交錯
誰もいなくなった夕暮れ時の教室。窓側の席で、千景は一人、活字の海へと漕ぎ出していた。彼は時折、目の前へと垂れてくる髪を脇へと流し、わずかにずり落ちた銀縁の腹を中指で軽く押す。一重の細い両の目は、手にした活字の羅列を静かに追っていた。
――――少女の名は村瀬智桃。作中では美術部の高校三年生として書かれ、交友関係は狭い。彼女は絵を描くのが好きで、頻繁に風景画を描いていた。特に河川図を多く描き、切り取られたその空間を眺めているのが、彼女にとっての至福のひと時だった。
ある日、智桃は自身の部屋に並べられた絵画を眺めて、一言呟いた。
「もし、私が描いた絵の中のセカイに入ることができたらなぁ……」
実現されるはずのないその呟きは、彼女の部屋に薄く、そして溶けて消えた。彼女は一人絵画を見つめ、ため息を一つ。途端、ある絵画の表面が、まるで波でも立ったかのように揺らぐ。彼女は一度は驚いて小さな悲鳴を上げたものの、多大な好奇心のままに、そっとそれに手を触れた。瞬間、絵画がものすごい力で彼女を吸い込んだ。あっという間に吸い込まれた智桃。彼女を吸い込んだ絵画は、なんでもない、ごくありふれた河川の風景画だった。しかし、無人であったはずの土手に、そこにはいるはずのない、一人の少女が立っていた。
その後も彼女は絵画の中へとダイブし続けた。それは家でも、学校の美術室でも、場所を問わず、気に入った絵があれば、すぐにでも入り込んだ。
しかし、そんな生活も終わりを迎える時が来る。
ある日の放課後、自身の所属する美術室に、智桃の姿があった。まだ明るい室内には、若干西へ傾いた日の光が差し込み、彼女のほかに、大きな黒い人物がいた。彼女は持ってきた荷物を室内の片隅にまとめて置くと、いつものように、ある河川図へと入り込む。その直後、ほかの美術部員がグループで室内に入ってきた。彼女たちはしばらく談笑した後で、美術室の真ん中にあった、智桃のダイブした河川図に気が付いたようで、その前までやってきた。その絵は元々智桃の作品であることを知っている彼女たちだった。智桃の描く絵には、今まで一度も人物が描かれたことがないことも。
だからこそ、彼女たちは絵画の中に少女が描かれていることに気が付くと、驚きの声を上げ、じっとその少女を観察し始める。すると、彼女たちの中から、小さく震えた声が上がる。
「この女の人、智桃先輩に似てるよね……」
「本当だ……」
その場にいた全員が同意する。すると、先ほどとは違う美術部員が声を潜めるようにして言った。
「……なんだか、ちょっと怖いね」
「どうして?」
「だって、絵が智桃先輩を吸い込んじゃったかもって思ったから……」
「そ、そんな怖いこと言わないでよ!」
次から次へと言葉を並べていく美術部員たち。実は、それらはすべて絵の中にいる智桃の元にも届いていた。智桃は彼女たちに、自分の存在がばれてしまうと思い、これから先の未来への恐怖を抱いた。その後、彼女は人知れずに現実世界へと帰還すると、絵画へ入り込むのをやめることを決意する。
“このままじゃ、私が絵の中に入り込んでいることがばれてしまう。……今度のダイブで最後にしよう”
帰宅後、智桃は自室へと真っ先に向かった。そして、呼吸を整えると、夕暮れ時の教室が描かれた絵画へと飛び込んだ――――
千景はゆっくりと文庫本を閉じ、ほぅ、と息を吐いた。時計を見ると、短い針は六をわずかに過ぎている。いくら夏だからといえ、あまり長居はよろしくない。彼は静かに背伸びをする。
「少し疲れたな……」
小さく呟く千景。席を立ち、数歩足を進めたとき、異変が起こった。突如、彼の後方でかすかな物音が発生した。驚いて振り返れば、彼の机の上に置かれている本がせわしなく揺れ動き、その間からはかすかに光が漏れている。
千景はぎょっとした。途端、その光が眩いものとなる。
「うっ」
あまりの眩しさに、千景は思わず目を閉じた。しばしの後、ゆっくりと瞼を押し開けてみれば、それはそのまま限界まで開かれることとなった。
彼の視界には、机の上にちょこんと座りこむ、一人の可愛らしい少女がいた。彼女が先程、千景が読んだ小説の主人公である智桃だと気が付くと、彼は微笑みを浮かべたまま、頭を押さえてその場に座り込んだ。
文芸部のテーマ作品として書き起こしました。
(初出:2012年某月、某高校文芸部)