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私の官能小説が大流行した結果、恋愛経験ゼロなのに女嫌い王太子の恋愛指南役になりました  作者: 高八木レイナ


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四話 接近する二人

 その日の休憩時間。

 書庫の窓の外では、細かな雨が静かに降り続いていた。灰色の空に光は弱く、窓辺は薄暗い。

 雨粒が硝子を叩き、さらさらと筋になって流れ落ちていく。

 暖炉にはまだ火が残り、ぱちり、と薪がはぜる音が時折小さく響いた。

 湿った空気の中に、インクと紙の匂いと、わずかに甘い蜜蝋の香りが混じる。

 雨音に包まれた王宮秘蔵書庫は、どこか落ち着いた静けさに満ちていた。

 リシェルは周囲を一度だけ確認すると、司書机の椅子をわずかに机へ寄せた。そして膝の上へと一冊の本を滑り込ませる。

 白い装丁。銀で箔押しされた一角獣の意匠。


(『禁欲のユニコーン』先生の本……)


 編集長ギルベルトから、『禁欲のユニコーン』先生の腹黒執着王太子が人気を集めつつあるという話は聞いていた。今度本屋で探してみようと思っていたのだが、ここの書庫に所蔵されているのを見つけてしまったのだ。

 今はちょうど、ルドヴィクも席を外している。読むチャンスだった。

 机の陰に隠れるようにわずかに身をかがめ、そっと頁を開いた。紙をめくる乾いた音が、やけに大きく感じられる。


(……本当に勉強のためよ)


 腹黒執着王太子を書くにあたって、勉強は欠かせない。そう自分に言い聞かせながら視線を走らせる。

 端正な文体。静かな導入。

 しかし数頁も進めば、理性の仮面の奥に滲む王太子の独占欲が濃くなってくる。


(……婚約者候補への執着は強いけれど……少し、やりすぎでは……?)


 喉の奥がかすかに熱くなった。指先で頁の端をきゅっと摘まむ。文章は直接的な性描写ではない。だが、触れられそうで触れない距離感や、囁き声が耳元に落ちるような描写が、じわりと肌にまとわりつく。濃厚だ。


(……参考にはなる。なるけど、なぜ顔が熱くなっているんだろう、私は)


 頁をめくる手が、少し遅くなった。


(禁欲……とは……?)


