七話 経験ゼロの恋愛指南役
店を出ても、不快感は消えなかった。
カフェの前の通りに少し離れて立っていた護衛騎士が二人、エリオスの姿を見つけて慌てて駆け寄る。
「殿下、お早いですね。カイル様は……?」
「置いてきた」
そう答えた直後、背後で勢いよく扉が開いた。
「殿下! 置いていかないでくださいよっ!」
カイルが慌てて店から飛び出してくる。
御者がすぐに馬車の扉を開けた。
エリオスは何も言わずにステップを上がり、馬車へ乗り込む。すぐ後ろからカイルも滑り込んできた。
エリオスは馬車の窓から外を眺めると、窓辺の席に座っていたリシェルと目があった。
その戸惑い混じりの赤らんだ表情を見ていられずに、エリオスは視線を逸らす。
それでも胸の奥に引っかかったものは、ちっとも落ち着かない。
(……何だ、この感情は)
腹立たしいような、落ち着かないような。
扉が閉まり、車輪が石畳の上を転がりはじめる。
カイルは向かいの席に座るなり、じっとエリオスの顔を覗き込んだ。
「……殿下」
エリオスは答えない。
視線は窓の外に向けたままだ。
「殿下?」
「何だ」
「めちゃくちゃ機嫌悪いですね」
「別に」
即答だった。
「いや別にじゃないですよ。さっき店の中で、急に立ち上がって出ていくし」
馬車が石畳を越えるたびに、小さく揺れる。
窓の外では夕暮れが始まっていた。通りの灯籠に火が入り、橙色の光がぼんやりと広がり始めている。
だが、エリオスの胸の内だけが妙に騒がしかった。
「……用は済んだ」
「済んでませんでしたよね? まだ注文もしてなかったじゃないですか」
カイルは即座に突っ込む。
エリオスは答えない。
カイルは少し身を乗り出し、声を潜めて言う。
「もしかして、さっきの女の子、知り合いですか?」
エリオスの視線が、わずかに動いた。
何も言わなかったが、カイルは察してしまったようだ。
「へえ」
にやりと嫌な笑いを浮かべる。
「殿下が女の子を気にするなんて初めてじゃないですか?」
「違う。そんなんじゃない……彼女は、ただの書庫の司書だ」
「ふーん」
明らかに信じていない声だった。
「その"ただの司書"が、さっき男と一緒にいたから機嫌悪いんですか?」
「違うと言っているだろう」
低い声だった。
カイルはますます面白そうな顔をした。
「殿下、それ。嫉妬って言うんですよ」
馬車の中の空気が一瞬で冷えた。
「……くだらない」
エリオスは視線を外に戻す。
通りはいつもと変わらない。人々の話し声、荷車の音、遠くから聞こえる商人の呼び声。
だが、頭の中からあの光景が離れない。
カフェの窓際。柔らかな午後の光の中で、彼女は少し恥ずかしそうに俯いていた。淡い灰青の髪が頬にかかり、白い耳が見る間に赤く染まっていく。
『……それは嫉妬心が過ぎませんか?』
小首を傾げて言った声。
『や、やめてくださいっ。ここはカフェですよ?』
慌てて顔を伏せた姿。
思い出した瞬間、胸の奥がまた軋んだ。
(……妙にイライラする)
腹立たしいような、落ち着かないような。
カイルがまた口を開く。
「相手、年上でしたね。結構親しそうでしたし」
エリオスの眉がわずかに動く。
「付き合ってるんじゃないですか?」
その一言で、胸の奥に何かが落ちた。冷たく、重く。
(……付き合っているのだろう)
そう考えるのが自然だった。
貴族の娘が男と二人きりで会う理由など、それ以外にあまり思い浮かばない。
――だが、なぜか気分が悪い。
(彼女が誰と会おうと、関係ないはずだ……)
彼女は書庫の司書で、ただそれだけの関係。
それなのに――。
エリオスはゆっくり息を吐いた。
(……そういうことか)
ようやく理解する。
胸がざわついた理由も、あの男を見た瞬間に湧き上がった不快感も。
(……俺は——)
ほんのわずか逡巡してから、心の中で言葉にする。
(……リシェルのことが、気になっているらしい)
口に出せば滑稽だろう。
女嫌いと言われ続けた王太子が、書庫の司書ひとりに心を乱されているのだから。
だが、もう己の感情を否定はできなかった。
カイルがふと呟く。
「殿下、もし本当に彼女が気になるなら、動いたほうがいいですよ。何もしないままだと後悔します」
エリオスは何も答えられなかった。
ただ、車窓の外を見つめたまま、小さく息を吐いた。
(……厄介だな)
恋に気づいた瞬間に、実らないと分かってしまった。
(だからといって何ができる?)
