未知を求めて
もし私が、普通の人間であるならば、このような苦労をしなくて済んだだろうに。
神様は残酷だ。
周りのみんなは、おしゃれな服を着て街へと出かけ、友人たちとくだらない世間話で盛り上がっているのだろう。和洋折衷古今東西津々浦々。際限もないほどの膨大な食料の中から、自由に自身の好きなものを胃袋へと送り込んでいるのだろうよ。
本当に、うらやましい。
時折、父上や母上が留守の時に人目を盗んで四苦八苦。ようやく『てれび』という箱に明かりが点り、その中では、私が知る由もない世界が広がっていた。
“否、私の送っている生活はいったい何なのか”
“否、『がっこう』という建物では私と同年代の少年少女が文字の列を懸命に紙束へと書き写しているが、これはいったい何なのだ”
“否、『しぶや』という場所は、どうしてこんなにも込み合っているのか。何かの祭りでも行われているのだろうか”
どれもこれもが衝撃的で、縛った帯紐が急に苦しく感じる。それは次第に私の細首を締め上げようと感じられて、乱暴に『てれび』から明かりを奪って、急いで自分のあるべき場所へと戻ってきた。湿った空気に、冷たくて硬くて、無感情な床。先ほどくぐってきた鉄格子。窓はどこにもなく、夜にならなくとも薄暗い地下牢の一角が、私に与えられた唯一の資産だった。
ぴくりと“耳”に何かが届く。
注意してみれば、聞きなれた足音だった。
“こつ、こつ、こつ……”と規則正しいその音は、私にとって恐怖そのもの。悪夢のような時間が始まることを示している。
やがて、足音がこの地下牢前で止んだ。途端、場の空気が悪い方向へと変わっていく。
「妖荷、時間だ」
その声、姿を確認すると、自然に身体が震えだす。止めたくても止まらない。誰かに操られているかのように、私の身体はいうことを聞かなくなる。それでも、必要以上の『痛み』は受けたくない。私はいつも、震える身体を抱きしめるようにして立ち上がる。
「今日は疳虫を宿した男児だ。行くぞ」
「はい……」
ゆっくり一歩ずつ歩みを始めると、父上は私の手首に冷たい鉄の輪を嵌める。そこから伸びる鎖を手に持ち、私たちは薄暗い地下室を後にした。
私はいつものように、手首に取り付けられた鉄の輪を外され、襖で囲まれた部屋へと足を踏み入れる。そこで父上の目から離れることになるのだが、それと入れ替わりで妖患と対面することになる。そもそも妖患というものは、字の如く、物の怪が人間の中に巣くってしまった状態のことを言う。放っておくと、御魂を奪われるか、または物の怪に身体を支配されるかのどちらかが待っている。
しかし、世界で唯一私だけが彼らを救うことができた。私も物の怪に憑りつかれている。でも、私の身体に巣くう物の怪は、他の物の怪を食べて生きている。そしてそれは、私に悪い影響を及ぼすものでもないので、それを知った父上が、このようなことを始めたのだ。
薄暗い部屋の中。いつものように行燈の朧げなる灯りが僅かに照らし出した妖患の顔は、私と同じ年頃のように感じられた。髪は短く、眉の上ほどまでしかない。細く整えられた眉の下には、やや吊り上った一重。鼻筋が通り、薄い唇が艶めかしい。
「あなたが、僕の病を治してくれるのですか?」
突如、形の良い少年がほろりと言った。
「左様でございます。私は妖荷と申すもの。あなたの御身に宿りし物の怪を取り払って差し上げましょう」
「そうですか。ならば、あなたは神様の使いなのですね」
「否。私は所詮人間と狐が合わさった出来損ない。そのような扱いを受けるべきものではございませんゆえ」
「いえ、あなたは僕にとって麗しき神の使い……いえ、女神様そのものです」
「……」
こういう場合は、どういう顔をすればいいのだろうか。
生まれてからというものの、このような言葉を掛けてもらったことは一度もない。父上も、亡くなった母上も、私を疎ましく思っていたのか、罵声しか聞いたことがない。
あるいは、事務的な、無感情な声。
それが日々の、あたりまえだと思っていたのに。
世界は、私が思っている以上に優しいのか。
「……あ、も、申し訳ないです。お気分を悪くなさいましたよね」
目の前の端正な顔が、暗く陰る。途端、妖患に宿りし物の怪の力があふれ出す。
“いけない!”