 どう考えても禁欲ではない。


 ――その時。


 こつ、と革靴の音が回廊に響いた。書庫の奥にある側扉が、遅れて開く。鈴の音が来訪者を知らせる。

 人の気配に、リシェルの心臓が跳ねる。


「……久しぶりだな」


 その声は、普段よりわずかに低く、どこかぎこちなかった。エリオスだ。

 反射的に本を閉じ、机の引き出しへ隠そうとした――が、間に合わない。とっさに膝の上から机の下へ滑り込ませ、裾で隠した。ぎし、と椅子が鳴る。


「……何をしている?」


 彼は不思議そうに首を傾げていた。秋の雨の気配をまとって入ってきたのか、室内の暖かさとは対照的な冷たい濡れた空気とともに、淡い香木の香りが近づいてくる。


「い、いえ。少し……考え事を」


 声が、わずかに上ずった。

 エリオスの視線が机の周囲をゆっくりと巡る。白い指先が机の縁に触れ、軽く叩いた。


「……顔が赤いようだが」


「暖炉が……少し、暑くて」


 ぱちり、と再び薪が爆ぜた。

 沈黙が落ちる。その間、机の下の本がやけに存在感を主張している気がしてならない。

 やがてエリオスは、小さく息を吐いた。


「……先日のことだが」


 その声は、いつもよりわずかに柔らかい。


「驚かせてしまったな。すまなかった」


 リシェルは瞬きをした。予想外の言葉だった。


「いえ……あれは、私の不注意です。脚立に乗ったまま、手を伸ばしすぎて……」


 あの瞬間を思い出す。視界が傾き、落ちる感覚。強く引き寄せられた腕。胸元に触れた、硬い感触と確かな体温。それがぶわっと蘇ってきて、リシェルの頬を赤らめる。


「た、助けていただき、ありがとうございました……」


 素直に頭を下げると、エリオスは少しだけ目を細めた。


「当然のことをしたまでだ」


 短い言葉。けれどその視線は、どこか熱を帯びているようにも見えた。


「……身体チェックはしないのか?」


 ふと、彼が一歩近づく。


「あっ、そうでした!」


 立ち上がった拍子に膝の上の本がずれ落ちて、大きな音を立てて床に転がる。リシェルの背筋が凍りついた。


「……大丈夫か?」


 エリオスがそう言って司書机を回り込んでやってこようとしたので、慌てて止めた。心臓が、喉までせり上がる。


「だ、大丈夫です!」


 急いで本を拾い上げて背中に隠す。

 エリオスはじっと訝しむようにリシェルを見つめた。


「……そうか?」


 それ以上は追及しない。

 だがその声は、どこか含みを帯びていた。

 本を引き出しに隠してから、まずは持ち物の確認から済ませる。エリオスは手ぶらで来室していた。筆記用具すらない。問題はない。そのままささっと本人への身体チェックも済ませた。

 彼は目当ての本があるのか、まっすぐに歩いて行った。

 その彼の背を見送りながら、リシェルは長く息を吐く。やっと肩の力が抜けた。


(……た、たぶん表紙は見られてないはず)


(……でも、また来てくれて良かった)


 エリオスとまた会えたことに、ほのかな喜びが沸いてくる。


(い、いや。謝れたから、安心しただけよ。それに私のせいでこられなくなるのは申し訳ないし……)


 そう言い訳のように考えてしまうのは、なぜなのだろうか。

 いつの間にか、雨の音は止まっていた。

 二人きりの書庫に振り子時計のカチカチと鳴る音と、静かな呼吸音が息づいている。

 窓の外では、植え込みの植物の葉の雫がきらきらと光っていた。

 高窓から差し込む夕陽は淡く、書架の影を長く落とす。


(何だか、世界に二人きりしかいないような不思議な気持ちになるわ……)


 図書館という異質な場所が、そんな空気をもたらすのだろうか。

 回廊を歩く衛兵や使用人の足音さえ、ここまでは届かない。


(変に意識してないで、仕事をしないと……)


 リシェルは気を取り直して、エリオスが外交記録の棚にいるのを確認してから、そっと足音を忍ばせて手に持っていた『禁欲のユニコーン』の本を元の書架に戻した。


(休憩時間は終わり。続きはまた今度っと……)


 リシェルは書見台に向かった。それは大きい本を読むための斜めになっている木製の台だ。そこに蔵書目録帳を広げてある。


 ――休憩時間前に、おかしなところを見つけたのだ。


 リシェルは書見台の前で、小さく息をついた。


(……おかしいわ)


 指先で紙の台帳をなぞる。ざらりとした感触。

 昼間に高官が来て『王族婚姻規定・旧版』を探していたので手伝ったのだが、台帳に記載されている番号と同じ棚番号をくまなく探しても目的の本が見当たらなかったのだ。


(もう一回、探してみるか……)


