乾いた日常
『学校ではいい子にしていなさい』
こういう教育を受けてきた。だから私は、ずっといい子にしてきた。
勉強だって、運動だって。
いつも一番になれるように頑張って、そうして、より完璧に近づけるように。
……なにより、両親に喜んでもらえるために。
でも、いつからなのか。当たり前のはずだったこんな日常が、色をなさなくなった。
それでも、一番を取り続けている。
心の奥底で、誰かが叫んでいる。
『もういやだ。ここから逃げたい』って。
そんな希望が、叶う日なんて来ないと思っていた。
「ただいま」
無機質な扉を開けば、見慣れた景色が広がっている。
ここは、私の自宅。両親も祖父母もいない、唯一無二の空間。
簡単なキッチンにコンパクトな冷蔵庫がひとつと、毛布が無造作に転がっただけのリビング。壁に申し訳なさそうに掛けられた時計が、カチカチと時を刻む。
テレビやテーブルなんて、存在しない。
私が必要としていたのは、誰にも邪魔をされない空間だけだから。
俗世と関係を築こうとはしない。……いや、したくはない。
そのための、この空間。
「今日は何を作ろうかな」
教科書とノートが詰まった鞄を、フローリングの床に放り投げた。着地した瞬間、すごい音がしたけど気にしない。
だって、ここの主は私だから。
「冷蔵庫に何か入ってたかなあ」
紺のハイソックスを履いた足で、滑るようにキッチン奥の冷蔵庫の前へ。キッチンは、リビングの一角に、まるでバリケードのように存在する。これより先に行きたければ、別な道を行くべし、と言わんばかりに、その先にあるわずかな空間を守り抜いている。そのわずかな空間こそ、一般家庭であれば、優しい母親が、幸せそうな笑顔を浮かべながら料理をするスペースだ。
私にとっては、どうでもいい空間。
なんせ、優しい母親なんていないもの。
私の母親は、『must』という英単語がよく似合う女性。
どんなことでも、相手に強制させる。
私の母親は、『perfect』という英単語がとっても好きな女性。
完璧な人ならば、すぐに落ちる。
私は完璧ではないから、捨てられた。
最後に見た母親の顔は、まるでゴミを見るような、そんな顔。
最後に聞いた母親の声は、まるで醜悪なものを見たときにふっと口を突く言葉。
……その時、私の中で何かが壊れた。
結局、冷蔵庫の中には何も入っていなかった。
仕方がなかったので、何も食べずにバイトに行った。
夜十時まで営業している、小さなお弁当屋さん。
こっちに来てから、今日まで毎日ここに通っている。
ここは私にとって不必要なものがたくさんあるけど、何故だか居心地がいい。
それは……
「よう、玲緒。今日もよろしくな」
「うん、陽明」
まるで、空に輝く太陽のようなこいつがいるから。
でも、神様は意地悪だ。
ある日、陽明が死んだ。
信号待ちをしていた陽明に、大型トラックが突っ込んだのだ。
陽明は全身を強く打ちつけられて即死。トラックはそのまま電柱に突っ込み、停止。運転手は両手足に軽い怪我。
その知らせを聞いたのは、学校を出て、いつものようにバイト先についてからだった。いつも穏やかな表情を浮かべている店長が、ひどく青ざめた顔で、唇を震わせながら私に話してくれた。
ショックで大半は覚えていない。でも、陽明が死んだという事実に直面した私は、心の安息所を失ったことを悟った。
もうここにはいられない。
私はその日のうちにバイトを辞めて、無機質な家に帰ってきた。
誰も慰めてはくれない。
壁の向こうから聞こえてくる暖かさが、今はとてもつらく感じた。
次の日、いつもよりも早く目が覚めた。
外気は冷たい。部屋の中はもっと冷たい。
時刻は午前四時を少し回ったところ。この時間はたいてい夢の中にいる。
しかし、目が覚めてしまったうえに、もう眠れる気分ではない。毛布を肌蹴ると、私は朝食を作り始めた。
昨日のことは夢だ。
決して現実ではない……
だから、私はどうすればいいのか
陽明の後ろ姿は、まだ視界の中に入っている……
「……は!」
気が付くと、蛇口から水が垂れ流れていた。
急いで蛇口を閉めると、窓の外を眺めた。
いつもと変わらない風景。それが当たり前のように広がっている。
それを見ていると、あたかも陽明の死は、どこか幻想のように思えて。
と、同時に、あの店長の顔色を思い出すと、それが現実味を帯び始めて。
私はこれから、どうしていけばいいのか。
分からない。
誰か教えてくれないか。
窓の外で、強い風が吹いた。
その風はあっという間に過ぎ去ったが、その時、何かを一緒に持って行ってしまった。
(初出:2013年7月22日、当サイト)