織姫と彦星と+α
――空の上では、織姫様と彦星様が、川の両岸に暮らしていたんだって。でも、二人は互いを愛し合っていたが、その想いを伝えようにも伝えられず、悶々とした気持ちを抱いたままでいたらしい。だが、彦星様は織姫様を思う気持ちに我慢が出来なくなって、織姫様の元へとやって来るんだよ。そして、顔を会わせたとき、自分の思いをありったけぶつけて、織姫様も募り積もった想いの塊を彦星様に伝えて、二人一緒で幸せに暮らしたんだってさ――
☆ ★ ☆ ★ ☆
ここは人口がおよそ四万人の中級都市、夜空市。海からそう遠くは離れていないが、小高い丘の上に市街地が広がっている。そのため、ここから見えるロケーションは格別で、年々多くの観光客が訪れていた。そんな夜空市の北部に、『県立夜空高等学校』はある。この高校は来年で創立七十年と、歴史もだいぶ古い。だが、校舎の外観は、ここら辺では一番綺麗だと言われている。
そんな夜空高校の三階で、星野義彦は、創立と同じくらいから存在する『天文部』の三年生を部室に集めていた。短いこげ茶の髪を弄る彼は、やや吊りあがった一重を、部員に向けている。現在、五畳ほどの部室に集まっている三年生は、彼も含めて三人。一人は副部長を務める少女、織川優姫。背中の中ほどまである漆黒の絹を、空色のリボンで束ねている。ぱっちりとした二重の瞳は、頭髪同様の色を称え、眉も鼻梁も細く、小ぶりな唇には、新鮮な果実のように瑞々しい。絵に描いたような美少女がそこにいた。華奢な体つきは、乱暴に扱ってしまうと壊れてしまいそうなほどだった。そして、もう一人は、外見が完全に少女そのものであるが、生物学上は男である仲田久良。猫のようなぱっちり一重に、ブラウンカラーの瞳。優姫同様、鼻と唇は小ぶりだが、優姫には無い妖艶な雰囲気を纏っている。そんな三人が集まる天文部室。絶賛活動中の扇風機の音だけが、虚しく響き渡る。しばらくその状態が続いたが、それは唐突に破られた。
「今日は集まってもらって申し訳ない。用件を簡潔に言ってしまうと、俺たち三年生はもうすぐ部活を引退する。それに際して、三人で何かを行おうと思う。それで、二人にこのことを把握していてもらいたい」
きゅぽっと、義彦はホワイトボードにマジックで文字を記入してゆく。パソコンで入力したような楷書体が、白い大地に整然と並ぶ。
「それって、今意見を出す感じですかー?」
と、ホルモンバランスの影響で色素が抜け落ち、純白になった髪で遊んでいた久良が手を上げる。
「ああ、出してもらえるとありがたい」
「うん、了解。……でも僕、何も思いつかないんだよね~」
久良がひひひ、と笑う。義彦は彼を一瞥すると、視線を一人虚空を見つめて考えるような素振りを見せている優姫に移した。
「織川さん、意見はあるだろうか?」
「……ふぇ? あ、は、はい!」
何の前触れも無くかけられた声に、優姫は手にしていたボールペンを床に落としてしまう。あわてて拾おうと伸ばした小ぶりな美しい手は、親切心で伸ばされた義彦の、細くともたくましい手と触れ合った。
「「あっ!」」
とっさにお互い声を上げ、ほぼ同時に手を引き戻す。微かに触れ合った確かな手の感覚に、二人の顔は『ふじ』のように赤くなる。
「す、すまない……」
「う、ううん! 私こそ、ごめんなさい……」
お互いに視線をそらしたまま、消え入るような声を呟きあう。そんな光景に、久良は溜息を吐いてからボールペンを拾い上げた。
☆ ★ ☆ ★ ☆
義彦が所用のため、いつもより早い時間に天文部の部室を後にして、優姫と久良だけが残された。優姫は一人、取り出したメモ帳になにやら文字を書いている。幸せそうなオーラを身にまとう彼女に、久良は興味を引かれる。
「ねえゆうちー、何を書いてるの?」
突然掛けられた声に、優姫は驚きのあまり持っていたシャープペンシルを放り投げてしまう。綺麗な弧を描き、それは開いていた久良の手提げバッグにすっぽりと入った。あまりの光景に、久良は思わず吹きだす。