 リシェルは王家の記録がある棚へと向かい、一冊一冊背表紙をチェックしていく。


 ――が、見つからない。


「どうしてないの……」


 思わず嘆息混じりにつぶやいてしまったとき、背後から声が聞こえた。


「……何か探しているのか?」


 低い声が、静かに落ちた。


「わっ……」


 振り返ると、エリオスが立っていた。好奇心に満ちた青色の瞳が、こちらをまっすぐに見ている。


「すまない。驚かせたか?」


「いえ、大丈夫です……」


 深呼吸するが、なぜか頭がぼんやりする。落ち着かない。


「……近くの棚にたまたまいたら、君の声が聞こえたから」


「ああ……すみません。うるさくしてしまって……」


 思わず漏れた声が聞かれてしまったことが気まずい。

 エリオスは軽く首を振る。


「いや、別に構わないが……何を探していたんだ?」


「それが……」


 リシェルは本の題名と事情を話した。

 エリオスは顎を撫でる。


「『王族婚姻規定・旧版』か……それなら、前に読んだことがあるな。探すのを手伝おう」


 突然の彼からの申し出に、リシェルは慌てた。


「え!? いや、そんな……殿下に手伝っていただくわけには……それは司書の仕事ですし」


「良いから。二人で探すほうが早い」


「でも……」


「君は見てて、危なっかしい」


 そっぽを向いて言われた言葉に、リシェルの顔が赤らむ。

 あの日、脚立から落ちた自分を彼が抱き止めた感触が、一瞬だけ蘇った。


「大丈夫です。前回のようなことは――」


 エリオスは表情を変えない。


「念のためだ」


 そう言って押し切られてしまった。


「あ、ありがとうございます……」


 リシェルは視線を棚へと戻す。

 付近を二人で探すが、やはり見つからない。


「……ここにはなさそうだな」


「そうですね。別の棚かも……」


 リシェルも同意して、隣の棚を指差す。


「向こうの棚を探してみます」


「それなら、私はあちらの棚を見てみよう」


 エリオスはリシェルの後ろの棚を探すことになった。

 それから黙々と確認作業をしていたが――ふいに、エリオスが「あっ」と声を漏らした。


「えっ?」


 リシェルが振り返ろうとしたとき、かすかな衣擦れの音が、耳のすぐそばに届いた。

 清潔な石鹸と、香木の匂い。


「……これだ」


 振り返ろうとして――固まった。

 エリオスがリシェルのすぐ後ろから、上の棚へと手を伸ばしていた。手を伸ばせば届く距離だったから、そうしただけなのだろう。無表情のまま、覆いかぶさるように。

 体格が違いすぎる。

 肩のすぐ横に彼の腕があり、逃げ場がない。


 ――近い。


 意識しすぎだということは自分でも分かっている。

 だけど――。

 リシェルはきつく目を閉じる。


「あっ……」


 エリオスも、ようやく距離の近さに気づいたらしい。慌てたように身を引く。


「ごめん……っ」


「い、いえ……」


 顔面が熱くなっていた。

 エリオスに渡された本は、間違いなく目的の本『王族婚姻規定・旧版』だった。ひんやりとして硬い革装丁だ。表紙には金の箔押しで題名を刻まれている。


「見つけてくださり、ありがとうございました」


 背表紙に記されている棚番号と、置かれていた棚が違う。うっかりミスか何かだろう。


「間違ってしまわれたみたいですね……」


「そのようだ」


 淡々とした声で、彼は言った。責める響きはない。リシェルはほっとして、かすかに肩の力を抜く。

 何気なく書物を開くと、古い紙がぱらりと音を立てた。乾いた、ほのかに甘い羊皮紙の匂いが立ちのぼる。

 条文が整然と並ぶ中に、やや筆致の違う一文があった。


「――王族たる者、伴侶を尊び、その心を軽んずることなかれ」


 エリオスがそう声に出して読んだ。


「……ずいぶん情緒的ですね」


 エリオスが、わずかに息を止めた気がした。

 顔を上げると、エリオスはいつもと同じ無表情だった。


「……先々代の王が書いた文章だ」


 短く、そっけない返答だったが、声がわずかに上ずっているように感じる。

 互いの視線が絡まる。その不思議な熱を帯びた瞳に魅入られて、リシェルは息をするのを忘れた。


「……っ、元の棚へ戻しますね」


 どうにか視線を逸らして、リシェルはそう言った。

 書物を元の区画に収め、一呼吸吐いたとき――来訪者を告げる鐘の音が側扉から鳴った。

 そちらを見ると、扉を開けて入ってきたのは見知った相手。王都印刷工房の編集長ギルベルト・カーヴァーだった。

 リシェルの背筋が凍りつく。


(どうして編集長がここに!?)


