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短編集  作者: 更級優月
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病室の語り部

 言葉にできないくらいに、痛い。

 全身を強く打ちつけられて、私は今、無感情なアスファルトに横たわっている。視線の先には、私を轢き飛ばしたワンボックスカーが、フロント部分を軽く凹ませて停車している。狼狽した様子の中年運転手が、どこかへと電話をかけている。あまり話している内容は聞こえてこないものの、おそらく警察か消防のどちらかであると思われる。

 それにしても、身体に力が入らない。

 私を中心として、辺りに野次馬が幾重にも輪を作っていた。視線を動かせば、顔を歪めるもの。携帯電話を弄っているもの。多種多様な反応が見られた。

 できれば、ここから離れたい。

 彼らにこれ以上、この身体を晒したくない。

 でも、動かないのだ。まるで、首から下が石になったかのように。

 (お願い、これ以上私を見ないで……)

 遠くから聞こえてきた救急車のサイレンを聞きながら、私の両目から涙が流れ落ちた。


 目を覚ますと、柔らかいベッドに寝かされていた。

 視線を巡らせれば、ここが病院の一室であることがすぐに分かった。無理もない。車に跳ね飛ばされたのだから、このまま帰宅して日常を送ります、なんてことはできない。相応の処置をしてもらわなければ、後々後遺症が発現するかもしれないのだから。

本条弥英ほんじょうやえさん、目を覚まされましたか?」

 突然かけられた声に目線を向ければ、年若の看護師さん(オス)が穏やかな笑みを浮かべながらこちらを見ていた。

「はい。さっき起きたばかりです」

 そう答えてから、声を問題なく発することができることに安堵した。看護師さんは微笑みそのままで、どこに持っていたのか、点滴の新しいパックを取り出して、取り換えを始めた。その作業をあっという間に終わらせながら、彼は静かに口を開いた。

「これから担当の水城香苗先生がいらっしゃいます。その際は、弥英さんの怪我の状況やこれからの経過などをお話しいただきます。また、弥英さんのご両親には、現在先生から説明をお聞きいただいておりますので、先生と一緒にいらっしゃると思いますので、それまでお待ちください」

 それでは、と一方的に彼は話を終えると、閉められていたカーテンの隙間に姿を消した。

「水城…香苗さん……。どんな人なんだろう。大人の女性って人なのかな……」

 そんな淡い期待を抱きながら、私は静かに瞼を閉じた。


「……であるからして、娘さんの身体は道路に強く叩きつけられており、全身打撲、という形になります。また、左足は骨が折れておりまして、これに関してはしかるべき処置の後で固定し、傷の回復を図ります。最後になりますが、現在は動くこともできないと思いますが、数日もすれば起き上がることも可能となるでしょう」

 再び目を覚ました私は、思いっきりげんなりした。

 そこにいた水城香苗先生は、若干歯の本数が心細くなるような初老の男性だった。

 言うなれば、おじいちゃん先生。

 昭和の頑固親父が、そのまま年を取った感じの、ちょっと怖めの先生だった。それでも言葉のひとつひとつには、外見からは想像もつかないほどに優しさが溢れていて、私は自分の石の身体が再び動く日がやってくるということに、この上ない喜びを覚える。

「それでは、娘は大丈夫なのですな?」

 ほっと胸をなでおろして、父が水城先生に問いかける。先生は優雅に頷くと、母が安堵からか涙を流し始めた。私はそんな両親の姿を視界の端っこに捉えながら、静かに瞼を閉じた。


 次に目を覚ましてみれば、辺りは真っ暗だった。

 いつの間にか寝てしまったらしく、周囲からは物音など聞こえてくるわけもなく、聞こえてくるのは規則正しい寝息のみ。恐らく夜中なのだろう、と思った。

首だけを何とか動かしてみれば、ベッドの脇に、母が凭れかかるようにして眠っていた。父の姿はない。父はとても忙しい人だ。家にいるのは週に一日あれば良い方で、それ以外は中央省庁管轄の研究所に泊まり込みで、私にはまだ少し難しい内容の研究に精を出している。

 私はそんな父が大好きだ。

 母も父のことが大好きらしく、家に帰ってこない日は、研究所に毎日お弁当を届けに行っている。そして父も父で母のことが好きらしく、いつも母が持ち帰ってくる空の弁当箱には、感謝と愛の言葉が綴られた手紙が必ず添えられている。それを読んでいる母の姿は、とても可愛らしく、私の心の癒しにもなっていた。

 そんな母が、今は疲れた顔をして眠っている。

 誰のせいなのか。私のせいではあるまいか。

 いや、私は単に車に引かれた。それならば、悪いのは車の運転手?

