雨音のしおり
雨の日だった。
講義が終わって外に出た瞬間、ため息が出る。傘は持っていないし、バスはちょうど行ったばかりだった。
「最悪……」
仕方なく大学の図書館に戻る。
時間を潰すだけのつもりだった。
人は少なくて、雨音だけがやけに大きく響いていた。
ふと、本棚の前で足を止める。
「その作者、好きなんですか?」
声をかけられた。
振り向くと、同い年くらいの女子が立っていた。少し濡れた髪が頬に貼りついている。
「……まあ、結構」
手に取っていたのは、マイナーな作家の短編集。知っている人は少ない。
「私も好きです、その人の書き方」
彼女は少し嬉しそうに笑った。
それが、最初だった。
それから、図書館でよく会うようになった。
約束したわけでもないのに、気づけば同じ時間に同じ場所にいる。
「この前の新刊、読んだ?」
「読んだ。ラスト、どう思った?」
そんな他愛もない会話が、妙に心地よかった。
やがて図書館を出て、カフェに行くようになり、映画を観て、気づけば当たり前みたいに隣にいる存在になっていた。
名前を呼ぶことも、隣を歩くことも、全部が自然だった。
付き合おう、と言ったのはどっちだったか覚えていない。
ただ、そうなるのが当然みたいに、二人は恋人になった。
彼女は、よく笑う人だった。
でも時々、ふとした瞬間に遠くを見るような顔をする。
「どうした?」
そう聞いても、
「なんでもない」
と、すぐに笑ってごまかす。
無理に踏み込むことはしなかった。
言いたくないこともあるだろうと思っていたから。
ただ、心のどこかに引っかかりは残っていた。
付き合って一年が経った。
記念日の日も、いつもと変わらず会う約束をしていた。
でも、その日は来なかった。
連絡もない。
嫌な予感がして、電話をかける。出ない。
何度もかけ直して、ようやく繋がったのは見知らぬ声だった。
「……ご家族の方ですか?」
一瞬、意味が分からなかった。
「いえ、友人で……」
「倒れて、今病院に運ばれています」
頭の中が真っ白になった。
病院で会った彼女は、静かに眠っていた。
点滴の管が何本も繋がれていて、今まで見たことのない姿だった。
しばらくして、彼女はゆっくりと目を開けた。
「……来たんだ」
弱々しく笑う。
「当たり前だろ」
声が震えていた。
「なんで言わなかったんだよ」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「言ったら、離れるかもしれないって思ったから」
「そんなわけ——」
否定しかけて、言葉が詰まる。
本当にそう言い切れただろうか。
彼女は続ける。
「私、ずっと前から病気でさ」
重たい持病だった。
長くはないかもしれないと、医者に言われていたらしい。
「だから、普通に恋愛なんてするつもりなかった」
少しだけ笑う。
「でも、あの日……雨の日にさ」
図書館でのことを思い出す。
「話してるうちに、楽しくなっちゃって」
「……バカだよな」
「ほんとにな」
二人で小さく笑った。
「ねえ」
彼女が言う。
「私と出会ったこと、後悔してる?」
即答だった。
「してない」
少しも迷わなかった。
「じゃあ、よかった」
彼女は安心したように目を細める。
「私ね、ちゃんと生きてるって思えたの、あの一年だけだった」
胸が締めつけられる。
「本の話して、笑って、出かけて」
「全部、ちゃんと覚えてる」
「……俺もだよ」
言葉がうまく出てこない。
「もっと早く言ってくれれば——」
「それじゃ意味ないよ」
彼女は静かに首を振る。
「普通に過ごしたかったの」
特別じゃない、当たり前の日々を。
「君といた時間は、全部“普通”だったから」
それが、嬉しかったんだと。
それから数日後、彼女は亡くなった。
あまりにも静かで、現実感がなかった。
雨の日だった。
あの日と同じように、バスに乗り遅れて、図書館に来ていた。
あの棚の前に立つ。
同じ作者の本を手に取る。
ページをめくると、栞が挟まっていた。
見覚えのある、小さな紙切れ。
そこには、彼女の字でこう書かれていた。
「この続き、一緒に話そうね」
思わず笑ってしまった。
そして、少しだけ泣いた。
「……もう聞けないけどな」
静かな図書館に、雨音が響く。
ページを閉じて、本を胸に抱く。
「でも、読むよ」
ゆっくりと呟く。
「最後まで」
外に出ると、雨はまだ降っていた。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
あの日と同じはずなのに、少しだけ違って感じる。
傘をさして、歩き出す。
彼女と過ごした時間が、確かにここに残っている気がした。