「い、今の…すご……」
「わ、笑わないでよ……」
顔を朱に染め上げて、優姫はおろおろと両の手を宙で泳がせる。久良はそんな彼女に「ごめんね」と謝り、自身の手提げから彼女のシャープペンシルを取り出して手渡した。
「あ、ありがと」
「どういたしまして」
優姫はまるで宝石を扱うかのようにそれを受け取ると、再びメモにペンを走らせた。
「何度も聞くようだけど、それは何を書いているの?」
久良が申し訳なく聞くと、優姫はちらりと視線を彼に移して、口を開いた。
「誰にも言わないって約束してくれる?」
突然低くなった声に、久良は神妙な顔つきになって頷く。それを確認した優姫は、静かに話し始めた。
「このメモには、私の思いが詰まっているの。嬉しさだったり、楽しさだったり。悲しさや辛さも入っているの。これといった意味は無いんだけど、書いていると落ち着いてくるのよね。もう、私の悪い癖になってきてるの」
乾いた笑い声が部室内に響く。久良は口を閉ざしたまま、次の句を待つ。すると、思いもよらない言葉がやってきた。
「私、星野君のことが好きなの。でも、こんな私を好きになってくれないよね。いつもメモ帳とにらめっこしている女なんて、気持ちが悪いものね。……ごめんね、仲田君。忘れちゃっていいからね」
そこで言葉を切ると、優姫は自身の荷物を持って、あっという間に天文部の部室を後にした。一人残された久良は、大きく深呼吸をすると、開け放たれた扉の先を見つめた。
「ゆうちー、悪いけどばればれだからね。僕、もう分かってるかんだから」
立ち上がって背伸びをした後、久良は散らかった机の上を片付け始めた。窓から差し込む光が、すっかりオレンジに染まっていた。
☆ ★ ☆ ★ ☆
数日後、三年三組の教室で、義彦は一人文庫本を読んでいた。
「読書中失礼しまーす」
突然掛けられた声。自身の時間を邪魔された彼は、表情を歪めて本に栞を挿む。改めて視線を上げると、女子の制服に身を包んだ久良が、にっこりと天使のような笑顔を浮かべていた。学内でも有名人である久良の登場に、クラスがざわつく。義彦はそんな元凶をじっと見つめた後、ゆっくりと口を開いた。
「何の用だ、なかひさ。先日の件に関する意見でも出たのか?」
すると、久良は「その物言いは酷いな~」と軽口を叩きつつ、カーディガンの袖から僅かに顔を覗かせている色白の手を弄くりながら、視線を義彦に移した。
「うーん、それに近いんだけど。……ここじゃちょっと話しづらいから、ひとまず来てもらえるかな?」
困ったように笑う久良。義彦は「仕方ない奴だな」と呟くと、重い腰を持ち上げて席を立ち、小柄な久良に続いてクラスを後にする。
しばらく歩き続けた二人が辿り着いたのは、人気の少ない北校舎西の端にあるトイレだった。表には、先程久良が設置した『清掃中のため立入禁止』の掛札が下がっているので、人がやってくる心配はなさそうだ、と、義彦は思う。そして、鏡の前で薄化粧の準備を行っている久良に声を掛けた。
「さて、意見とやらを聞かせてもらおうか?」
狭いトイレの中に広がる義彦の心地良い低音。久良は「ん?」と喉を鳴らすと、よいしょの掛け声で振り返った。
「うん、了解。あの日、家に帰ってから色々考えたんだ。学校に三人で泊まって、星空観察でもやりたいな……なんて思ったんだけど、どうかな?」
若竹のように細い肢体をこそばゆそうにさせて、久良は視線を泳がせる。義彦は彼から視線を外すと、タイル張りの壁に向かって言った。
「良い案だと思う。おそらく、織川さんも了承してくれると思うから、詳しい案件は、今晩辺りにでもメールするから把握しておいてくれ」
「分かった。できれば十時前でお願いね?」
「尽力する。それよりも遅くなった場合は申し訳ない」
「大丈夫。僕らのほっしーだから、約束は守ってくれるよ」
「……その名で呼ばないでもらえると嬉しいんだが」