「急ではありますが、始めさせていただきます」
水干の帯紐を緩めると、するりとそれを畳の上に落とす。一糸まとわぬ姿となった私は、顔を赤く上気させた少年の衣服を脱がしていく。
「ちょ、貴女はいったい何をし始めるんですか!」
「うっ」
突き飛ばされて、畳に身体を打ち付ける。やんわりとした痛みがやってきて、視線を少年に向ける。
「何をなされるか」
「それはこちらの台詞です! いったいどうして裸になる必要があるんですか! ここは風俗店などではないはずですよね!?」
真っ赤になり、視線を合わせようとしない少年。確かに、ここは江戸吉原のような遊郭などではない。が、妖患に憑りついた物の怪を退治する方法として、最も有効な手段が男女の契り。少年の理解は、的を射てはいるものの、それは限りなく無辺世界に等しかった。
「嗚、確かにここは遊郭などではございません。しかしながら、古より物の怪の力を奪う法として、男女の契りが最善の法とされておりますゆえ、ご容赦願います」
「でも、貴女はそれでいいんですか!」
「……何を仰られているのか、私には判断しかねます」
「好きでもない男に抱かれるのですよ!? 貴方はそれでもいいのか!」
「仕方のないことだ。これが私の、唯一の存在意義だからな」
「……!」
「ご理解いただけただろうか。このような物の怪に等しい身であるために、親族から疎み、蔑まれ、この屋敷の外を知らない化け物には、生きている価値など元から無いに等しい。だが、妖患に悩む者たちに抱かれ、その命を助けることができるのならば、それは私にとってこの上ない喜びであるのだよ。……だから、そなた。私を抱いてくれ」
部屋の中央、端正に整えられた床に横たわると、少年が私の中に入ってくるのを待った。しかし、少年は上半身を裸にさせたまま、俯き加減の思案顔で座っている。全く、埒が明かないとはこのことを言うのか。畳の上を静かに移動して、私は少年を後ろから抱きしめる。自身の胸に付いた二つの膨らみが、少年の広い背中で形を変え、優しく押し潰される。
「だから少年、情に身を委ねても構わぬのだぞ」
「……」
少年は黙って答えない。しかし、その肩は微かに揺らぎ、私の脳に甘美な刺激を与えてくる。
「ど、どうなっても知りませんから」
少年は、ついに諦めたように吐き捨てた。
それから私は、少年に抱かれた。その時の記憶は、あまり無い。
目を覚ませば、いつもの地下牢。視線を落とせば、今日着ているのはいつもの水干ではなく、私専用に加工された“束帯”とよばれるものだった。
「あぁ……」
昨日のことが脳裏に蘇る。まだ青き少年が、私を抱いた。それは本意に拙きもので、下腹部や腰を襲う鈍痛は、かの者が私に残していった置き土産。立ち上がろうとも、立ち上がれぬほどの痛みに、思わず失笑が漏れる。私はどうやら、自分で思っているよりも脆く、非常に儚いものらしい。
地下牢の床は、土の上に茣蓙を敷いただけのもので、夏場は心地よくて、冬場は芯から冷える。父上や母上は私のことを都合のいい“どうぐ”なるものと考えているようで、“どうぐ”には“どうぐ”なりの処遇があるようだ。そのため、地下牢には暖房冷房といったような設備はなく、私はただ、牢の片隅で耐え忍ぶしかない。まして、今日のように鈍痛を伴えば、忍耐の時間はより苦痛となり、記憶の中に空白が存在していた、なんということも何度かあったりする。
“儚きものだな、私は”
下腹を束帯の上からさすると、きゅう、という小さき音が生ずる。それは腹の虫が産声を上げ始めた合図であり、同時に、宿り主の力を僅かずつ奪っていく。
“本当に、儚き、ものだ、な……”
小さくなっていく私の意思。少しずつ失われ、私は意識を手放した。
