守りたい彼女がいる男に生まれてよかった。
蒼い空がどこまでも高く広がっていた午後、蓮は自分の部屋の鏡の前に立っていた。
母が使っている使いかけのリップクリームをこっそり指先にとり、小さな唇にそっと色を塗る。フリルがついた可愛いお姉ちゃんのドレスを、誰もいない隙にこっそり体にあててみた。鏡に映るのは、思い描くお姫様とは違う、ただの男の子の姿だった。
「どうして僕は、男の子に生まれてきちゃったんだろう……」
お人形遊びも、おままごとも、本当は女の子たちと一緒に混ざりたかった。ヒラヒラとした可愛いお洋服を着て、キラキラしたアクセサリーをつけて、可愛い世界の一員になりたかった。男の子という現実が、蓮にとっては窮屈で、切なくて、どうしようもない違和感として胸の奥に澱のようにたまっていた。自分の体が、心とは違う方向を向いている気がして、蓮は毎日のようにそんな物思いにふけっていた。
季節が巡り、蓮が小学生の高学年に差し掛かった頃、運命の出会いが訪れた。
新学期のクラスに転校してきたのは、ショートカットのよく似合う、凛とした雰囲気の少女・葵だった。
葵は男の子勝気な性格で、休み時間になれば運動場でサッカーをしたり、木に登ったりして、誰もが振り返るようなボーイッシュな女の子だった。周囲からは「男勝りだね」と言われることも多く、どこか周りと馴染みきれていない孤独な影をまとっていた。
ある放課後、誰もいない図書室の隅で、蓮は本棚の陰で小さくうずくまる葵を見つけた。葵の手には、ボロボロになった少女マンガが握られていた。
「ねえ、それ……面白い?」
勇気を振り絞って声をかけた蓮に、葵はツンとした鋭い視線を向けた。けれど、すぐにその肩の力がふっと抜けた。
「……別に。でも、こういうキラキラした世界、ちょっと憧れるんだよね。私なんかには似合わないけど」
葵のその言葉に、蓮はハッとした。
自分とは逆のようで、どこか同じ痛みを抱えているような気がしたからだ。
「似合うよ、きっと」
蓮がぽつりと言った。その言葉をきっかけに、二人の距離は急速に縮まっていった。
二人は放課後の時間をずっと一緒に過ごすようになった。
蓮は自分のなかに眠っていた「可愛さを愛でる心」や「繊細な優しさ」を、葵の前では隠さずにいられた。葵は葵で、蓮の前では無理に強がる必要がなくなり、心の底にある本当の自分を少しずつ取り戻していく。
蓮は葵のために、綺麗なリボンを選んで髪を結んであげたり、小さな花かんむりを作ってそっと頭に乗せたりした。
「蓮にしてもらうと、私、なんだか本当の女の子になったみたいだな……」
鏡に映る自分を見て、葵は照れくさそうに、しかし心からの満面の笑みを浮かべた。
蓮はその笑顔を見たとき、胸の奥で何かが劇的に変わるのを感じた。
それまで蓮は、「女の子になりたい」という思いに囚われ続けていた。しかし、目の前で葵が少しずつ柔らかく、愛らしい「女の子」の表情に変わっていくのを見つめるうちに、蓮の心のなかに別の感情が芽生え始めたのだ。
――この笑顔を守りたい。
――この子が安心して可愛い女の子でいられるように、僕が支えたい。
それは、自分自身の性別に対する焦燥感や違和感を、優しく溶かしていくような感覚だった。他者を守りたい、愛したいという強い想いが、蓮の精神を内側から変えていく。蓮はもう、「可愛い服が着たい」と嘆くだけの子供ではなかった。
さらに年月が流れ、二人は中学生になった。
すっかりロングヘアが似合う、誰が見ても愛らしい少女へと成長した葵が、蓮の前に立っていた。かつてのボーイッシュな面影は柔らかい笑顔に溶け込み、葵は眩しいほどの輝きを放っていた。
その隣に並ぶ蓮は、背が伸び、少し引き締まった体つきになっていた。
かつて感じていた性の違和感は消えていたわけではないけれど、今の蓮にとって、それはもう苦しみではなかった。
「蓮、今日の帰り、アイス買って帰ろっか」
「うん、行こうか」
葵がふわりと微笑み、蓮の袖を軽く引っ張る。
その温もりを感じた瞬間、蓮は胸の奥からこみ上げてくる熱い思いを自覚した。
自分が男の子に生まれたからこそ、この可愛い葵の隣で、誰よりも強く彼女の手を引くことができる。守りたい人を守り、愛したい人を真っ直ぐに愛することができる。
青空の下、風が二人の髪を揺らした。
蓮はそっと空を見上げ、心の中で静かに呟いた。
――あの日、男の子に生まれたからこそ、僕は今、この温もりに出会うことができた。
男の子に生まれて、本当によかった。




