欲しがる妹に婚約者をあげたら、なぜかキレられました。これって私が悪いのでしょうか?
「ねぇ、アデライトお姉さま、あたしにルシアン様をちょうだい?」
妹のミレイヌは私の部屋に入ってきたかと思うと、目を合わせるより前にそう言い放った。
ルシアンは、幼い頃に親が決めた私の婚約者だ。
私たちは同じ伯爵家同士。
家と家との繋がりで私たちは婚約し、あと一年もすれば結婚という流れになっている。
その事実は、ミレイヌだって知らないはずはない。
それなのに「ちょうだい」とは……。
だいたい人間をそうも簡単に譲渡するなど、あり得ない話だとなぜ思わないのかしら。
今までのように簡単にあげられるモノとはわけが違うのよ。
私が呆れ果てていても、ミレイヌはまったく気に留める様子もない。
むしろ形の良い真っ赤な唇の口角はしっかりと上がり、同色のその瞳がこちらを見下ろすように見ている。
机の上で書類を片づけていた私はその手を止めて、ミレイヌを見た。
目は口ほどにものを言うというのは本当なのね。
明らかに私を挑発し、どこまでも楽しんでいる様が見て取れる。
薄ピンクのふわりとした髪に、赤い瞳。
やや派手目の化粧と、むせかえるような花の匂い。
胸を強調したドレスだって、そう。
どれもこれも、わざわざ私に会うためだけに着替えてきたのだろう。
自分こそが上だ。
私がどんな反応をするのか。
それを見たかったのでしょう。
そんなことをしても、ご苦労様としか言いようがないけれど。
さて、一体どうしたものかしら。
なんだかもう、全てめんどくさくなってきてしまったわね。
あげないと言えば泣きわめき、結局はいつものようになってしまう。
そんなワガママを許してきた両親もダメすぎるけれど、それに屈してきた私もどうなんだろうとは思う。
こんなモンスターを作り上げた責任は、きっと一人のものではないはずよね。
どちらにしても私は……。
私は心の中でため息をつくと、まっすぐに妹を見返した。
ミレイヌは見慣れぬ私の反応に、やや不服そうに眉間にシワを寄せる。
「いいわよ。あげるわ」
私のその言葉で、先ほどまでの余裕たっぷりだったミレイヌの顔が歪む。
それこそ分かりやすいくらいの形相で。
眉間にシワを寄せ、唇はへの字に曲がり、その目は吊り上がっている。
むしろ今この顔を、両親やルシアンに見せてあげたいくらいね。
「はぁ⁉ お姉さま、今、自分が何を言っているのか分かってるの?」
むしろなぜこのタイミングでキレだすのかしら。
こっちは先回りして了承してあげたというのに。
むしろ泣いて感謝してもらってもいいくらいだと思うのだけど。
私が理解に苦しんでいる中、ミレイヌは火がついたように一気に私にまくし立てる。
その言葉の意味を理解するのを、頭が拒否していた。
欲しいと言ったからあげると返しただけなのに。
これって、私が悪かったのかしら?