…………。
はたして、どれほどの年月が経ったのだろうか。
相変わらずの地下牢暮らしは、幾度の暑さと寒さを越え、大分慣れを生じさせていた。この間に変わったことと言えば、妖患の数が減り、父上や母上がよく大声を上げるようになったことだろうか。
先日も、この地下の私の耳まではっきりと聞こえるほど、言い争いをしていたものだ。その後で何か悲鳴や大きな物音がしたが、それっきりで静かになった。
何かあったのだろうか。私は知ることができない。
「大変遅くなってしまって申し訳ありません。貴女を助けに来ました」
突然闇の中から声が聞こえた。顔を上げれば、なつかしきか、数年前に抱かれた、あの少年がいた。胸元によく解らぬバッジを付けて、私の知らない立派な男へと姿を変えていた。
「助ける、とは、どういうことであろうか」
「それは……ひとまず、ここから出ましょうか」
どこから取り出したのだろう、いつも父上が持ち歩いている鍵で牢を開けると、次いで水干姿の私を軽々と持ち上げた。
「軽い……しっかりと食べているんですか?」
「何をだ? 飯か? 飯ならば、昨日の夜から食べてはおらぬが」
「やはり、知らないのですね。それでは、これから署でお話しする内容に、驚かれるかもしれませんね」
「……?」
含みを持たせて、少年はそのまま沈黙した。疑念を残したまま、私は少年と共に、久方ぶりの地上へと舞い戻った。
「そうか、そうだったのだな」
あれから『ぱとかー』なるものに乗せられ、私は今、『けいしちょう』なる建物の一室にいる。そこで、先の少年と老爺から、父上と母上が死んだという知らせを受けた。どうりで飯が届かぬわけだ。
「あの、悲しくはないのですか?」
少年が訝しげに問いかけるも、私はこくりと頷いた。
「嗚。悲しい、という感情がどういうものか分からぬゆえ、私はこうして、ただ父上と母上が死んだという知らせを受け止めるのみ。悲しいという感情を教えてもらったことがないのでな」
「そうですか……」
それで、少年は何か痛みを耐えるかのごとき顔のまま黙り込む。続いて老爺が話し始めた。
「あなたのご両親ですが、それはそれは凄惨な最後でした。詳しくは申し上げられませんが、何者かに殺害されたのは間違いないでしょう。また、犯人はお二人を殺害後、貴女の家の金品類を全て持ち去りました。そのため、現金を始めとした金品類は全てなくなっていました」
「そうか。して、犯人は?」
「犯人は現在逃走中で、私共が行方を追っているところです。しかし、現場に残された指紋や目撃情報などから、すぐに捕まるでしょう」
「そうか」
その後、老爺は用事がある、と言ったのちに部屋を出て行った。あとに残されたのは、私と、かの少年のみ。少年はどこかそわそわしながらも、ゆっくりと口を開いた。
「貴方のお名前を伺ってもよろしいですか」
「私の? 嗚、私か。私は妖荷という。お主の名はなんという?」
「僕ですか? 僕は勇気です。……さて、妖荷さん、これからどうしますか?」
「どうする、とは、どういうことだ?」
「どういうことと申しますと、貴女は住む家も今は無い状態に等しい。だから、どこかに引っ越して新しい暮らしを始めなければなりません。また、ご両親がこの度はご不幸に遭わられて、あなた一人が残されました。これからは、生活保護を受けると思われます。そのため、今後の方針を考えて行かなくてはなりません。」
「そうさな、私は……」
この時、私は初めて欲というものを出した。少年は困った表情を浮かべ、大口を開けて固まっていた。
“私は、お主と生活をしてみたいのだ”
趣向を変えて、いつもとは違う雰囲気の小説を書きたいと思い、書き起こしました。
初出:2014年6月15日、当サイト