溜息を吐いた義彦の隣で、久良はにっこりと微笑んだ。
「そしてもうひとつあるんだけど、いいかな?」
トイレから退出しようとしていた義彦を、久良は呼び止めた。義彦は訝しげな表情を作りつつ、振り返る。
「なんだ、なかひさ。まだなにかあるのか」
「うん。ちょっとほっしーにお尋ねしたいことがあってね」
久良の笑みに、彼の表情は険しくなる。しかし、久良は止まらない。
「単刀直入に聞くけど、ほっしーはゆうちーの事をどう思っているの。……いや、ゆうちーの事が好きなんでしょ。告白しないの?」
「っ……!?」
途端、トイレの中の空気が南極のそれに変わった。義彦は恐ろしいほどに無表情の能面を身につけ、久良の細い撫肩をがっしりと掴んだ。
「……いいか、なかひさ。世の中には言っても差し支えないものとそうでないものがある。お前が言った事は、完全に後者だ」
「きゃっ!」
義彦は久良を放り出すと、乱暴にその場を後にした。取り残された久良は腰をさすりながら、揺れている扉を見つめて呟く。
「本当、素直じゃないんだから」
よいしょ、と立ち上がると、久良はスカートに付いた汚れを手で払う。
「ゆうちーはほっしーのどこに惹かれたんだろうなあ……」
ポツリと呟いた後、彼は忘れられそうなほどに静かな空間から飛び出した。
☆ ★ ☆ ★ ☆
トイレの一件があった夜、義彦は自室のベッドで携帯電話を使い、織川と連絡を取っていた。
『今日、なかひさから意見が出た。学校側の許可をもらい、一晩学校に泊まって星空観察を行うというものなのだが、いかがだろうか?』
義彦は文面を二度ほど眺めた後、送信ボタンを押す。携帯電話を置いて一息吐こうとした途端、着メールを伝える旋律が室内の空気を震わせた。もちろん、送り主は織川だ。
『いいと思う。私、一度でいいから学校に泊まってみたかったの。食事とかは私が準備するから、それやろうよ。きっと良い思い出にもなるから』
「こんな長文、よくもまあこれほどの速さで入力できるものだな」
感心する義彦は、織川へと返事を送る。
『織川さんがそう言ってくれると、こちらとしてもありがたい。……それでは、いつ決行することにしようか?』
返事は、すぐにやってきた。
『私、七夕の日空いてるよ。その前の日から、お父さんとお母さんが旅行に行っちゃうから、家に私一人になっちゃうの。だから、そのあたりでお願いします』
意外だ、と義彦は思った。文字を入力する手が早まる。
『誕生日なのに、一人は寂しいな。了解した。なかひさに伝えておく』
直後の返信。そこには、絵文字の額縁に『よろしくね』の一言が添えられていた。義彦は口元をふっと緩ませると、時計を見る。時刻は午後九時半。約束の時刻まではまだゆとりがあった。
「なんとかなるものだな」
誰も居ない空間に溶けてゆくバリトン。遅くならないうちにと、義彦は先程確認した内容を打ち込んでいく。形としてまとまったものを送信すると、でかでかとした絵文字が帰ってきた。『了解』と叫ぶ脱力系のキャラクターは、どこか自分に似ているなと、義彦は肩を揺らしていた。
☆ ★ ☆ ★ ☆
あっという間に時は流れて、七月七日。時刻は午後八時を回ったところで、天井には余すところ無く星々が輝いていた。そんな空の下、夜空高校の屋上には、二つの影があった。
「仲田君、遅いね……」
ぽつりと優姫が呟く。湿り気のある空気が僅かに揺らいだ。
「なかひさなら、風邪を引いたみたいで参加できなくなったと連絡が来た」
事務的な口調の義彦は、携帯電話を操作しながら、ぶっきらぼうに呟く。
「えっ、仲田君風邪なの? かわいそう……」
「仕方が無い。体調を崩したのは自己責任だからな。だが、今日の事は後日、なかひさに伝える事にしよう」
「うん、そうだね。メモ用紙持ってきて良かった」
「記録係は任せた、織川さん」
「任されました。ふふっ」
「それでは、始めようか」
「そうね。楽しみにしてたんだよ?」