相手には、恋人がいる。そんな相手にアプローチするなんて――。
(……愚かしいことだ)
振られたら、自分が傷つくだけだ。それにエリオスの王太子という立場もある。エリオス自身の意思とは無関係に、彼らの実家にも圧がかかってしまうだろう。結果的に恋する二人を引き裂くことになり、リシェルから恨みを買うかもしれない。
(……だが、簡単に諦められるのか?)
胸の奥のざわめきは消えなかった。むしろ、はっきり自覚した分だけ、以前よりも鮮明に彼女の存在を主張している。
あの光景を思い出すと、暗い感情が静かに広がっていく。頭の中からリシェルの姿が消えることはなく――馬車は王宮へ戻る間も、エリオスはただ暗い表情でうつむくことしかできなかった。
◆
王宮へ戻ると、ほどなくして侍従から声がかかった。
「陛下がお呼びです。王妃殿下もご一緒に」
嫌な予感しかしない。
エリオスはわずかに眉をひそめながら、国王の執務室へ向かった。
廊下は静かで、足音だけが石の床に響く。扉の前に立つと、向こうから低い人の気配がした。
重厚な扉を開けると、国王ヴァルド・アルクレインが書類から顔を上げた。黒髪に金色の瞳。エリオスと似た造作だが、年月が刻んだ渋みがある。その隣には、王妃アリアンナが穏やかな表情で座っていた。淡い金に白銀が混じった髪が燭台の光を受けてやわらかく輝き、青灰の瞳がエリオスをとらえた瞬間、静かな笑みが浮かんだ。
「来たか。まぁ、座れ」
国王は顎をしゃくる。
促されるまま向かいの椅子に腰を下ろすと、アリアンナが柔らかな微笑みを向けてきた。蜂蜜色の燭台の光の中で、その表情がひどく穏やかに見えて、余計に身構えてしまう。
「エリオス。今日は少し大事な話があるの」
国王は机の上の書類を軽く叩いた。乾いた音が室内に響く。
(……やはりそれか)
エリオスは書類に描かれた令嬢の姿絵と家族構成などの情報を辟易しながら見おろした。
「これは……?」
言われなくても意図はわかっていたが、エリオスはそう尋ねた。
「そろそろ決めてもらおうと思ってな」
「何をでしょう」
「婚約者だ」
国王から、はっきりと言い切られた。
「お前ももう二十歳だろう。各家から候補は十分に出揃っている。公爵家、侯爵家、それに隣国王女の打診もある」
アリアンナが続ける。
「すぐに結婚とは言わないわ。でも、婚約だけでも決めておいたほうがいいわよ。政治的にもね」
アリアンナは穏やかな声で言い、ふっと小さく笑った。
ふと、エリオスは母親が手元に置いていた本に視線を落とす。
革装丁の表紙に、夜空の三日月の意匠。見覚えのある本だった。
その本を、アリアンナが手に取る。
「ヴァルド、さっきからこれが気になって仕方がないの。第五章まで読んだら続きが気になってしまって」
「執務室に持ち込むな」
国王が即座に返す。眉間に皺が寄っているが、声に本気の怒りはない。
「でも面白いのよ。ねえ、あなたも読んでみて。騎士団長がヒロインに――」
「聞きたくない」
