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雨音のしおり

作者: 漫大
掲載日:2026/04/18

雨の日だった。


講義が終わって外に出た瞬間、ため息が出る。傘は持っていないし、バスはちょうど行ったばかりだった。


「最悪……」


仕方なく大学の図書館に戻る。

時間を潰すだけのつもりだった。


人は少なくて、雨音だけがやけに大きく響いていた。


ふと、本棚の前で足を止める。


「その作者、好きなんですか?」


声をかけられた。


振り向くと、同い年くらいの女子が立っていた。少し濡れた髪が頬に貼りついている。


「……まあ、結構」


手に取っていたのは、マイナーな作家の短編集。知っている人は少ない。


「私も好きです、その人の書き方」


彼女は少し嬉しそうに笑った。


それが、最初だった。


それから、図書館でよく会うようになった。


約束したわけでもないのに、気づけば同じ時間に同じ場所にいる。


「この前の新刊、読んだ?」


「読んだ。ラスト、どう思った?」


そんな他愛もない会話が、妙に心地よかった。


やがて図書館を出て、カフェに行くようになり、映画を観て、気づけば当たり前みたいに隣にいる存在になっていた。


名前を呼ぶことも、隣を歩くことも、全部が自然だった。


付き合おう、と言ったのはどっちだったか覚えていない。


ただ、そうなるのが当然みたいに、二人は恋人になった。


彼女は、よく笑う人だった。


でも時々、ふとした瞬間に遠くを見るような顔をする。


「どうした?」


そう聞いても、


「なんでもない」


と、すぐに笑ってごまかす。


無理に踏み込むことはしなかった。

言いたくないこともあるだろうと思っていたから。


ただ、心のどこかに引っかかりは残っていた。


付き合って一年が経った。


記念日の日も、いつもと変わらず会う約束をしていた。


でも、その日は来なかった。


連絡もない。


嫌な予感がして、電話をかける。出ない。


何度もかけ直して、ようやく繋がったのは見知らぬ声だった。


「……ご家族の方ですか?」


一瞬、意味が分からなかった。


「いえ、友人で……」


「倒れて、今病院に運ばれています」


頭の中が真っ白になった。


病院で会った彼女は、静かに眠っていた。


点滴の管が何本も繋がれていて、今まで見たことのない姿だった。


しばらくして、彼女はゆっくりと目を開けた。


「……来たんだ」


弱々しく笑う。


「当たり前だろ」


声が震えていた。


「なんで言わなかったんだよ」


彼女は少しだけ目を伏せた。


「言ったら、離れるかもしれないって思ったから」


「そんなわけ——」


否定しかけて、言葉が詰まる。


本当にそう言い切れただろうか。


彼女は続ける。


「私、ずっと前から病気でさ」


重たい持病だった。

長くはないかもしれないと、医者に言われていたらしい。


「だから、普通に恋愛なんてするつもりなかった」


少しだけ笑う。


「でも、あの日……雨の日にさ」


図書館でのことを思い出す。


「話してるうちに、楽しくなっちゃって」


「……バカだよな」


「ほんとにな」


二人で小さく笑った。


「ねえ」


彼女が言う。


「私と出会ったこと、後悔してる?」


即答だった。


「してない」


少しも迷わなかった。


「じゃあ、よかった」


彼女は安心したように目を細める。


「私ね、ちゃんと生きてるって思えたの、あの一年だけだった」


胸が締めつけられる。


「本の話して、笑って、出かけて」


「全部、ちゃんと覚えてる」


「……俺もだよ」


言葉がうまく出てこない。


「もっと早く言ってくれれば——」


「それじゃ意味ないよ」


彼女は静かに首を振る。


「普通に過ごしたかったの」


特別じゃない、当たり前の日々を。


「君といた時間は、全部“普通”だったから」


それが、嬉しかったんだと。


それから数日後、彼女は亡くなった。


あまりにも静かで、現実感がなかった。


雨の日だった。


あの日と同じように、バスに乗り遅れて、図書館に来ていた。


あの棚の前に立つ。


同じ作者の本を手に取る。


ページをめくると、栞が挟まっていた。


見覚えのある、小さな紙切れ。


そこには、彼女の字でこう書かれていた。


「この続き、一緒に話そうね」


思わず笑ってしまった。


そして、少しだけ泣いた。


「……もう聞けないけどな」


静かな図書館に、雨音が響く。


ページを閉じて、本を胸に抱く。


「でも、読むよ」


ゆっくりと呟く。


「最後まで」


外に出ると、雨はまだ降っていた。


でも、不思議と嫌じゃなかった。


あの日と同じはずなのに、少しだけ違って感じる。


傘をさして、歩き出す。


彼女と過ごした時間が、確かにここに残っている気がした。

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