そう思いながら、ここに至るまでのことを少しずつ考えていた。
◇ ◇ ◇
「ねぇルシアン、何度も言っているけど、ミレイヌと二人きりで出かけるのはやめて」
ルシアンの屋敷で一か月ぶりとなる交流で、私は出されたティーカップをテーブルに叩きつけながら言い放った。
もうこの会話はこの数年で何度目だろうか。
結婚まであと一年だというのに、ルシアンにはその自覚がないらしい。
「なんだアデライト、もしかしてヤキモチか?」
「ヤキモチって、どうしてそうなるの」
「だって本当のことだろう?」
ルシアンはわざとらしくニタリと笑う。
薄紫のやや長めの髪に、青い瞳。
足を何度も行儀悪く組み直し、自分の足の長さアピールに余念のないこの婚約者はどうしようもないほどのナルシストだ。
だからこそ私がいくら苦言を呈しても、ヤキモチを焼いてるだけなんだろうと馬鹿げた返答をしてくるのだ。
私たちはもう来年には結婚をする身。
いつまでも十代の子どものように遊び惚けていいわけではないというのに、そんなことも分からないのかしら。
「そうではなく、世間体というものがあるでしょう? 大体、あなたとミレイヌの仲を勘違いする者も実際に多いのよ?」
「あー」
「あー、じゃなくて……」
いくら婚約者の妹とはいえ、相手は未婚の女性だ。
二人で会い、いろんなところに出かけていれば、どうしてもいろんな噂が立つ。
私自身がその一つ一つを否定していっても、周囲の目はそうもいかない。
姉よりも妹の方が本物の婚約者のようだとか。
ルシアンは本当はミレイヌを愛しているんだとか。
真実の愛で結ばれている二人の邪魔をしているのが私だとか……。
そんな馬鹿みたいな話に、なぜ毎回私が付き合わないといけないのかしら。
確かに私とルシアンの間には、確固たる愛というモノは存在していない。
だけど幼い頃から婚約しており、いつか結婚するものだと思っているし、家族のようには思い合えていたはずなのに。
「言いたい奴には言わせておけばいいんだよ。どうせ否定したって、面白がるだけだろう?」
「そういう問題じゃなくて、毎回言われる私の身にもなってってこと」
「アデライトが優しすぎるから言われるんじゃないのか?」
「どうしてそうなるのよ」
どこをどうしたら私のせいになるのか、まったく意味が分からない。
ただ嫌なことを止めて欲しいとお願いしているだけなのに、どうしてこんなにも伝わらないのかしら。
それにこんな会話はもう何度も繰り返し訴えているというのに。
「お願いだから少しは私のお願いも聞いて」
「まぁ、考えてはおくよ。でもアデライト、だいたい、体の関係がなければ浮気とはいえないだろう」
「……え?」
「アデライトもいい加減大人にならないとな」
どこまでも自信たっぷりに言うルシアンは、自分の吐いた台詞に酔っているようだった。
体の関係がなければ浮気ではない?
私の中にその言葉が何度もこだまする。
確かにそれはそうなのかもしれない。
だけど婚約者である私がこれほどまでに嫌だと言っているのに、それに対する答えがそれなの?
浮気でなければ、何をしても許されるとでも思っているの?
なんだろう。
私の目の前にいるのは、同じ人間であったとしても、私とはまったく別物のナニカではないのかしら。
まったく意味が理解出来ない。
いや、したくもない。
自分でも驚くほどに、心の中が冷えていくのを感じた。
その後、美味しいお菓子を出されても、一つも味がしなかったことだけは覚えている。
◇ ◇ ◇
ルシアンの家からの帰りに、私はそのまま父の執務室へ向かう。
珍しく、母も用事があったのか先客としてソファーに座っていた。
こうやって見ると、ミレイヌは本当に母に似ている気がする。
ふわふわしたピンクブロンドの髪だけではなく、その可愛らしい雰囲気もそうだ。
今年で四十だというのに、まったく歳を感じさせない。
ミレイヌと似たようなドレスを着ているせいかしら。
だけど無理に若作りしている感もないから、得よね。
なんで私は父に似てしまったのかしら。
母たちに似ていたら、何か違っていたのかな。
下を向けば、自分の長い銀色の髪が目に入る。
どこまでも真っすぐな銀髪に、紫色の瞳。
冷たさを感じるとか、顔がきついとか。
