五話 削除された章
エリオスとギルベルトが去り、書庫は再び静寂に包まれた。
けれど――先ほどまでとは違う静けさだった。
落ち着かない。
理由もなく、胸の奥がざわつく。
リシェルは無意識に胸元へ手をやった。
(……なぜかしら)
禁欲のユニコーン先生の本を見られる危険は、とりあえず去ったはずなのに。
脳裏に浮かぶのは、去り際のエリオスの青い瞳。
いつも通り無表情だったが――ほんのわずかに、剣呑な色が混じっていた気がする。
(そういえば……あの方は)
ふと、さっきの出来事が頭をよぎる。
エリオスは以前、この書庫で夜の女王のコーナーへ向かっていたことがあった。
(でも、王族なら自分で持っていてもおかしくないのに……)
なぜわざわざ、ここで読むのだろう。
気になって、リシェルは視線を巡らせた。
書架の一角――例の本が並んでいる棚へと向かう。
ふと、背後で足音がした気がした。
(見られたら恥ずかしいから、自分では持っていないのかな……?)
けれど二年間も書庫へ通って読んでいるなら、自分で持ったほうが早いはずだ。本くらい、部屋のどこかへ隠しておけばいいのに。
「何か気になる本でもあったのかい?」
背後から落ち着いた声がした。
叔父の声だ。
急に現実に引き戻される。
「ルド叔父さん!?」
ちょうど『夜の女王』の棚の前だ。
リシェルは気まずくなり、慌てて誤魔化す。
「ちょっと掃除をしていて」
「そうか」
ルドヴィクはそれ以上追及してこない。
(大人だ……)
からかわれるのが苦手なリシェルは安堵した。
ルドヴィクのこういう節度のあるところが、書庫の主として信頼されている理由なのだろう。
「この本だけ、だいぶ傷んでいるな。修復しないと」
そう言ってルドヴィクは『夜の女王』の本を棚から引き出した。
リシェルはどきりとする。親族に自分の官能小説を手に取られるのは、どうにも落ち着かない。
けれどルドヴィクは、いつも通りの穏やかな表情だった。
(叔父さんは気づいていないはず。平常心……平常心っと……)
リシェルはそう自分に言い聞かせる。
「殿下がよく眺めているせいかな」
ルドヴィクは軽く笑った。
リシェルの頬が熱くなる。
「殿下は、なぜ……」
エリオスと最初に出会った日。あのときも確か、この書庫で夜の女王のコーナーへ向かっていた。
「殿下は、ご自分ではこの本を持っていないのでしょうか……。どうして、ここで読まれるのかな、と思って」
思わず口に出す。
ルドヴィクが小さく笑った。
「それは簡単だ」
彼は慣れた手つきで一冊を棚から抜き取る。
「これは初版だろう」
革装丁の色が、わずかに違う。背の金箔の模様も現行版とは異なっている。
ルドヴィクは、ぱらり、とページをめくる。
乾いた紙の匂いが、ふわりと広がった。古い紙特有の、ほのかに甘い香り。
「これは"第七章"がある」
彼の指先が示した目次には、現行版ではない章題があった。
ルドヴィクがぱらぱらとめくって第七章を開く。
その辺りの頁の端は、わずかに擦り切れていた。まるで、そこだけ何度も誰かに読まれたかのように。
それに気づいて、心臓が強く跳ねる。
「……それは」
喉から声がかすれて出てきた。
「著者によって、削除された章だ。後の版では丸ごと落とされた部分。"第七章"は試刷りに近い初版にしか載っていない」
リシェルは息を呑んだ。
"第七章"は、自分で削った。
あまりに作者の感情が滲みすぎていたから。それはキャラクターの感情というよりは、作者の声を代弁させてしまったように感じた。だから物語として整えるために切り落とした部分だ。
「殿下は装丁違いも集めておられるらしいが……おそらく目的はこれだろう」
ルドヴィクは静かに言う。
「現行版と照らし合わせて、違いを確かめているのだろう」
――違いを、確かめる。
あのときの姿が蘇る。
彼はただ読んでいたのではない。
頁をめくる手が止まり、文字を追う目が、何かを探すように動いていた。
まるで――失われたものを確認するかのように。
高窓から差し込む午後の光が、初版本の頁を照らしている。
削除したはずの言葉たちが、静かにそこに在った。
彼の青色の瞳が、それを読んでいる姿を想像してしまう。
どんな気持ちで、あの章を探しているのだろう。
書庫は変わらず静かだ。
紙と革の匂いに満ちた、閉ざされた空間。
けれどリシェルの胸の内だけが、波紋のように揺れ続けていた。
(あの方は……何を求めているの?)
