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短編集  作者: 更級優月
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第一ボタンは赤い糸


 去る平成二十三年三月吉日、福島県全域の中学校で卒業式が行われた。ここ、六郷村立北中学校でも卒業式が行われ、合計百余人が通いなれた学び舎を後にした。

 他の卒業生が涙を浮かべて花道を歩く中、誰もいなくなった三年A組の教室に、二つの人影があった。ひとつは長身で学生服を身にまとい、短い黒髪に、狐のような目をした面長の少年だった。もうひとつは、漆黒のセーラー服に、背中の中ほどまで届くであろう同色の絹。玉のような輝きを秘めた猫そのものの瞳に、形の良い小振りな唇を持った美しい少女のもの。肩や頭上に疑問符を浮かべ、もう一方は端正な顔を朱に染め上げている。夕日の差し込む二人だけの部屋。沈黙を破ったのは、少女だった。

「町田先輩、私のお願い、聞いてもらえますか?」

 町田と呼ばれた長身の少年は、少女の顔をゆったりとした動作で見やる。僅かに笑みの浮かんだ形の良い顔は、橙色に染まっている。

「何かな、奥田さん」

「私、先輩の制服の第一ボタンを頂きたいんです」

 一瞬訪れた沈黙。町田は少々思案した後、徐に学生服の上着を脱ぎ始める。

「……たしか、第一ボタンだったよね?」

「あ……は、はい!」

 突如掛けられた声に驚くいちご。その様子を眺めながら、町田は制服のボタンをひとつ取り外した。

「はい、ご希望のもの」

 町田はそれをひょいと苺へ投げ渡す。危うくも、苺はそれを無事に受け取った。手の中にすっぽりと納まるそれの感触を確かめるように、彼女は小さな手の中で、金メッキの小石を転がす。

「それじゃあ、僕はそろそろ行くね」

 幸福な余韻に浸る苺に、ボタンをひとつ失った町田が片手を揚げる。苺は途端、何も言えない石のようになった。そうしているうち、町田は「またね」と言葉を残して、斜陽の差し込む教室を後にした。後に残された苺は、僅かに動けるようになった右手の中で、町田のそれを再び転がした。ゆっくりと視線を窓の外に向ける。彼女の双眸に、山々の向こう側へ旅立つ生命の灯火が映った。


 同年の四月某日。日本全国津々浦々、新学期が始まった。ここ、福島県六郷村立北中学校もそれに習い、苺を含む新三年生は、これからやってくる受験戦争の幕開けを少なからず予感していた。

 新学期になり、教室や取り巻く環境も新しくなり、「さあて、勉強するべ」と重い腰をよいしょと持ち上げる生徒たちの中、苺だけは違った。彼女は前学期の中学模試返却直後から、まるで何かに取り憑かれたかのように、毎日毎日机にかじりついた。一週間のうちに、彼女の隣には数冊のノートが置かれ、血色の良い健康そのものだった美貌は、徐々に病人のそれと変わらなくなっていった。目の下には隈が浮き始め、五月の末には、どんな人であっても立ち止まり、目を見開くほどになった。それまで勉強とは無縁で、学年最下位争いの有望株であった彼女をそこまで変えたのは、やはり町田学ラン第一ボタン事件であろう。あの瞬間、苺は愛しの先輩町田が進学した、県内トップの進学校へ行くと、心の中で固く決めた。と同時に、合格して町田に思いを告げることも同時に決定事項として、心の一番分かりやすい場所に刻まれたのだった。


 九月。いい加減起き出さないといけないなと周囲が焦り始めた頃、苺は学年筆頭株となっていた。それまでの主席は、次席に大差をつけていたものの、彼女は一呼吸のうちに、次席、主席の座を手に入れた。しかし、彼女はそれで満足するどころか、その異常なまでの勉強意欲を爆発させていく。

 ちょうどこの頃、彼女は二つの出来事に遭遇する。一方は、それまで主席であった根室ねむろ雪乃ゆきのとの交友を芽生えさせたことだ。きっかけは、苺が放課後、一生消えないのではないかという隈を引っさげ、机にかじりついていた時、偶然、雪乃が声を掛けたことから始まる。

「……隣、いい?」

 苺が歌舞伎役者のような化粧でのっそりと顔を上げると、そこには、まるで今まで陽を浴びた事がないのではないかと疑うほどに白い肌。左は青、右は黒というオッドアイ。水気を含んでいるかのように、しっとりとした黒のベリーショートという出で立ちの雪乃がそこにいた。

「えっと、根室さん……だよね?」

「……雪乃でいい」

「あっ…えっと、雪乃さん。どうしたの?」

「あなたと話がしたい。良いでしょう?」

「あ、うん。構わないよ」

 普段の雪乃は極端に口数が少なく、自ら他の生徒に声を掛ける事はほとんどない。無機質な声色だったが、苺にはそれがとても新鮮に感じられて、雪野の願いを快く受け入れた。

「いつからこのように?」

「うんと、三月の末からかな」

「今年の?」

「うん。今年の三月」

「何故?」

「……ちょっと、それは言えないかな」

「何故?」

「人前では恥ずかしいから、あまり言いたくないの」

「何故?」

「だから、恥ずかしいの!」

 苺の大きな声に、雪乃は自然に笑った。

 その後も、雪乃は普段の彼女からは想像もつかないほどに言葉を並べた。苺は、これまで雪乃という生命体は、実は精巧に作られた機械だと思っていただけに、思わず、手にしていたシャープペンシルを床に落としてしまった。