ミレイヌと比べられて、そんな心ないことを親族たちによく言われたものだった。
でもそんなことに悲観したところで、現実は何も変わりはしない。
だからこそ、貴族としての振る舞いや愛想などは人一倍頑張ってきたつもりだ。
なのに……。
「どうしたのアデライト。そんなに怖い顔をして入ってくるなんて」
紅茶を飲んでいたらしい母の顔が、私を見た途端厳しくなる。
別に怖い顔などしているつもりはない。
もちろんどれだけ現状腹が立っていようと、それを顔に出す気もない。
だってそんなことをしたら、負けだと私は思っているから。
「別に怖い顔などしているつもりはありませんが」
「そう? もっと愛想よくしないと。そんなだからルシアンに相手されないのよ」
「……」
母は小馬鹿にしたように鼻で笑った。
それがこの家の娘である私に言うセリフだろうか。
しかも母がこんな嫌味を言っても、父は素知らぬ顔をしているだけ。
「ではお母様からもミレイヌに言ってくれますか? ルシアンは私の婚約者であり、世間体もあるので二人で会うのは控えるようにと」
「まぁ。自分の妹が義理の兄となる者と仲が良いというだけで、なぜそんなことを言い出すの? あなたという子は……」
「なぜ? 世間体と言うものがあるのではないですか? これはミレイヌのためでもあるんですよ」
感情的になる母を無視し、私は父へと詰め寄る。
「それもまぁ、今だけの話だろう? 何もそんなに怒らなくとも……」
「今だけ? そう言って、もうずっとあんな感じではないですか」
「いいじゃないの少しくらい! あの子はあなたと違い、一生をこの伯爵家で過ごすのよ? どこかの次男とかいう魅力の欠ける男性を婿に迎えなきゃいけないんだし。少しくらい羽を伸ばしたいと思うのが普通でしょう」
「羽を伸ばすって……」
この人たちはいつもそうだ。
何かにつけてミレイヌは可哀そうな存在なのだという。
自由のない妹。
果たしてそうだろうか?
婿を取ったって、嫁に行ったって、どちらも条件は同じじゃない。
むしろ実家でぬくぬく出来るミレイヌの方が恵まれているくらいよ。
「だいたいあなたは姉なのに、どうして妹に優しく出来ないの? いつになったら姉としての自覚が芽生えるの!」
「自覚……」
姉としての自覚とは、何なのだろう。
妹に何を盗られても我慢すること?
親と同じようにどこまでも甘やかすこと?
どう見てもダメだということに、見て見ぬふりをすること?
「お母様たちがそうやって甘やかすから、ミレイヌが余計につけあがるのではないですか?」
私が言い切った次の瞬間、乾いた音が執務室に響き渡った。
振り抜かれた母の手。
焼けつく様に痛む私の頬。
母は睨みつけながら、私の頬を叩いたのだ。
「本当に可愛げのない。どうしてこんな風に育ってしまったのかしら」
よほど言ってしまいたかった。
あなたがそう育てたんですよ、と。
私の物をなんでも欲しがるミレイヌ。
初めはお誕生日にもらったぬいぐるみ、次は新調したドレス、私の部屋、家具、宝石、そして友人まで。
何もかもを欲しがり、その度に母は「姉なのだから」と言って私に全てを譲らせてきた。
その陰で、私が傷つかないとでも思っていたのかしら。
いつもいつも納得しているって、どうやったら思えるのかしら。
私には全然分からない。
もう分からないわ……。
どうすれば良かったのだろう。どうしていたら、私も同じように愛してもらえたのだろう。
ずっとずっとミレイヌのようにワガママを言って、泣きわめいていたら良かったのかな。
なんだか全部馬鹿みたい。
ああ、本当に馬鹿みたいだ。
「分かりました。もう結構です」
私はそれだけ言うと、両親の顔を見ることなく退出する。
後ろで母がヒステリックに叫んでいたが、それすらどうでもよく感じていた。
◇ ◇ ◇
「あなたが欲しいと言ったから、譲ってあげたのに、あなたは何がそんなに気に食わないの?」
ため息を大きくついたあと、私は再び意識を浮上させる。
いつもミレイヌがそうするように、私は小首をかしげながら鼻で笑ってみせる。
すると面白いくらいにミレイヌの顔はみるみる赤く染まり、その場で地団太を踏み出す。
それこそ床が抜けてしまうのではないかと思うくらいに、何度も何度も。