答えは分からない。
けれど彼の静かな表情が、前よりも少しだけ気になってしまうのだった。
◆
王宮での仕事を終えてリシェルが家に戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。
タウンハウスの二階にある自室へ入り扉を閉めると、ようやく肩の力が抜ける。
ランプに火を入れると、やわらかな橙色の光が部屋を照らした。
机の上には書きかけの原稿とインクペン。
整えたはずの本棚からは本が溢れ、床にもいくつか積まれている。
リシェルは外套を脱ぎ、椅子の背に掛けた。
(今日は、なんだか疲れた……)
書庫での出来事が頭の中を何度も巡る。
エリオスの青い瞳。
距離の近さ。
ギルベルトの突然の来訪――。
小さく息をつくと、ふと視線がクローゼットへ向いた。
(……久しぶりに、あれを読もうかしら)
そっと扉を開ける。
整然と並ぶ衣装の奥に手を伸ばし、さらにその奥――棚の隅に押し込んであるぬいぐるみを、そっと脇へどけた。
その後ろに隠してある包みを引っ張り出す。
縛ってある布をほどくと現れたのは、一冊の本だった。
濃紺の装丁。夜空に浮かぶ三日月の意匠。
『無慈悲な夜の女王』
の初版本。
思わず口元がゆるむ。
(やっぱり、この装丁が一番きれい……)
誰にも見つからないよう隠している、密かな宝物だ。
リシェルは本を抱えたままベッドへ向かい、ぽすん、とその上に転がった。
柔らかな枕に頬を押しつけながら、仰向けになって頁を開く。
紙がさらりと鳴った。
そこにあるのは、削除したはずの第七章。
そこに残る、自分のつたない言葉。思わず消してしまいたくなるような――それを、指先でなぞる。
ざらりとした古い紙の感触。わずかに残るインクの匂い。
王は民に選ばれることはない。
生まれた瞬間から、選ぶ側に立たされる。
だが、ただ一人の伴侶には――選ばれたいと思ってしまった。
胸の奥が、かすかに疼く。
(どうして、こんなふうに書いたのかしら)
あの頃は、ただ騎士団長であるヒーローの友人役として登場した、チョイ役の王子の視点を書いただけだった。
けれど今、妙にリアルに、青い瞳が浮かぶ。
無表情で、静かで、何も語らない人。
それでも時折見せる沈黙の奥に、何か押し込めた感情がある気がしてしまう。
(あの方も……)
選ぶ立場にいながら、選ばれたいと願うことがあるのだろうか。
自分で削った一文が、急に違う意味を帯びる。
自分が不要と捨てた文章が、誰かに必要とされるとは思っていなかった。
なんだか、心が落ち着かない。
リシェルは身を起こして、机へと向かった。
気づけば、手は新しい紙を引き寄せていた。ペンを握る。
指に伝わる木軸の滑らかさ。インク壺から立ちのぼる鉄の匂い。
さらり、と筆が走る。
王太子は、微笑みながら頷いた。
誰よりも冷静で、誰よりも正しい顔で。
だがその胸の奥には、誰にも言えない願いがあった。
――選ばれたい。
書きながら、鼓動が速くなる。
(これは物語……ただの空想)
頁を重ねる音が、やけに大きく感じられた。
◆
その日の閉館時間前、書庫の机に肘をつき、エリオスは指先でこめかみを軽く押さえた。
目の前に置かれているのは、白い装丁の一冊。銀で箔押しされた角の意匠。
――『禁欲のユニコーン』の小説。
リシェルが隠した本の意匠が気になり、彼女の退勤後にわざわざやってきたのだ。
ルドヴィクが遠くの司書机であくびをしており、こちらに注目していないのをいいことに、エリオスはその本を開いた。
(――あのとき)
リシェルが落とした装丁には、銀色のユニコーンが施されていた。
それは『禁欲のユニコーン』という作者の本の特徴だ。
さりげなく書架を確認して題名を知った。
ただ――彼女が机の下に隠すほど慌てていた。あの様子が妙に引っかかった。
(……ただの、文学研究のためだ)
そう自分に言い聞かせてから、それだけ確かめれば十分だと思っていたのに、気づけば本を開いていた。
頁をめくる音が、静まり返った室内でやけに大きく響く。
紙は上質で、指先に吸いつくように滑らかだ。微かにインクの匂いが立ち上る。
黙々と読み進める。
整った文章、静かな心理描写、理性を重んじる王太子。
「ほう……」
エリオスは眉をひそめる。
だが数頁後、空気が変わった。
婚約者候補に向けられる視線。
王太子の抑制された言葉の裏に潜む独占欲。触れぬまま囲い込むような――。
燭台の炎が、ぱちりと爆ぜた。
喉がわずかに乾く。
「……やりすぎだ」
そう呟きながら、視線は頁から離れない。
(独占欲が強すぎる……)
これは女性達の理想化された男性像なのだろう。
現実の王太子が、ここまで感情を露わにするなどありえない。いや、あってはならない。
頁をめくる。
今度は、抑えていた理性が揺らぐ場面だ。
直接的な言葉ではない。しかし言葉の選び方が熱を帯びていて、読んでいるこちらの体温まで少し上がる気がした。
喉をひとつ鳴らし、エリオスは頁を繰る速度を落とした。
胸の奥がわずかにざわつく。
そのとき、不意にリシェルの赤くなった頬が脳裏をよぎった。
(彼女は……これを読んでいたのか)
澄ました顔で、机の下に隠して。
自分が近づいたとき、必死に取り繕って。
(……隠す必要なんてないのに)
エリオスだって、夜の女王の著書を読んでいるところを見られたのだ。おあいこだろう。
――もちろん、見られて気まずいのはわかるが。
(……もう良いか)
ぱたりと本を閉じた。
だが完全に閉じる前に、無意識に栞を挟んでいた。
その事実に気づき、しばし沈黙する。
窓の外で風が強まり、硝子がかすかに震えた。
エリオスは椅子にもたれ、天井を見上げる。
暖炉の炎の揺らぐ音だけが、部屋に低く満ちている。
――理想の執着王太子。
理性的でありながら、独占欲を隠し持つ存在。
(……彼女もこんな男を、望んでいるのか?)
胸の奥に、言葉にならない感情が小さく灯る。
それが何なのか、まだ名前をつけられずにいた。
ただ――彼女のことが、頭から離れない。
それだけは確かだった。




