インドア・アウトドア
「おお、来たか。二人が来たってことは、いよいよやな。」
腹の出た男が出迎える。
ベッドの角に腰掛け、歯を磨きながら。
男は、迎え入れた二人の手を取ると、しばらく離さなかった。
仮に、二人の名をシゲとカズとでもしようか。
その建物は、入った瞬間に、オシャレなファッションビルを思わせるような。
来た者に、非日常を味わせるような。
そんな場所だった。
わざわざ長いエスカレーターを登らせて、ようやくロビーのような場所。
そこからさらに奥に、最上階まで貫くエレベーターがあった。
男の一室は、最上階ではなく、一つ下の階だった。
「めっちゃエエ部屋ですやん。」
「景色良さそうですね。」
「んなもん、見ようとも思わへんわ。」
時間的に暗いはずの都市は、仄暗い部屋から切り離され、煌々と輝き、眠ることを知らないようだった。
「後でまた来るけど、いったん帰るわ。」
「どっちでもええよ。」
挨拶を交わした男の妻が、そう言って退室した。
男は、それに軽く返すだけだった。
「密室魚って知ってるか?」
3人だけになった部屋で、相変わらずの位置から男が言った。
「ほら、あの漫画に出て来るやつ。」
「いや、知らないっすね。」
訪ねて来た男の一人、シゲが、そう答える。
「あれですよね、なんか密室を魚が泳ぐやつ。」
知ってか知らずか、もう一人の男、カズがそう答えた。
密室魚を、密室と魚に分けただけとも言える。
「あれがな、ずっとここらへん泳いでんねん。」
男は身を乗り出し、椅子に座るシゲの膝のあたりを、魚が泳ぐみたいに空中でかき回してみせた。
「あー、フェンタいってますからね。」
「意識はっきりしてるときにも見えるんですね。」
ベッド脇でちかちか光る機械に目をやり、液晶の文字と、貼られたラベルを見る二人。
「ゾンビたばこで話題になったヤツっすわ。まあ今いってんの、そんなパチもんちゃいますけどね。」
「俺はそんなもん、いらんゆーてんねんけどな。」
シゲの説明に、男の軽口は続く。
「これ、エエよな。いっぺんやったらやめられへんて。」
そう言って、自分の腰まわりを少し浮かせてみせる。
「いやいや、同意求めんでくださいよ。僕が普段から使ってるみたいやないですか。」
まるで共通認識のごとく語られ、少し場の緊張が解れた。
「ただな、めっちゃしょんべん行きたなんねん。」
そう言って、バッグを顎で指した。
「そのまま出してもうてエエですよ。」
とんでもないことを、さも当然のように言い放つシゲ。
それもそのはずである。
「悪い、ちょっと横になるわ。」
シゲは立ち上がり、導尿の管を持ち上げた。
引っ張られて抜けないようにである。
カズは座ったまま、バッグを持ち上げた。
「こっち向きにしか横になられへんねん。ほんでめっちゃここ痛い。」
「あー、めっちゃ痕できてますわ。」
「いつも向き決まってるんでしたら、反対側から出してもろたらエエんちゃいます?」
「交換のついでにやってもらえるか聞いてみるわ。」
「やめられへんのはエエですけど、このままいったらダダ漏れでっせ。」
シゲはそう言いながら、鼠径部にできた深い痕を確認し、寝たり起きたりによって、回ってしまっていたおむつを真っ直ぐに直す。
「あかん、めっちゃしょんべんしたいわー。」
「まあそれ入ってたら、ずっとしたなるもんなんですわ。僕も子どもの頃、膀胱炎になって大人用の一番細いやつぶっこまれましたわ。」
尿意に従ったところで、バッグに入るだけだ。
とはいえ、お腹に溜まった水のせいか、バッグにはほとんど溜まっていなかった。
「腹水、抜けへんのんすか?」
「それがな、血圧がなぜか70台しかないから危ないって言われたわ。」
「あー、それは確かにいってまうかもしれませんね。」
「よっしゃ、起きるわ。」
「おーっとっとっと。」
シゲが背中を支え、カズは導尿の管を持つ。
つい手が出たという感じで。
「元気っすね。」
「そやで。なーんもしんどないもん。」
「飯は食えるんすか?」
「先生は食っても食わんでもエエって。食いたいと思われへんねん。」
「まあ腹こんだけ圧迫されてますからね。」
「シゲさん、ちょっと水取ってくれへん?」
「あ、はいはい。」
「胸ヤケすんねん。水飲むと。これだけなんとかならんかなぁ。」
「なんでしょうね。わからんすわ。」
月末まで、男は外出先の写真を送ってきていた。
それが急に悪くなって、緊急入院になった。
来週には、一軒家を借りて、みんなで集まる予定だった。
最期に馬鹿やりたい。
そんな話をしていた。
だからシゲが、約束の日の段取りを整えた。
急な報せを受けてそれもなくなって、今ここに駆け付けているのである。
「二人が来たってことは、俺もいよいよやな。」
入室直後、そんな風に言われて、どう返せば良いかもわからなかった。
とはいえしばらく話していると、軽口も叩くし、多少不自由はあるものの、言い方は悪いが元気そうだった。
場の空気を軽くしていたのは、他ならぬ末期のはずの男の方だった。
「家族さん一旦帰るみたいなんで、ちょっと話して来ますわ。」
そう言って、シゲは部屋を出た。
残されたのは、男とカズ。
二人だけになった。
「行きたいゆーてた場所って民泊みたいなとこなんですか?」
「おお、めっちゃエエとこやで!」
言ってから、しまったと思った。
話題を振るにしても、叶わなくなった希望の場所だった。
軽率にも程がある。
そんな配慮を欠いた質問にも、男はそこがいかに良い場所かを語ってみせる。
「テレビで言うてた言葉があってな、今めっちゃその気持ちがわかんねん。」
何かを察したのかもしれない。
男は急に深刻ぶるでもなく、ただ少しだけ、言葉を置くように続けた。
「未練はない。ただただ寂しい。」
カズは、何も言えなくなった。
未熟でも、悼んでいないことにはならない。
ただ、ここでは未成熟だった。
シゲは、家族のところへ話をしに行った。
男が横になると言えば、すぐ立って、管を持った。
カズは座ったまま、バッグを持ち上げた。
その差に、意味を見出すのは簡単だが。
だからこそ、カズにはなおさら遠かった。
あれを格好いいとは思えても、自分の延長にあるものとは到底思えない。
どうせ意味がないから、などと切って捨てるほど人の心がないわけでもない。
ただ、過る。
ああいうふうに振る舞えたところで、末期という現実が変わるわけではない。
きっとその瞬間には、こうして言葉にして整理などできていないのだろう。
だいぶ悪しざまな整理ではあるが。
ただ、遅れる、という結果だけが残る。
そんな自分が、もし同じ立場で同じ台詞を口にしたとしても、どこか嘘くさいだろう。
劣等感と呼ぶほど上等なものでもない。
その程度には、自分の性格を知っていた。
入り口が開いて、シゲが戻って来た。
「寄らずに帰るみたいですわ。」
それからしばらく、他愛のない話が続いた。
「クソして寝るわ。」
「可愛い看護師さんに、しっかり変えてもーてください。」
最期までそんな軽口を交わした。
それから数日、男はこの世を去った。
約束の日を、待たずして。