「つれないわ。あの作者は恋愛の心理を書くのが本当に上手なのよ。王族の婚姻についても、一度は読んでおく価値があると思うわ」
「それは詭弁だ」
国王は呆れた表情でアリアンナを見た。それでも本を取り上げようとはしない。
「侍女たちにも回してるの。皆、夢中よ」
「……後で読む」
ぼそりと言った国王に、アリアンナは嬉しそうに微笑んだ。
「まぁ。では感想を聞かせてね」
エリオスは思わず顔を上げた。
(父上まで……)
という感情は飲み込んで、静かに言う。
「……母上が? その本の、ファンなのですか」
「ええ。それが何か?」
アリアンナの青灰の瞳がエリオスをとらえる。その眼差しに、ほんの少しだけ含みがあった気がして、エリオスは視線を逸らした。
アリアンナは扇で口元を隠して笑った。
「……あなたも、そういう顔をするのね」
エリオスはわずかに眉をひそめた。
「だから面白いんですよ。恋は時に残酷なもの」
(――恋……)
あの作者なら、エリオスのこの状況をどう書くだろうか。そんな現実逃避じみたことを考えた。
エリオスは小さく息を吐いた。
「……婚約者のことは、もう少し時間をください」
「時間? どれくらいだ?」
国王が眉を上げる。
「……まだわかりません」
「わからない、では困る。お前は王太子だ。結婚は恋愛ごっこではない」
国王は腕を組んで言う。
正論だった。言葉が胸に刺さる。
エリオスは静かに言った。
「――いずれ決めます。ですが、今はまだ……」
国王はしばらく沈黙したあと、短く息を吐いた。
「……分かった。猶予はやる。だが、長くは待たんぞ」
「承知しています」
エリオスは立ち上がり、軽く礼をして部屋を出た。
廊下に出ると、ひんやりとした夜の空気が肌に触れた。 壁に並ぶ燭台の炎が揺れ、石壁に長い影を落としている。
(……婚約者、か)
いままでは逃げてきたのだ。潮時なのかもしれない。
彼女には既に相手がいる。叶わない恋に身を焦がすことはできない。
(だが……婚約者を決めろと言われても、女性とどう接すればいいのか……)
エリオスは女性が苦手だった。社交界の令嬢たちの視線。計算された微笑み。どれも息が詰まる。
ふと、リシェルの顔が思い浮かぶ。――カフェで年上の男と恋愛の話をしていた、あの光景。
(自分は未経験なのに……)
そう思うと、劣等感が湧き上がる。
男としての矜持が、じわじわと傷ついていく気がした。
彼女は既に知っているのだ。男とどう接すれば相手が喜ぶか。初めて手を握ったときの感触や、もしかしたら口づけの熱さえも……。
そう思うと、怒りと共に頭がすっと冷えていくようだった。
(……あれだけ堂々と話していたんだ)
彼女は恋愛に詳しいのだろう。そう結論づけるしかない。
苦い澱のような感情が、じわじわと身の内に満ちていくのを感じた。
◆
翌日、エリオスは重い足取りで書庫の扉を開いた。
蝶番が低く鳴り、紙と古いインクの匂いが静かに迎える。いつ来ても変わらない、この落ち着いた空気だけは、妙に居心地がよかった。
(……あるいは、彼女がいるからか?)
