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私の官能小説が大流行した結果、恋愛経験ゼロなのに女嫌い王太子の恋愛指南役になりました  作者: 高八木レイナ


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八話 夕方の約束

 その夜、リシェルはまったく眠れなかった。

 羽根布団の中でごろりと寝返りを打つ。天井の木目が、月明かりにぼんやりと浮かんでいる。窓の外では夜風が枝を揺らして、葉擦れの音がかすかに届いていた。

 閑静な住宅地にある自室はいつも通り静かなのに、リシェルの胸の中だけが騒がしかった。

 今日の出来事が何度も頭の中で再生される。書庫での会話。エリオスの低い声。


『お前は……男に、慣れているんだろう……?』


(違います!!)


 心の中で叫ぶ。

 男に慣れているなんて、とんでもない誤解だ。リシェルは男性とまともに会話するだけで緊張する。恋人などできたこともない。それなのに。


(恋愛指南って……王太子の……よりによって、王太子の……)


 枕に顔を埋める。布の柔らかさが頬に触れる。だが心は全然落ち着かない。


(む、無理……)


 だが、思い出す。あのときのエリオスの表情を。


『……無理か?』


 ほんの少しだけ、不安そうだった。

 その顔を思い出すと、胸の奥がきゅっと締まる。


(……なぜか、断れなかった)


 リシェルは枕をさらに抱きしめた。羽根が潰れてくちゃりと鳴く。


(どうしよう……で、でもやるしか……)


 己の想像力のみで、これまでも官能小説を書き続けてきたのだ。妄想力にだけは自信がある。

 そうだ。今まで経験のないことを想像で書いてきたのだ。これも同じ。ただの執筆のための——勉強。


「よし……!」


 リシェルは覚悟を決めて、布団の中で拳を握りしめた。

 どうすれば男女の距離が縮まるのか。どんな言葉が心を開かせるのか。リシェルは布団の中で真剣に考え続けた——それはいつもの執筆と、あまり変わらない作業のはずなのに、今夜はどうにも落ち着かなかった。

 夜は静かに更けていった。



 その頃、王宮の王太子の寝室でも、同じように眠れない男がいた。

 エリオスは窓際に立ち、夜の庭を眺めていた。燭台はとうに消えている。灯りの落ちた庭園は静まり返り、低木の輪郭だけが月光に白く浮かんでいた。夜気が窓越しに冷たく漂い、かすかに土と草の匂いを運んでくる。

 だが、彼の頭の中は落ち着かなかった。


(……なぜ、あんなことを頼んだ?)


 自分でも理解できない。恋愛指南など。しかも相手は書庫の司書。


(……いや)


 理由は分かっている。

 カフェの光景が頭に浮かぶ。窓辺の席。柔らかな午後の光。そして、リシェルと向かい合っていた男。


「……」


 それを思い出すと、胸の奥がざわついた。気にしすぎだとわかっていても、何度も思い出してしまう。


(だが……断られなかった)


 エリオスは小さく息を吐いた。白い吐息が、月明かりの中でほんの一瞬、揺れて消えた。

 あのとき、リシェルは迷っていた。それでも最後の一押しをしたら頷いてくれた。それだけで、妙に安心してしまった自分がいる。


(……らしくない)


 王太子が、書庫の司書ひとりに振り回されている。窓硝子に映る自分の顔を見て、エリオスは小さく苦笑した。


(……恋愛指南、か)


 本当に必要なのか。

 ——分かっている。ただの言い訳なことは。

 だが、それでも、明日また話せるということが、エリオスの胸を弾ませた。




 翌日、王宮書庫はいつもと変わらず静かだった。

 高い窓から差し込む光が、埃を金色に浮かばせながら、本棚の列を柔らかく照らしている。いつもの紙とインクの匂い。閉じた窓の向こうに、秋の空が広がっているのが見えた。

 リシェルはカウンターで本の整理をしていた。だが集中できない。


(今日……)


 エリオスは来るのだろうか。いや、来るに決まっている。昨日あんな話をしたのだから。

 ——そのとき、書庫の扉が静かに開いた。蝶番が低く鳴り、リシェルの心臓が跳ねた。

 視線を上げると——エリオスだった。やはり来た、と思う間もなく、心臓がもう一度跳ねた。


「……おはようございます、殿下」


 リシェルは慌てて頭を下げる。エリオスはいつもと変わらず落ち着いた表情だった。


「……おはよう」


 短く答える。ひとつ沈黙が落ちた。二人とも、昨日のことを思い出しているのが分かる。何とも言えない変な空気が、紙の匂いの中に漂った。

 リシェルは勇気を出して口を開く。


「ええと……昨日のお話ですが」


「……ああ」


 エリオスは頷く。


「恋愛指南の件だな」


 声は落ち着いている。だが、ほんの少しだけ強張っていた。

 リシェルは小さく息を吸う。


「お役に立てるか分かりませんが……」


「構わない」


 エリオスは言った。


「俺も、初めてのことだ」


 その言葉に、リシェルは思わず顔を上げた。エリオスは恥ずかしそうに顔を背けながら続ける。


「情けない話だが……俺は女性とどう接すればいいのか分からない。こんなことを言える相手もいない。お前だけだ」


(——お前だけ、だなんて)


 胸がどきりとする。思わず本を胸に引き寄せた。


「だから、お前に教えてほしい」


 彼は静かに言った。

 リシェルの心臓がまた大きく跳ねる。

 エリオスは一瞬考えてから、視線を窓の外へ向ける。


「今だと仕事の邪魔になるだろう。書庫が閉まった後ではどうだ」


 リシェルは目を瞬かせた。


「閉館後……ですか?」


「ああ。その方が落ち着いて話せるだろうし」


 確かに、その通りだった。書庫には昼間、多くはないが人の出入りがある。恋愛の話など、とてもできない。

 最近はルドヴィクが書庫と図書館の鍵を預けてくれるようになっていた。締めの業務は交代制で、今日はもともとリシェルが当番の日だ。だから何ら問題はない。

 ——だけど。


(閉館後……二人きり……)


 その想像をしてしまい、リシェルの顔がじわじわと熱くなる。それでも——彼女は小さく頷いた。


「……分かりました」


 エリオスの目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「では、夕方に」


 低い声が落ちて、彼は出て行った。書庫はいつも通りの静けさに包まれる。

 リシェルはふと、閉じた窓の外へ目を向けた。

 空は高く澄んでいた。秋らしい薄い青が、どこまでも広がっている。ガラス越しに届く光は柔らかく、頬に触れるほどの温もりもない。それでも窓枠の向こうで、木の葉がひとつ、風に流されてゆくのが見えた。


(夕方、か……今日の夕方は、きっといつもとは違う)


 そわそわした気持ちを持て余すように、リシェルは手元の本をぎゅっと胸に引き寄せた。



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