ああ、こう考えるのはちょっと性格が悪いかもしれないけれど、でもこれが正解だったみたいね。
「ふざけないでよ、そうじゃないでしょう」
「そうじゃないとは、どういうことなの? じゃあ、なんだったっていうのよ」
「ふざけないでよ! もっといつもみたいに悔しがりなさいよ! 泣きなさいよ! 泣いて喚いて辞めてって懇願して土下座でもすれば、考え直してあげてもいいのよ」
何を考え直すと言うのかしら。
だいたい、私はもういらないからあげるって言ってあげたのよ。
泣きわめいて嫌だなんて、言うわけないじゃない。
いらないの。不要なの。
むしろ引き取ってくれて清々したくらいだわ。
これでもう、話の通じないルシアンと向き合うこともしなくていいし、母の小言に付き合わなくてもいい。
こんなに最高なことはないじゃない。
むしろもっと早くしておけば良かったと思ったくらいよ。
どうしてそんなことも分からないのかしら。
だいたいミレイヌが欲しがったからあげたというのに、何がそんなに気に食わないんだか。
私にはさっぱり……。
ああでもこの感じを見ていると、心からルシアンが欲しかったという感じではないみたいね。
考えてみたら、いつもそうだったかもしれない。
いつだって私の物を欲しがるくせに、手に入れた途端興味がなくなっていたのよね。
そうか……。目的はただ手に入れること。
それも無理やり、私が大切にしているものを。
それを取り上げて、私が泣いたり悔しがったりする顔を見て、勝ち誇りたかっただけなのかもしれないわね。
そう考えると、ほんの少しだけ自分の中の意地悪な自分が顔を出す。
どうすればミレイヌに最大の仕返しとなるのか。
今までずっと黙って奪われ続けてきたのだから、一度くらいやり返したってバチは当たらないわよね。
「本当にありがとう、ミレイヌ。良かったわー、ルシアンをもらってくれて。これで私も心置きなく、新しい婚約者を探せるわ」
私は仕返しのように、笑って見せた。
先ほどミレイヌが見せた様に。
口角を上げ、どこまでも嫌味な顔で。
「なっ!」
怒りに震え、驚くほど叫ぶミレイヌを無視し、私は父の執務室へ向かう。
そこでルシアンをミレイヌに正式に譲ることになったと、母たちに宣言した。
母はようやく姉としての自覚が出て来たのかと大喜びだった。
そんな姿を見たせいか、ミレイヌももうこの婚約の取り換えがどうしようもないことをようやく理解していたようだった。
◇ ◇ ◇
翌々日、王家主催の夜会に私は一人参加した。
本来、婚約者がいる人間は一人で参加することはない。
だけど誰かから好奇の目で見られても、今の私にはどうということもなかった。
ある意味無敵なのだ。
まだ他の貴族たちは知らないはずだけど、もう婚約の書き換えは終わっている。
だからやましいことなど何もない。
今ここで言いふらしてもいいのだけど、さすがに品がなさすぎよね。
「さて、この中で婚約者のいない狙い目の人っているかしら」
物色とは言ってはいけないが、私は辺りを見渡す。
当然ながら、私と同じくらいの年齢の男性にはほぼ婚約者がいる。
身分の上の貴族になればなるほどそうだ。
大抵は私たちのように、幼い頃に婚約を結んでしまうから。
んー。
どうせなら、ルシアンみたいな話の通じない馬鹿な人じゃなくて、頭の良い人がいいよね。
別にもう同じくらいの歳じゃなくてもいいかな。
後妻であってもなんでもいいから、とにかく話が通じるマトモな人がいいのよね。
そんな風に見渡していると、夜会で一か所だけ令嬢たちが囲いを作っている場所があることに気付く。
私は給仕から受け取ったワインを片手に、ゆっくりとその人垣に近づいた。
輪の中心には、やや褐色ですらりと背の高い深い青緑の髪の男性がいる。
私が近づくと、彼とその目が合った。
ああ、この方は……。
「もしかして、君がアデライト嬢かな?」
男性は柔らかな笑みを浮かべながら、こちらへやって来る。
まさか私の名前を知っていたなんて。
「はい。エドガー様。名前を憶えていただき、光栄です」
私がそう言いながら微笑み返せば、人垣はゆっくりと私たちから距離を置く。
このエドガー様は、王太子殿下であるアラン様のご友人であり、隣国の王弟殿下だ。