 ……だめだ。悪い考えしか浮かんでこない。

 視線の先には、ぼんやりと無機質の天井が見える。よくよく見てみれば、正方形の線が入っていて、それが規則正しく、まるでパズルのように嵌められている。

 すっかり目覚めてしまった私は、そのパズルをキャンバスに、頭の中で幾何学的な図面や可愛らしいキャラクターを描いていた。

「お目覚めですか?」

 突然声が聞こえた。でも、その声は、昼間の年若の看護師さんのもので、視線を移してみれば、少し疲れた表情の看護師さんが、作り笑いでない、自然な優しい笑顔を浮かべながら、胸から上をカーテンから出してこちらを見ていた。

「あ、どうも」

 母を起こさないようにしつつ、声を潜めると、彼は母の存在に気が付いたと見えて、はっとした表情を浮かべたのち、同じように声を潜めて話し始めた。

「この度は大変な災難に見舞われましたね。昼間は機械仕掛けのような、一方的な物言いで申し訳ありませんでした」

 そして彼は恭しく腰を折ると、「失礼しますね」と言って、カーテンをかき分けて近づいてきた。母を起こさないように配慮して、足音には細心の注意を払っているようで、本当に僅かな物音しか聞こえない。そうして彼は囁きで会話できるくらいに私に近づくと、手短にあった椅子に、これまた音を立てずに座り込む。

「そんな、謝らなくても大丈夫ですよ。業務上仕方のないことでしょうから」

 なんだか謝られて、どうもむずむずしてたまらない。私はそう彼に伝えると、 彼は半ば自嘲気味に笑って、言葉を吐き出した。

「私はどうも、昼間のような定型句が性に合わないみたいで、こうして夜分、患者さんにお詫びをして回っているんですよ」

「でも、言わなければいけないことですし、なにも謝らなくても大丈夫だと思います。毎回丁寧に対応していたら、私よりも深刻な症状の患者さんのところに行けないじゃないですか」

「それは確かにそうです。しかし、私は多くの患者さんを回るのではなく、弥英さんのように、突然の事故により搬送されてきたような患者さんには、より丁寧な対応が必要だと思うのです。それなのに、病院には規則があります。たとえばそれは明文化されたものであったり、されていなかったりしますが、確かに存在していて、私たち看護師を縛り付けるのです。そのため、外面だけの治療行為しかできずに、心のケア無くして退院なさっていかれます。それが私には耐えられないのです」

 一息でそこまで言うと、彼はすっと静かになった。顔には先程の笑顔ではなく、真剣な、そして、まっすぐな表情を浮かべていた。

 私は、思わず彼の、整った顔を凝視していた。何を言うでもなく、表情のみで語っている。私には、彼が思い決断を迫られているように感じられた。

「さて、あまりの長居は弥英さんにご迷惑をおかけしてしまいますね。それでは、私はこの辺で失礼します」

 再びいつものナチュラルスマイルに戻った彼は、音を立てずに椅子から立ち上がると、また足音を立てないようにして、カーテンの向こう側へと姿を消した。彼が出て行った後には、すっかり目が覚めてしまった私と、穏やかに、だが心配そうな表情で眠っている母が残された。

 起き上がることのできない私は、仕方なく、眠りにつくことにした。いくらなんでも、起きているのは健康に良くない。今は少しでも多く休んで、怪我の治療に専念しなければいけない。

 さて眠ろう、と目を閉じる。全身の力をすっと抜いて、あとは病室の無機質なベッドに身を委ねることにした。開け放たれているのだろう。カーテンが風に吹かれて、留め具が僅かな音を立てていた。


 入院してから五日目、私は退院することになった。長いようで短い五日という時間の間、あの看護師さんは毎晩、私のもとを訪ねてきてくれた。彼が語ったのは、本に書いてある看護師ではなくて、現場の、生の声だった。業務環境がどれほど大変か。一方で、その中でこのような嬉しいことがあるんだ。滔々と語る彼の口調に、いつか私は惹かれるものを感じていた。

 ……でも、それを聞くことはもうできない。

「退院、おめでとうございます」

 業務的な顔付で、定型句を吐き出した彼に、私は落胆を禁じ得なかった。「ありがとうございます」の十文字がすんなりと出てこなくて、その上、すごくぶっきらぼうになってしまった。研究所から駆け付けた父と、入院していたときの荷物を抱えた母に怒られたものの、それで私の気持ちが晴れることはない。

「今日で無事退院ということになりますが、もし、お身体に違和感を感じられたときには、いつでもいらしてくださいね」

 続く定型句。うんざりしながら聞いていると、彼は静かに私のもとへ歩み寄ってきた。そして、先程とは明らかに違う口調で、まるで旋律を奏でるように呟いた。

「弥英さん、何かありましたら、またいらしてください」

 途端、それまで沈み込んでいた私の心が跳ねあがった。はっと彼の顔を見れば、それはまさしく、あの病室で見たそれだった。顔が熱くなるのを感じながら、かろうじて頷く。そんな私を見る彼の眼は、ひどく優しかった。


練習がてら書き起こしました。

(初出:2014年9月13日、当サイト)

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