カウンターの向こうに、リシェルの姿があった。
顔を上げた瞬間、彼女の目が大きく見開かれる。
「エリオス殿下……!」
どうやら慌てているようだ。頬に薄く色が差しているのが、遠目にも分かった。
エリオスは無表情を取り繕ってカウンターの前に立った。
「……あの、殿下。昨日は……その……」
リシェルが恐る恐る口を開く。
自分をこけにするように笑ったギルベルトの表情も思い出した。
心臓を爪で引っかかれているような気分になる。
エリオスは思わず自嘲の笑みをこぼした。
「カフェで会っていた男のことか?」
リシェルの肩がびくりと震えた。
「……仲が良いようだったな」
「い、いえ、あれは――」
言いかけて、彼女は口を閉ざす。言い訳を探しているように見えた。
胸の奥で、嫌な感情がじわりと広がった。
(……やはりそういう関係か)
自分には関係ない。そう思っているはずなのに、苛立ちが込み上げる。
こんなときにも愛らしく頬を赤らめてうつむくリシェルが、憎らしく感じてくる。
エリオスは視線を僅かに落とし、彼女の耳元に顔を近づけて低く言った。
「お前は……男に、慣れているんだろう……?」
リシェルの顔が一瞬で真っ赤に染まり、片耳を手で押さえた。
「えっ!? そ、そんなこと――」
慌てる様子を見て、エリオスはわずかに眉をひそめる。
(……言い過ぎたか)
だが、もう言葉は止まらなかった。
「カフェであれだけ堂々と恋愛の話をしていたんだ。そういう経験が豊富なんだろう?」
少しだけ視線を逸らす。意地悪すぎただろうか。
エリオスの冷淡な言葉に、リシェルは完全に固まっていた。
(ああ……もう、本当に俺は頭がおかしくなっている)
そう思っても止められなかった。こんなときだけ冷静に頭だけは回る。
指で司書机をこつこつと叩く。
「……じつは国王から婚約者を早く選ぶようにせっつかれていてな。だが、俺は女性とどう接すればいいのか分からない。苦手なんだ」
エリオスは続ける。声が、思っていたより低くなった。
リシェルがぽかんとした顔になる。
「は、はい……?」
話が読めないのだろう。
エリオスは真っすぐに彼女を見た。一瞬だけ言葉を探す。
(これは……言い訳かもしれない)
それでも口に出す。
「だから、俺の練習に付き合ってくれないか」
「……え? な、何のです?」
書庫の静寂が、その言葉を包んだ。
少し言いづらくて、エリオスは視線を伏せる。
「お前なら……その……経験もありそうだから。女性とどう接すればいいか……俺に教えてくれ」
(……少しでも、彼女と話す口実がほしい)
そんな本音は、もちろん口にはできないけれど。
◆
心臓が止まりそうだった。
カフェでの打ち合わせ。殿下はあそこにいた。あの会話を、少なからず聞かれていた。それだけは確かだ。
(で、でも……)
恐る恐る、さっきの言葉を思い返す。態度。表情。言葉の端々。
(……気づいてない?)
どうやらエリオスは、リシェルが官能小説作家『無慈悲な夜の女王』だとは気づいていない。それは分かった。
でも——。
(ギルベルトさんと付き合ってると、思われてる……?)
思い当たる節しかない。カフェで二人きり。しかも恋愛の話。誤解されても仕方のない状況だった。
しかし、なぜギルベルトと二人で会っていたのかを説明すれば、官能小説の打ち合わせだと明かすことになる。それだけは絶対にできない。
つまり、誤解を解く言葉がない。
(男に慣れている、って……)
リシェルは男性とまともに話すだけで心拍数が跳ね上がる。今この瞬間も、耳元で囁かれた余韻がまだ残っていて、胸が痛いほど鳴っているのに。
(そんな自分が王太子の恋愛指南……?)
しかも相手は、女性が苦手なはずのエリオスだ。なのに、あの距離で、あの声で——。
頭の中がぐるぐるする。
「……無理か?」
その声は先ほどまでの王太子のものとは違って、少しだけ弱かった。
少し不安そうに問いかけてくる、その顔を見てしまうと——。
(断れない……)
リシェルはぎゅっとスカートを握った。
「い、いいえ……」
声が震える。
「お役に立てるかは分かりませんが……」
エリオスの顔が、わずかに緩んだ。
「……そうか。報酬は用意する。望むものを言え」
「……いえ、そんな大それたものは」
慌てて拒否するが――。
「遠慮するな。終わったときでいい」
エリオスは、そう言って微笑む。
(私、恋愛経験ゼロなんですけど──!!)