留学でこちらに来ているとは聞いていたけれど、まさかこんなところでお会いできるなんて。
ああ、もしかしたらこれはチャンスかもしれないわ。
どうせ家を出たかったし、仲良くなって向こうで就職先とか紹介してもらえないかしら。
「アランと同じ学園に通っていただろう? そこで唯一勝てない秀才だと君のことを褒めていたよ」
「そんな……たまたまでございますわ」
「たまたまで全勝するなんて、それこそ凄いことだろう? わたしなど、あいつに一度も勝てたことがないというのに」
そう言いながら片目でウインクをするエドガー様に、私は思わず笑ってしまった。
そこから話はどんどんと弾んでいった。
お互いの国の話から、政策論にまで。
初めこそ周りの令嬢たちは嫉妬の目で私を睨みつけていたものの、会話が濃くなればなるほど、一人また一人と去って行った。
「長々とお時間をいただいてしまい申し訳ございません」
もうどれくらい話していただろうか。
気づけば夜会の人もまばらになってきてしまっている。
久しぶりにマトモな人間と会話をしたから、楽しくなりすぎてしまったわ。
「いや、いいんだ。こんなにも楽しい会話が出来たのは、こっちに来てから初めてだ」
「そう言ってもらえましたら幸いです」
名残惜しいというのは、きっとこういうことを言うのね。
この方が王族などでなければ、もっと気さくにお話をすることが出来たのに。
ああ、嫌だわ。
私、すっかり当初の目的を忘れて会話を楽しんでしまうなんて。
でも今さら仕事を紹介して下さいとは言い難いし、今回は楽しかったから諦めよう。
そのうち機会があるかもしれないし。
なかったらなかったで、自分で動けばいいだけだわ。
今は何をするのも自由なのだから。
「アデライト嬢、いつかまた会えるだろうか?」
そんな風に誰かに言ってもらえたのは、初めてかもしれない。
いつだって、必要とされてきたのはミレイヌだけだから。
どこまでも彼の言葉が嬉しくて、私は微笑み返す。
「もちろんですわ。お呼びいただけましたら、いつでも参上いたします」
「ありがとう。では、馬車まで送ろう」
エドガー様はどこまでもスマートに手を差し出すと、そのままエスコートして歩き出した。
夜会を抜け、外に出るとほんの少し冷たい夜風が心地いい。
頬も体も、話しているうちに熱くなってしまっていたようだ。
この時間が長く続けばいいのに。
そんな馬鹿なことを思ってみても、馬車までの道のりはあっという間だった。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ、とても有意義な時間だったよ」
お互い手はまだ繋いだまま。
馬車の前でこんな会話をするなんて、他の人から見たらどう思われるかしら。
どこまでも体が熱く感じた。
自分のものなのに、自分のものではないような不思議な感覚だ。
「では、また」
私が手を離そうとすると、もう一度エドガー様が掴みなおす。
「風邪を引くといけないからこれを」
そう言いながらエドガー様は、自分の着ていた上着を私に羽織らせてくれた。
「い、いえ。さすがにそれは……」
「今度会う時に返してくれればいいよ」
その言葉に、私はただコクリと頷く。
また、今度。
その約束がどこまでも甘く感じられたから。
そして馬車に乗ると、私の姿が見えなくなるまでエドガー様は私を見送ってくれていた。
羽織った上着から、やや甘めのムスクの香りが漂う。
まるで彼に包まれているような感覚に、私は勘違いしてしまいそうになる自分を抑えるのに精一杯だった。
◇ ◇ ◇
馬車が自宅に横付けされると、待っていたかのようにミレイヌとルシアンが屋敷から同時に飛び出してきた。
そして先に口を開いたのはルシアンだった。
彼は私が男物の上着を羽織っているのがよほど許せなかったのか、指をさして激高しながら非難する。
「おれと別れたばかりだというのに、もう男漁りか! どうせおれと付き合っている時から他の男がいたんだろう!」
急に出て来て何を言い出すかと思えば。
ルシアンの思考回路って、本当にどうなっているのかしら。
まずもって、私に他の男がいなかったことなど自分が一番よく知っているはずなのに。
仮にでも、隠れて誰かと付き合っていたとしたって、今さらじゃない?
