」
ハルルは説明しながら、先程目を止めた場所へゆっくりと歩く。ちょうどその場所に着いた時に説明が終わり、生徒達に練習問題をやるように指示する。そして、目の前の生徒を見る。
「…はぁ」
自然と溜め息が漏れる。ハルルが今見ている生徒、アヤは授業中にもかかわらず、すやすやと眠っていた。
「アヤちゃん」
ハルルがアヤの耳元で囁くと、ピクリと反応があり、ほんの少し顔を上げる。がすぐに、元に戻ってしまう。
「アヤちゃん、今は授業中だよ」
ハルルが再びアヤの耳元で囁く。
「眠い…」
即答だった。ハルルは少し考えた後、仕方ないなとでも言うように、溜め息を吐いた。そして、アヤの耳元でこう囁いた。
「寝てていいよ」
「ん…」
アヤは、ありがとうの代わりの返事をし、再び眠り始めたのだった。
授業終了の鐘が鳴ると同時に、教室の中が騒がしくなる。ハルルは教室を去る準備を整えると、荷物を持ってアヤの机のところまで行った。そして、アヤを起こす。
「アヤちゃん、授業終わったよ」
するとアヤは顔を上げ、まだぼーっとした瞳でハルルを見た。
「よく眠ってたね」
「……」
まだ意識がはっきりとしないのか、アヤは何の反応も示さない。
「疲れてたの?」
「…いや、疲れてはいないよ」
ようやく意識が戻ってきたアヤが答えた。
「そう。とりあえず、放課後あけといてね」
「何で…」
アヤが不機嫌そうに返す。ハルルはいつも生徒達に見せる笑顔になって、さも当然とばかりに言った。
「話があるからよ」
二年も一緒に過ごせば、おのずと相手のことは判ってくる。アヤはそれ以上何か言うのをやめ、諦めの溜め息を吐いた。
「じゃ、教室で待っててね」
ハルルはそう言って、教室を去っていった。アヤは、そんなハルルを恨めしい気持ちで見送ると、次の授業の準備をしたのだった。
放課後まで、アヤは眠ることなく授業を受けた。他の授業では居眠りなどしないアヤは、いろいろな先生から評判が良かった。
放課後、アヤは教室でハルルが来るのを待っていた。その間に、一人また一人と教室から生徒が去っていく。アヤは図書館から借りてきた本を、暇つぶし代わりに読んでいた。
フッと本に影が差し、アヤは顔を上げた。
「…ユキ」
そこには、明るい栗色の髪に茶色の瞳をした親友のユキ・フロイネ・トレイスンが立っていた。彼女の表情はどこか怒っているようだったが、アヤは気にしなかった。
「どうしたの?」
「それはこっちの科白よ。一限目から居眠りするなんて、何があったのよ?」
「ただの寝不足」
アヤはさらりと嘘を言ったが、親友であるユキにはお見通しだった。
「また嘘をつく。いつも言ってるでしょう? アヤはなんでも一人で抱えこみやすいんだから、ちゃんと話しなさいって」
「判ってるけど、まだ大丈夫」
「…はぁ」
ユキは何も話そうとしないアヤを見て諦めたのか、溜め息を吐く。
「なるべく早めに話してね?」
「うん」
「じゃあ、私は帰るわ」
「また明日」
ユキがアヤの前から立ち去ると、アヤは再び視線を本に戻した。しかし、すぐに別の人から声をかけられる。アヤが顔を上げると、今度はハルルが立っていた。
「『なんでも一人で抱えこみやすい』かぁ」
「先生が生徒の会話を盗み聞きしていいと思ってるの?」
「教室に入ろうとしたら、二人の話し声が聞こえてきたんだもん」
アヤが呆れて何も言えずにいると、ハルルがいつもより少し真剣な口調で尋ねる。
「最後の返事、私がいることを知ってたから、適当に頷いたでしょう」
普通の人なら驚いたり、慌てたりするだろう問いかけに、アヤは静かに「そうだよ」と答える。
「素直に頷かなかったら、またいろいろと言われるからね」
「だったら、ちゃんと行動に移すようにしてよ」
「なるべくそうしてるちもりだけど? で、話すことないんだったら帰るよ?」