 そしてもう一方は、苺に悪い噂が立ったという事だ。突如として成績上位に名を連ね始めた彼女の事をよく思わない人間は少なからずいる。しかし、そのほとんどは、そのような感情を抱くのみであった。だが、苺と同じクラスの角倉かどくら優子ゆうこだけは違った。彼女は苺の成績上昇の理由を、偶然席が隣になった雪乃の試験答案を盗み見しているという噂を広めた。クラスの過半数がそれを信じ、苺を悪者に仕立て上げた。しかし、苺はそれを気にしないかのように、より勉学に邁進した。他愛もない噂は十一月末まで続いたものの、苺の代名詞となりつつある隈、学年主席となっても伸び続ける成績の前に、それはいつの間にか消えていった。これと同時に、それまでの友人たちは、彼女の側から離れていった。


 平成二十四年三月某日。受験本番。それまでの自由な時間と睡眠時間のほとんどを勉強に費やした成果が問われる時。苺はこれまでの模試以上に集中した。不安な気持ちを押さえつけ、設けられた問題を解いてゆく。セーラー服の左ポケットには、町田から貰い受けた第一ボタンが、お守りとして納められていた。

 同月余日。合格発表の日。雲の切れ間からは、陽の光が顔を覗かせていた。苺は逸る気持ちを抑えつつ、高校の正門を通り抜けた。その傍らには、すっかり仲良くなった雪乃の姿も伺える。

“最後の模試ではB評価に落ちちゃったけど、大丈夫かな……”

 苺は一人、不安に潰されそうになる。そんな苺の姿に、雪乃は自らの手を震える彼女の肩にぽんと乗せる。

「大丈夫……」

 遠くから聞こえる喧騒の中で、彼女の声はまっすぐ苺の耳へ届いた。苺の体の震えは消え、心を覆い尽くそうとしていた不安の雲は晴れ、顔に張り付いたそれが取れ、僅かながらゆとりが生まれた。

「ありがとう、雪乃」

「……どういたしまして」

 二人はそのまま人込みのところまでやってきた。その先に合格者番号が掲示されているのは明らかであるが、そこには幾重にも重なった人の層。二人は溜息を吐くが、よく見てみると、一筋の道が開けている事に気付く。苺は一人、そこへ足を踏み入れた。

「すいません……」

 つぶやきながら人の海を泳いでゆく。そして、最前列へと到着した苺は、そのまま自分の番号を探し始める。

“141……141……”

 順に追っていくと、それは確かに記されていた。自身の番号を見つけ出した苺は、嬉しさの余り我を忘れて飛び跳ねる。そのため、いつの間にかやってきた雪乃の呟きにも気付くことはなかった。


 その後、用事があるという雪乃と別れた苺は、一人で合格者受付へとやってきた。そこで苺は目を見張る。なんと、受付を担当していたのが、町田だったのだ。苺は嬉しさと恥ずかしさでその場から動けなくなり、視線は彼に釘付けになった。

 一方、町田は自分のことを見つめる少女の存在に気が付く。しかし、一目ではそれが誰だか分からなかったが、なんとなく懐かしさを覚えた。彼は受付をもう一人の役員に任せると席を立ち、少女の元へと歩み寄る。すると、その少女が、一年前に制服の第一ボタンを渡した苺であると気付き、自然と笑みが浮かんだ。

「久しぶりだね。そして、合格おめでとう」

 低音が苺の耳に届き、動けないでいる苺は、こくりと首を前に倒す。町田は「それにしても、すごい隈だ」と目を見張りつつ、周囲を見回してから口を開いた。

「ここで立ち話をするのもあれだし、静かなところに行こうか」

 町田の提案に、苺は再びこくりと頷いた。町田はそれを確認し、彼女の手をとって、校舎裏へと向かった。


 ドクダミが好みそうな校舎裏。そこは程良く湿り気があり、空気はひんやりとしていた。

「それにしても驚きだよ。まさか君がここを受験していたとはね。……それにしても、相当頑張ったんだね」

 町田は向き直った苺の双眸下に居座った隈を指でなぞる。苺はぴくりと体を震わせる。

「それは……先輩に伝えたいことがあったからです」

 町田の隆々とした指を一旦どかし、はっきりと通る声で言った。彼女の言葉に、町田はあの時のように頭の上に疑問符を浮かべる。

「それは、一体なんだい?」

「そ、それは……」

「それは?」

 フェードアウトしそうな意識を繋ぎ止め、苺は一度深呼吸をして、口を開いた。

「私、先輩のことが好きなんです。あの時伝えられなかったから、この思いを伝えたくて、この高校を受験したんです。……先輩、もしよろしければ、私と付き合ってくださいませんか」

 両手を胸元でぎゅっと握り締めて、苺はそう言った。これまで積もり積もった感情を全てこの一文に乗せて。

 辺りは沈黙に包まれる。あの教室の情景が苺の脳裏に再び蘇る。頬を支配する熱に、頭が犯されそうになるのを必死に我慢していると、町田がゆっくりと深呼吸をした。それは、重大な決断をする前奏のように、空気へと溶けて消えてゆく。彼女は身を強張らせる。途端、彼の口が言葉を紡ぎ出した。



文芸部の活動で、『制服』というテーマで書きあげました。

(初出:2012年5月31日、文芸部)

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