婚約はもうミレイヌに移ったというのに、なんで怒るのかしら。
「だとしたら何か?」
上着に手をかけながら悪女のように微笑めば、言葉かどうかも分からない罵声が飛んでくる。
今までは考えたこともなかったけれど、こうやって怒らせるのって楽しいかもしれないわね。
ちょっとだけミレイヌの気持ちが分かるわ。
「浮気だ!」
「それをあなたが言うの? なんだっけ? 体の関係がなければ浮気ではないのでしょう?」
「‼」
まさか自分の言葉が自分に返ってくるとは思っていなかったのか、ルシアンは大きく口を開けながらただワナワナと震えていた。
馬鹿みたい。
どうして自分だけが特別だなんて思うのかしらね。
「それにもう私はあなたの婚約者ではないのよ。どこで何をしていようと関係ないじゃない」
「関係あるわよ!」
私とルシアンの会話に、ミレイヌが割り込んでくる。
二人は自分たちで決めて婚約したんだから、もう黙っていてくれればいいのに。
「あたし、いらないから!」
「……え?」
宣言するように、ミレイヌはルシアンを指さす。
さすがにここまで酷いことを言われると思っていなかったルシアンは、短く声を上げたあと呆然と立ち尽くしていた。
まるで燃え尽きてしまったかのように、ただ死んだ目でミレイヌを一人見ている。
「あのねぇ。子どものおもちゃじゃないのよ? いるいらないで簡単にどうこうなる問題じゃないの。だいたい返品されても私もいらないから」
「ふざけないでよ! なんで押し付けられなきゃいけないのよ」
「あなたが欲しがったんでしょう?」
押し付けるって、この子も頭大丈夫かしら。
欲しいって言った言葉の責任は自分でとってくれなきゃ。
今さら全然、私もいらないし。
「そうだけど……それは……」
「それは? ミレイヌ、どういうことなんだ? 君はおれのことが好きなんじゃあ……」
「好きじゃないわよ、あんたみたいなナルシスト」
「じゃあなんでおれと付き合いたいとか、アデライトの代わりに結婚したいだなんて言ってたんだよ」
「ただ姉さんを泣かせたかっただけよ。姉さんのモノだったから奪いたかっただけ。あんたになんて価値ないし」
本人を前にしてきっぱりと言ったものだと、私はある意味感心する。
清々しいまでの醜悪さね。
ミレイヌは縋りつくルシアンの腕を払いのける。
私にルシアンが欲しいと言った時の態度とはあまりにも正反対だった。
だけどようやくミレイヌの素が分かったのか、ルシアンは私の方を向く。
「私はもう婚約者でもなければ、元鞘に戻る気もないですし。もう次を見つけましたので。お二人でこの先どうにかして下さいね」
ハッタリでしかないけれど、これ以上巻き込まれたくない私はわざとらしく上着に手をかける。
よほどその仕草と決定事項が腹立たしかったのか、二人は夜も深まった時間だというのに大きな奇声を上げていた。
するとさすがに異変に気付いたうちの護衛や両親が屋敷から出て来る。
「これは何の騒ぎなんだ」
父はわめく二人に目をやりながら、私に尋ねた。
私に尋ねればなんとかなるだろうというその腹積もりが、やけに腹が立つ。
「さぁ? 痴話喧嘩のようですね」
「ふざけないでよ! いらない! いらない! いらない! いらないの!」
「おれだって、お前みたいな尻軽女なんか願い下げだ!」
あーあー、よくやるわ。
護衛や使用人たちが見てる中でこんなにも大声をあげちゃって。
人の噂って、すぐに広がるって知らないのかしら。
「アデライト、もう一度おれと……」
「嫌です。私はもうここを出て行きますので」
「あ、アデライト、出て行くとはどういうことだ?」
焦ったように父が声をあげた。
それもそうだろう。
どれだけ険悪だろうと、このままいけばミレイヌとルシアンは結婚する。
ルシアンは伯爵家の長男だから、結婚したあとはミレイヌが家を出る形になるのだ。
