蝉の音
「あっついなぁ」
「ね。ほんま暑いわ」
彼女のサヨリと一緒に駅のホームに座り汗をぬぐう。
夏休みで連日酷暑の中、直射日光を避けた陰の下にいてもまるで身体の熱は引かない。改札前の自販機で買ったカフェオレのペットボトルは既に半分なくなっていた。鳴り止まない蝉の音は、夏を感じさせる趣よりも暑さを助長させるばかりで鬱陶しさしかなかった。
同じ大学に通う彼女と付き合ってもう二年になる。今日の目的は去年も行った京都の祭りに向かう為だった。クラフトビールをメインとした祭りで、様々なビールとソーセージや唐揚げフライドポテトといったつまみを提供する屋台が並ぶ、酒と食事を楽しむことができる祭りだ。夕方前の時間からスタートなので暑さのピークではないにしても、去年も汗だくになりながら腹と舌を満たしきった。
暑さでくたくたになりながらも、疲労を上回る満足から来年もまた行こうねと当時から話していたが、おかげさまで別れることなく今年も二人で行くことができた。
「楽しみやなー去年売ってたメンマあるかな?」
「あれ美味しかったよね。また食べたいなぁ」
思い返すだけで腹が空いてきた所でホームに電車がやってきた。乗り込んだ瞬間に世界が変わったかのように空調の効いた車内の冷気に歓迎された。
「あぁ涼しい」
「最高やね」
少し早めに出たおかげもあってかロングシートの車両は意外と空いていて、難なく二人横
に並んで座ることができた。目的地まで五駅ほどとは言え座れるに越したことはない。暑さで駅に着くまでにすでに体力はいくらか奪われている。わずか十分程度の時間ではあるがここで回復しておこう。そう思っていたところだった。
じじじじじじじじじ。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
「ん?」
不快な異音が車内に響いた。右隣に座るサヨリの顔を見ると、彼女もすでに不快そうに表情を歪めていた。
「うわ、どっかで入ってきちゃったんやね」
幼い頃から耳馴染みのある羽音は、先程まで外で嫌と言うほど大合唱を聞かせていた蝉の音だった。
「どこおるんやろ」
サヨリは言いながらきょろきょろと上下左右をぐるりと見渡す。同じように周りを見てみるが音の出所は確認できない。だがその間にも断続的に蝉の音が聞こえていた。
「わからんなぁ」
対面には家族連れらしい小さい男の子と大人の男女、その左におじいさんが一人。自分達が座るシートには右端におばさん二人、左端には自分達より同じか少し上ぐらいの女性が一人座っていた。もしかしたら、子供が虫かごか何かに捕まえた蝉でも入れているのかと思ったが、そんなものは見る限り確認できなかった。
じじじじじじじじじ。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
三駅過ぎたあたりでもまだ音は聞こえていた。
正直言って蝉は嫌いだった。蝉というより虫全般が嫌いなのだが、もし急に自分に飛び掛かってこられたりしたらと思うとそれだけでも鳥肌が立った。
じじじじじじじじじ。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
四駅が過ぎた。
何度も聞こえる蝉の音はずっと近くから聞こえていた。車両でいえば俺達は真ん中あたりに座っているが音はずっと同じ範囲から聞こえているので、俺からすれば最悪なことだが、蝉は俺達の近い場所にいるようだった。
じじじじじじじじじ。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
もう一駅。あともう一駅の我慢だ。
集中すると、音は自分より左側の範囲から聞こえていることに気が付いた。
あまりじろじろ見るわけにもいかないが、正面の家族連れ、おじいさん、同じシートに座る女性をちらりと確認する。
じじじじじじじじじ。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
『まもなく、〇〇、〇〇』
「ほら、もう着くで」
アナウンスが聞こえたタイミングでサヨリに肩を叩かれた。
「あ、あぁ」
席から立ちあがったサヨリに続いて俺も立ちあがった。
「何から食べよかなぁ」
「ビールがメインやからなこの祭りは」
「私にとっては食べ物メインでビールがサブのつもりやけど」
「まぁ、俺も正直そうやねんけどな」
なんてことない会話をしながら扉が開くのを待った。
「どこにおったんやろな、蝉」
サヨリが自分達の座っていた席を振り返った。
「さぁな」
電車の扉が開き、俺は振り向くことなくサヨリよりも先に足を前に踏み出した。
「行こ」
「う、うん」
彼女の手を握り歩く自分の足は、普段と同じ歩幅だったろうか。
動揺が彼女に伝わってはいないだろうか。
じじじじじじじじじ。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
俺は振り向けなかった。
最後の最後で音の出所が分かってしまったから。
じじじじじじじじじ。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
音はずっと同じ場所から鳴っていた。
降りる直前、俺はなるべくバレないように左側に座っていた女性の方を確認した。
じじじじじじじじじ。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
背筋を伸ばし、やけに綺麗な姿勢で座る女。
彼女の膝に置かれた握りこぶしの隙間から、蠢く小さな何かが微かに見えた。
思わず視線を上げた。
黒く短い髪をした、どこにでもいそうな普通の女の横顔があった。
じじじじじじじじじ。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
ひょっとしたら、見間違いだったのかもしれない。
女の掌の中に虫のような何かがいたのも、まるで何かが必死で出してくれと暴れるように、女の頬が内側から外側に向かってぼこぼこと何度も膨らんでいたことも。
蝉の音はずっと、女の方から聞こえていた。
全てきっと気のせいだ。そんなことをする意味が分からないから。
最後に女を見た時、少しだけ目が合ってしまった。
そして薄く閉じられた唇が、ほんのわずかに開いた。
じじじじじじじじじ。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
でもきっと、全てきっと気のせいだ。
そんなことをする意味が、まるで分からないから。