アヤが本題に入るよう、言う。ハルルは、自分が本題に入るまでアヤは帰らないことを判っていたため、もう少し別の話をしようかとも思ったが、本題に入ることにした。
「昨日、何があったの?」
「何かあったの?」ではなく「何があったの?」という問い。ハルルは、確実に昨日の夕方にアヤに何かあったことを知っていた。
「『何かあったの?』じゃないんだ…」
「今朝のアヤちゃんの様子から、何もなかったわけじゃないことは判ったからね」
普段のハルルからは感じることはできないが、彼女は結構鋭い。アヤはもうハルルの鋭い物言いに慣れたため、落ち着いていられるが、初めのころは驚かされたしほとんどの人が意外に思うことだ。
話すまで帰してくれないだろうと思ったアヤは、ぽつりと言葉を漏らした。
「昨日、アクマに会った」
静かな声が、二人の他に誰もいない教室に響いた。
「クラスは?」
「Aクラス…二人」
「何処で?」
「街へ行く道のちょっと手前」
「いつ?」
「はるるんの家を出た後」
短い言葉のやりとりが続く。
「何もなかった?」
「声かけられたけど、何もなかったよ」
アヤの「何もなかったよ」という答えを聞いたハルルは、ふーっと息を吐いて「よかった」と微笑んだ。
「で、声をかけられたってことは、何か話したよね?」
「もちろん」
「何を話したの?」
「軽い自己紹介だよ」
アヤは詳しく話す必要はないと思い、そう答える。
「それだけ?」
「それだけ」
本当に自己紹介だけだったため、アヤは何も言わない。
「自己紹介だけだったのに、寝不足?」
「…ちゃんといつもの時間には寝たよ」
ただ、あまりよく眠れなかっただけで、とアヤは心の中で続きを呟く。
「あまり眠れなかったのね。で、何がひっかかってるの?」
「…よく、判らない」
ハルルは溜め息を吐くのではなく、また、優しく声をかけることもせずに、静かにアヤが続きを話すのを待った。
「クリスの言葉…とか、…タクトの瞳とか…」
自信がない分、声はとても小さかった。
アヤは自分で言った、タクトの瞳のことを思い出していた。よく注意していないと判らないようなことだったが、タクトの瞳は、少し感情の色がなかったような気がしたのだ。心が何処か別の場所にあるかのようで、アヤの心にひっかかってしまったのだ。
「どっちも気になるね」
そう呟いたハルルの表情は、いつもの笑顔からは思いつかない、真剣な顔をしていた。
「ま、判らないことを考えても仕方ないか」
その場の沈んだ空気を明るくするかのように、ハルルが明るい声で言う。その声で、俯きかけていたアヤの顔がハルルを見た。ハルルとアヤの目が合うと、ハルルはにっこりと微笑みを浮かべた。
「大丈夫、またあの二人には会えるよ! だから今は、ゆっくり休んだ方がいいって!」
「…うん」
「今日は残ってくれてありがとう。また明日ね」
ハルルはいつもの笑顔でアヤを見送る。アヤも微笑み浮かべ、教室を去った。
しかしその微笑みは、いつの間にか得意になってしまっていた作り笑いだった。ほとんどの人が気付かない程の作り笑いに気付いたハルルは、一人残った教室ので溜め息を吐いた。
「まったく…。作り笑いが上手くなるなんて…」
アヤを元気づけようと笑ってみせたが、作り笑いを見ることになってしまった。まだ、元気のない表情の方が、どんなによかったことか。
「ただいま…」
城に戻ったアヤは、親友のユキが来ていることを知らされ、客間へ向かった。
中に入ると、少し怒った顔をしたユキがソファーに座っていた。
「少し遅かったわね」
「はるるんと話をしてたからね」
「そう…。で、何かあったの?」
「昨日、アクマに会っただけだよ」
アヤはそう答えながら、ユキの向かい側のソファーに腰をおろした。
「普通、それだけじゃ今日みたいにはならないでしょう?」
「………」
「アクマと何かあったんじゃないの?」
