放課後ミルクティー
背中の中ほどまである自身の髪の毛を束ね終えたころ、HR長の声が響く。
「起立、さようなら」
けだるい一日が終わった。私こと平原茜音は、ふぅ、と小さく息を吐き出す。なんせ今日の授業は、苦手な数学が、授業交換で六限中四限というとんでもない日程で、授業中に意識を手放しては、担当の陣内先生に頭を叩かれた。
そんなこんながありながら、やっと手にした放課後。帰宅部の私は、ほぼ毎日、誰もいなくなった放課後の教室で、静かに寝息を立てるようなことをしている。
今日もいつものようにそれの準備をしていると、突然教室前方の扉が開く。
「失礼いたします」
そういって入ってきたのは、十人いれば全員が振り向くか、または立ち止まるほどのイケメンナイスガイ。髪の毛は栗色のショートカットで、吊りがちの一重。薄い唇に芯の通った鼻梁。体系的にはほっそりとしているけど、バシッとブレザーを着こなすその下に、実は鍛え上げられた肉体が隠されていることを私は知っている。
……でも、正直、私はこの人が苦手です。
「や、安永君。ど、どうしたのかな……?」
思わずどもってしまう。彼は教室に入ってきてからずっと、私のことを一直線に見つめ続けている。
「な、何か用かしら?」
「まあ、そんなところです」
「そんなところって、どんなところかな?」
少し余裕が出てきた。わずかに微笑みを浮かべながら彼に返した途端、その端麗な顔に、いやらしくて黒い笑みが浮き上がる。背筋を悪寒が走り抜け、思わず座っていた椅子を蹴飛ばして後ずさる。
「そんなことする必要なんてないじゃないですか。僕はただ、貴女と紅茶を楽しもうかと思っただけですよ」
そういって取り出したのは、保温性のポット。……悔しいけど、私と色違いのそれを、高い位置で揺らす。
「せっかく本場の味を意識して作ってきたんですから、いいですよね?」
有無を言わせないと言っているかのような威圧感。気づいた時、私は首をこくりと傾けていた。
「……ところで、最近読んだ本なんですが」
現在時刻、午後五時四十分。
太陽もそろそろ「さようなら」と言って地平線の彼方へと沈んでいく頃、私と安永君は、一つ机で(主に安永君が)話に花を咲かせていた。一応私は学校にいつも紅茶を持ってきている人なので、彼は大喜び。必然的に紅茶パーティーが始まり、今までずっと、彼はマシンガンのようにしゃべり続けている。
「登場人物がいきなり(ピー)をするんですよ」
「ぶっ!?」
いきなり何を言い出すんだこの人は。
思わず口に含んでいた紅茶を吹き出してしまった。そして、それは安永君のシャツを濡らして、大変な状況となっている。
「あ、や、安永君ごめん! ちょっと待ってて。今ハンカチ渡すから……」
「いい。いらない」
焦る私の向こう側から、ありえない言葉が返ってくる。私は自分の耳を疑いながら、彼へと視線を上げる。すると、彼は先ほどとは違う笑みを浮かべながら、とんでもないことを口にした。
「僕の制服が汚れてしまいましたが、貴女の成分が入っているのですから、格別気には致しませんので。このままでもかまいません」
西日の差しこむ教室が、一瞬、モノクロに固まった。
そして、直後に襲い掛かってきた寒気には、我ながら驚いた。
「ちょ、ちょちょちょちょっと! なに言ってるのよあなたは!」
もう顔が熱い。頭には血が上っていて、もうどうしようもないくらいに慌てた。しかし、そんな私とは対照的に、目の前の彼は至って冷静のまま口を開く。
「何って、貴女の唾液が混ざった紅茶を浴びても、別に嫌というわけではない、と言ったまでですが?」
「あなたは汚いと思わないんですか!」
「ええ。何度も言うようですが、貴女の成分入りですから」
……お母さん、助けてください。私、変態に好かれていたようです。
嫌悪と寒気と羞恥で、何が何だか分からなくなってきた。目尻が次第に熱を帯び始め、慌ててそれを拭う。すると変態……安永君は、それを罪悪感からくるものからと判断したのか、本日何度目かの爆弾を投下する。
「……もし罪の意識があるのであれば、ここで脱いでもらえ…」
「却下!!」
確かに罪悪感はあるけれど、人にはやっていいものとならないもの、いわゆる『常識』というものがある。これは確実に後者だ。最悪の場合、食べられてしまう。
身体を守るように抱きしめると、彼は笑って窓の外を見た。
「ふふふ、冗談ですよ。それでは、僕のいうことを一つだけ聞くというものはいかがでしょうか?」
次の要求は、少しましになったような気がする。でも、心の中では警鐘がけたたましく鳴り響く。それに加えて嫌な予感がする。……でも、私のせいで安永君のシャツを汚してしまったことは変わらない。幸いブレザーは無事だったけど、それを着て帰ることはできはしないだろうし、乾かすのだって時間がかかる。多大な迷惑をかけてしまったのは確かなだけに、私はそれを受けることにした。
窓の外に広がるグラウンド。野球部の元気な声が聞こえてくる、夕暮れの午後六時過ぎ。若干薄汚れた黒板の前に、私は立っていた。
「こ、ここでいいの?」
「ええ。パーフェクトです」
先程から細かく場所を指定されて、僅かずつ直すこと十余回。ようやく安永君の納得を得られたらしい。
「それでは次に、ゆっくりと目を閉じてください」
「うん」
指示に従って、まぶたを下ろす。視界が闇に染まり、聞こえてくるのは野球部員たちの元気な声だけ。
「そのまま、僕が『いい』と言うまで目を開けないでくださいね」
「うん」
私はこれから何が起きるんだろうと、不安と好奇心で満たされていた。彼の声が聞こえなくなってから十数秒。ふと、唇に何かが触れた。そうして私の中に、ねとりとうごめく何かが押し入ってくる。たまらず目を開けた私は、心臓が飛び出るくらいに驚いた。
目の前には、安永君がいた。……まさに、ゼロ距離で。
途端、私の口内にあったものが離れ、彼の顔とも少し距離が開いた。
「あなたの猫のような瞳に小さな唇、本当にかわいらしいですね」
「は、はぅあ~!!」
その時の私は、どうかしていたんだと思う。
安永君から距離をとると、思い切り押し飛ばす。そうして教壇に座り込んだ私は、取り出したハンカチで何度も唇を拭った。それでも、先程の感触が取れなくて、また拭う。しばらく繰り返した後、口をゆすぐために立ち上がると、フローリングの床に仰向けで、変態安永君が白目をむいていた。
学校を後にしたのは、それから数十分後のこと。
依然床に伸びている彼を放り出してきたのは、正解だったのやら。
成り行きで付き合い始めてから数か月。初めて、彼が変態だということを知った。
と同時に、私の初めての唇も持って行かれてしまった。
不本意だけれど、納得できてはいないけど、どうしてか憎めない。
初めてのキスは、ミルクティーの味がした。
気分転換がてら、書き起こしました。
(初出:2012年11月25日、当サイト)
※2013年2月28日…誤字を修正しました。