そうなってしまうと、うちの家を継ぐ者がいない。
きっと父たちは私がここに残り、婿養子を取って家に残ると思っていたのだろう。
だからあんなにも簡単に婚約をミレイヌに譲ることを承諾した。
だけど私は婚約を譲っただけで、家を継ぐなんて一言も言っていない。
元から結婚で家を出るように言っていたのは父たちだ。
結婚がなくなったところで、出て行くということに変わりはないし、変えるつもりも毛頭ない。
あとは勝手にやってよね。
「元より私はここに残る予定ではなかったではないですか。婚約が破棄になったくらいで、どうして家を継ぐと思っていたんですか?」
「それは……そんなこと当たり前でしょう!」
母がいつものように金切り声を上げる。
「でも、それならおかしいですよね。ミレイヌはここに残る可哀想な子だから優しくしなさいと言っていたのに、その意味が通じないじゃないですか」
そう。
母は何かにつけて妹は可哀そうなのだと強調してきた。
この言葉を言えば、私が何も言えなくなるだろうと思って使って来たのだろうけれど、それがあだとなるなんてね。
「可哀想ではないと扱われてきた私には出て行く権利があるはずです。違いますか?」
「あなたという子は! なんて可愛げがない子なの⁉」
「ええ。可愛げがないので、お母様の迷惑となるので出て行く次第ですわ。その方がお母様だって、嬉しいでしょう?」
「本当になんて子なの! あなたなんて、もうとっとと出て行きなさい!」
母の性格なんて、言われ続けてきた私が一番よく知っている。
どうすれば怒るかなんて、ミレイヌを扱うよりも簡単だった。
「お、お母さま。お姉さまが出てっいっちゃったら……」
「そうだぞ。困るのはこの家だぞ」
「そんなのはミレイヌが子どもをたくさん生んで、そのうち一人をうちの養子にすればいいんです。こんな子と一緒に暮らすなど、わたしは絶対に嫌ですからね」
「そんな……お母さま酷い……」
「酷い? どの口が言うの、ミレイヌ。今まであなたの好きにさせてきたんだから、これくらい親孝行だと思いなさい」
うん。
こうやって見ると、本当にお母様とミレイヌは似ているわね。
自己中心的な性格がそっくりだわ。
「全部、全部お姉さまのせいよ!」
どこまでも他責しながらキレて、泣き叫ぶミレイヌ。
「私はあなたが欲しがったから、あげただけよ?」
そう言ったあと、私はその場にいた全員の顔をゆっくりと見渡した。
「お父様、お母様、もう私はいなくなったものだと思って下さいね。お母様の願い通り、二度とここには顔を出しませんから」
イライラとしたように母が私から顔を背ける。
こんな時でも父はただ、おろおろと私と母の顔を交互に見比べるだけ。
「ルシアン、あなたもずっと一緒にいたかった相手が生涯傍にいてくれるのだから良かったわね。もう体の関係とか、そんなことも気にしなくてもいいんだし」
このまま結婚出来ればの話だけど、と言わないだけがせめてもの私の優しさだ。
そして最後に妹の顔を見る。
「これで私がここで持っていたすべてのモノはあなたにあげたわ。もう欲しいものなんてないでしょう? 良かったわね、ミレイヌ」
私は全員に向けたただ微笑む。
私にもう声をかける人間は誰もいなかった。
だからその場で優雅に最後の礼をする。
「では皆さんごきげんよう。もう二度と会わないことを祈りまして」
私は振り返ることなく、その場をあとにする。
そして部屋で荷物をまとめると、家を出て行った。
「やっぱりエドガー様にでも頼んでお仕事紹介してもらおうかな。ああでも、他の国を好きに回るのもいいかもしれない」
妹が欲しがった婚約者も、妹が欲しがった伯爵令嬢の立場も、今の私には必要ない。
私はようやく、自分の人生を生きられるのだから――
少しでも面白いと思っていただけましたら、ブクマ、★、感想など頂けますと幸いです。
作者、益々頑張ります!