「…話を、した」
沈黙がおりて、気まずくなった気がした。
「内容は?」
「軽い、自己紹介」
「それだけ?」
ユキがアヤに疑いの目を向ける。
「それだけ」
アヤは落ち着いた声で答えた。
「じゃあ、何で悩んでるのよ?」
「………」
その問いに、アヤは答えなかった。
「言ってくれないと判らないわ」
「……。何に悩んでるのかも判らない…」
アヤは仕方なく答えた。すると、ユキが驚いた表情をした。
「珍しいわね」
ユキの呟きを聞いたアヤは、下を向いた。ユキの言葉に傷ついたからではなく、ユキに申し訳なく思ったせいだった。アヤは、故意にハルルの時とは違う答えを言った。ユキには、これ以上深く問われたくなかったからだ。たとえ、ユキが親友だったとしても。
「判らないなら、仕方ないわね。今日はもう帰るわ」
ユキが立ち上がり、アヤはユキを送るために城の門のところまでついていく。
そして、門のところでユキと別れた。
ユキの姿が小さくなったころ、
「ごめん、ユキ」
アヤは呟いた。
(―――私はまだ、ユキに心を開ききってはいないんだな―――)
「今度は別のことで悩んでる?」
「うわっ!」
突然の声に驚いたアヤは、驚きの声を上げて声をかけてきた人のいる方へ顔を向けた。
「はるるんか。びっくりさせないでよ」
「驚かせるつもりはなかったんだけどな…」
「で、どうしたの?」
「心配だったんだよ」
アヤがどうして? と問うような表情でハルルを見る。
「教室を出る時、作り笑いだったでしょう?」
図星を指されたアヤは、ついっと目を逸らす。そんなアヤを見て、ハルルは心の中でやっぱり…と溜め息を吐く。
「笑えないんだったら、無理して笑わなくていいんだよ。作り笑いするくらいなら、辛い表情をしててよ。作り笑いを見るのって、結構辛いんだから」
「…ごめん」
アヤが下を向いて謝る。
「今度から気をつけてね。で、ユキちゃんにはどこまで話したの?」
「ちょっと悩んでるってとこまで」
「内容は言ってないのね?」
ハルルの問いに、アヤはこくんと頷く。すると、ハルルが大きな溜め息を吐いた。
「まったく。仮にも、ユキちゃんは親友なのにね」
「………」
ハルルの言葉に、アヤは黙ってしまう。
「あまり気にしないで。親友にも話したくないことがあるのは、当然だから」
「……。ユキには悪いんだけど、話したくなかった」
アヤが小さな声で呟くと、ハルルが困ったような笑顔を浮かべる。そして、アヤの頭を軽く叩く。
「仕方ないね。ユキちゃんはとてもいい人だけれど、ちょっとだけ事を大きくしちゃう時があるもんね」
ハルルの言葉を聞いたアヤは、顔を上げて彼女の顔を見る。そして、よく判ってるな、と感心した。
「どうしたの?」
「いや…よく人を見てるなぁ…って。ユキに話したくないのは、それが理由だから」
「そうだろうと思った。でも、アヤちゃんは一人で抱え込みやすいんだから、近くに何でも話せる人がいた方がいいんだよ?」
そのことは、アヤにもよく判っていた。しかし、今は
「はるるんがそうかな…」
と思っているのだ。
「それは嬉しいけど、同年代くらいの人がいいでしょうよ。恋人とかつくらないの?」
暗くなりかけていた会話が、一気に明るくなった気がした。
「つ、つくらないよ!」
アヤは慌てて反応する。
「へぇ〜」
「な、何…」
「本当につくらないの?気になってる人とかいないの?」
「今は…いない」
「いない」と言う前に少し間があった。
「即答じゃなかったね」
とハルルは笑う。アヤはハルルを睨んだ。
「睨まないでよ。それじゃ、また明日」
ハルルはいつも通りの笑顔を浮かべたまま、城を去っていった。
一人になったアヤは、溜め息を漏らした。