そうして二人はコンクリートと背中を合わせて夜のパノラマをその目で観察し始めた。数多とある星々の中、大きく横たわる天の川。しばらく無言のままでいたが、二人はまったく星を見ていなかった。それどころか、その目は忙しなく動き回り、安住の地を求めてさまよっている。屋上の空気がざわざわと蠢き始めた頃、義彦は大きく息を吐いた。優姫が視線を彼に向けた後、上半身をゆっくりと起こす。
「星野君、どうしたの?」
優姫の問いかけに、義彦は闇の中で大きく一呼吸を行う。
「織川さん、少し話をするが、構わないだろうか?」
「うん、いいよ?」
「すまない」
義彦は自身のリュックサックから、小型のランプを取り出して明かりを灯した。ぼんやりとした屋上の一角で、少年少女が制服姿で向き合っている。オレンジ色の光がお互いの顔を照らし、二人はやや俯きがちだったが、義彦は意を決して口を開いた。
「ここまで恥ずかしいものだとは思わなかった。だが、この思いをここで言ってしまおう。……お、俺はある女性に好意を抱いている。その女性は、よ、夜空高校の天文部副部長を務めていて、世話好きで、そして涙もろくて。俺はしばらく川の反対側から毎日見ていたが、これからはこちら側で彼女を守っていきたいと思っている」
一旦話を区切り、義彦は再び深呼吸を一回、また話し始める。
「織川さん、こんな堅物な男だが、一緒に人生を歩んではくれないだろうか?」
義彦は、居住まいを正して頭を垂れた。その姿に、優姫はたおやかな手を口元へ添え、顔はほんのり上気していた。視線を何度か彷徨わせた後、静かに深呼吸をして、義彦の後頭部へと微風を吹きかける。
「わ、私もある男性を想っていました。その男性は、私と同じ部活の部長を務めています。その男性は、とても責任感が強く、どんな仕事でもこなしてしまう凄い人です。私はそんな彼にこの身を捧げ、生涯支えていきたいと思っています」
優姫は一旦話を閉じると、思わず溢れてきた涙をブレザーの袖で拭う。そして、未だ頭を下げたままの義彦の後頭部に、もう一度微風を送った。
「星野君、涙もろくてお節介な女ですが、私の素敵な旦那様になってくれませんか?」
そこまで言うと、優姫は義彦の頭を持ち上げて、今度は自分が首を垂らす。上がった義彦の顔は、普段の彼とは似ても似つかぬくしゃり顔で、双眸からは箒星が二筋伸びていた。
「こ、断る理由なんか…ない……」
筋を拭き取り、義彦は優姫の顔を上げさせた。
「もちろんだ。これから先、よろしく頼んだぞ」
両の目から流れ星を流しながら、義彦は微笑む。途端、優姫の身体から力が抜け、彼女は幸せそうに大粒の涙を流した。
☆ ★ ☆ ★ ☆
屋上の片隅。義彦と優姫の七夕カップルを温かい眼差しで見つめる、本来ならばこの場にいないはずの女装少年がいた。
「ようやく、か……」
久良は、感慨深そうに呟き、着ている大きめの紺のカーディガンで自身の双眸からほろりと溢れた雫を受け止める。何度かその動作を繰り返した後、「よいしょ」と静かに立ち上がり、大きく伸びをひとつ。二人に悟られないように、細心の注意を払いながら校舎内へとつながる扉を押し明ける。視線を一旦二人に向けると、穏やかに微笑んだ。
「さて、ここにいつまでもいると二人の邪魔をする事になるし、気付かれないうちにさっさと退散しましょうか」
子守唄のような優しい声色を残して、彼は月明かりが差し込む校内へ続く階段を下りていった。
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雲一つ無い、満天の星空。その中央を流れてゆく天の川の両岸に、夥しい数の宝石。無限に広がる宇宙の中で、一際光っている二つのそれ。世間で『織姫』と『彦星』の愛称で親しまれているそれは、今日も黒のキャンパスの中で輝き続けている。
高校時代、部誌用に執筆したものを、加筆修正したものです。
(初出:平成24年9月某日、某高校文芸部部誌)