ハルルに心配させてしまっている。すぐにそう判った。ハルルはアヤのことを心配しているが、何があったかや何を考えているかなどを訊いてくることが少ない。アヤは、そのことに甘えて何も話さないでいるため、自然と一人で抱えこんでいることが多かった。
沈んだ気持ちのまま学校へ行けば、またユキに心配されてしまうことは目に見えていた。だから、アヤは夜中にこっそりと丘のある草原へ向かった。
「こんな時間に何してるんだ?」
木によりかかってぼんやりと月を見ていたアヤは、突然の声に驚いてビクッととした。暗闇から姿を現したのは、タクトだった。相手はAクラスのアクマだったが、アヤは身体の力を抜いた。タクトは何もしてこない。ただの直感にすぎなかったが、自分の勘がよく当たるアヤは、安心したのだった。
「ちょっと…眠れなくて…」
「普通、こんなところまで来るか? お前、城に住んでるんだろ?」
呆れた物言い。アヤは何も言わず、黙っていた。
「この場所、城から遠いはずだろ?」
タクトの言う通り、この丘は城から遠い場所にあたる。
「危ないだろ? ただでさえ、Aクラスのアクマがうろついてる時だってのに…」
自分もAクラスのアクマだということを棚に上げて言うタクトは、変わっているなとのんきに思う。
「アクマなのに、心配してくれるの?」
タクトの方を見て尋ねるが、彼は目を逸らしてしまっていた。しかし、気まずそうに小声で肯定の言葉が返ってきた。
「…そうだよ」
「ありがとう。そろそろ、帰るね」
アヤが立ち上がって歩き出すと、タクトが隣に並んで歩き出した。
「城の近くまで送ってく」
「…うん」
草原から街へ入る。夜の街は恐ろしいほど静かだった。道を照らすのは月明かりだけで、二人はその明かりを頼りに街の大通りを歩いていた。
「ちょっと止まれ」
アヤが他のアクマの気配に気が付くのと、タクトがアヤに声をかけるのがほぼ同時だった。
「ここまででいいよ」
アヤはタクトを見て言った。タクトもアクマの一人だ。今は何もしてこなくても、仲間と一緒になればそうはいかなくなる。早めに逃げた方がいい。そうしないと、一人で二人を相手にすることになる。
「ありが…と……?」
突然腕を引かれたかと思うと、アヤはタクトに抱きとめられていた。アヤが驚いてかたまっている間に、タクトは店と店の間にできている細いすき間に入った。
「なるべく魔力を隠してじっとしてろ」
アヤはすぐに、タクトに言われた通りにした。他のアクマの足音が近付いてきたが、二人には気付かずにそのまま通り過ぎていった。そのアクマの気配が感じられないくらいになったころ、二人はすき間から大通りへ出た。そして、城へ向かって歩き出した。
「…ねぇ、何で私を守ったの?」
「知らねーよ」
「知らないって……ちょっと」
どういうこと、とタクトを見る。
「俺にも判んねーよ」
本当に判らないのか、それともそうでないのかなど、アヤには判らなかった。
「そう…。あの、ありがとね」
お礼を言ったアヤだったが、アクマにお礼を言うのは不思議な気持ちだった。
城の近くまで来て、
「ここら辺でいいだろ」
とタクトが言って足を止めた。
「うん。今日はありがとう」
「…あぁ。あんま危ねーことすんなよ」
「判ってる。…けど…」
アヤは言いかけて、止めた。
「けど?」
タクトが続きを訊いてきたが、
「ううん、やっぱやめた」
と言って、続きを言わなかった。そして、二人は別れた。
自分の部屋に戻って、アヤはさっき言おうとしていていた言葉を思い出した。
『タクトなら、助けに来てくれそうな気がする』
アクマ相手に、そんなことを思うのは変だと判ってはいたが、タクトにはそう思わせる何かがあった。
(ひょっとして、アクマになりきれてないんじゃ)
ふと頭をよぎった考え。
(もしそうだとしたら)
アヤは頭を振った。その考えが本当のことだったら、自分はどうするのか。
これ以上考えたくなかったアヤは、布団にもぐって眠りについた。