「こんにちは。ここで仕事を始めたと聞いたのでね。ちょうど近くに寄ったから顔を出してみましたよ。せん――」


 ギルベルトが言い終えるより先に、リシェルは駆け寄っていた。両手で彼の口を塞ぐ。革手袋越しに感じる温もり。外気をまとった外套の冷たい匂いがふわりと鼻をかすめた。


「ん、んん? へんへ?」


 くぐもった声。


「ここでは、その呼び方はだめです……!」


 小声で、必死に囁く。

 ギルベルトは目を瞬かせ、それから事情を察したようにゆっくり頷いた。リシェルは恐る恐る手を離す。

 しまった、と遅れて思った。距離が近すぎた。

 振り返ると、エリオスが少し離れた位置に立っていた。表情は変わらない。いつもの静かな青色の瞳。だが視線がわずかに剣呑で、何かの感情を押さえ込んでいるようにも見える。


(……仲が良いと思われたかしら)


 胸がひやりとした。

 ギルベルトは咳払いをひとつしてから、改めて一礼した。


「王太子殿下。王都印刷工房のギルベルトと申します。本日は蔵書復刻の件で入室許可をいただいております」


 先ほどまでの軽さが嘘のように、きちんとした声音だった。


「……ああ、聞いている」


 エリオスは短く答えた。けれど、なぜか空気が少しだけ重い。

 リシェルは慌てて口を開く。


「ギルベルトさんとは、以前、印刷工房とのやり取りで少しご一緒したことがありまして。図書館と印刷工房は関わりも多いので……その、ご挨拶に来てくださったようです」


 言葉がやや早口になる。自分でも弁明じみているとわかる。

 エリオスはリシェルとギルベルトを一瞥し、「そうか」とだけ言った。その声音はいつもより低い。


 ――なぜだろう。怒っているわけではないはずだ。


 けれどエリオスのまとう空気が、先ほどよりもひんやりしている気がする。

 高窓から差す光が、三人の間に細長い影を落としていた。その影の距離が、ほんの少しだけ遠い。

 やがてエリオスはため息を落とす。


「……邪魔したな」


 それだけを残し、彼は踵を返す。

 深い紺の上衣が揺れ、やがて扉の向こうへと消える。


(……邪魔、なんかじゃないのに)


 重厚な扉が閉まり、鈴の音と共に金具が小さく鳴った。

 その音が、やけに遠く感じられた。

 ギルベルトの目がわずかに細くなった。


「新作、順調ですか? モデルの反応も上々で?」


「っ……!」


 一瞬で、顔に熱が集まる。


「モデルって……な、何言って……っ」


「おや、違いましたか?」


 くすり、と喉の奥で笑う。


「ずいぶん熱心に観察しているみたいでしたからね。今回の題材は。この仕事を始めたと聞いたときは驚きましたが、取材のためだったんですね。このギルベルト、先生の執筆への熱意に感服いたしました」


 軽い口調だが、言葉は妙に核心を突いてくる。リシェルは言葉に詰まり、視線を逸らした。


「そ、そんな……取材なんて……」


 確かに、最初はそんな気持ちもあった。遠くから見るだけでも参考になるのではないかと。

 ギルベルトは一歩近づく。


「でも——いい傾向ですよ」


 声のトーンが、わずかに落ちる。


「書き手が対象にのめり込むほど、作品は面白くなるものです」


「……っ」


「特にあなたの場合はね」


 彼は楽しげに目を細めた。


「創作は想像だけでも書けますが……それだけで満足するのは、もったいない。現実を取り込んだほうが、ずっといいものが書けるはずです」


 その言葉に、胸がわずかに揺れる。


(……現実)


 エリオスのことを知りたいと思い始めているのは、取材のためだろうか。


「ですから」


 ギルベルトはさらりと言った。


「その調子で、どんどん観察してください。モデルを」


 ギルベルトにとって、王太子も小説の題材でしかないのだろう。この男は小説に取り憑かれた男だ。

 ——そう分かっていても、複雑な気持ちが残る。エリオスのことを「モデル」と呼ばれることが、なぜか少し引っかかった。


「……はい」


 ——そのとき。扉の向こうから、かすかな物音がした。靴底が擦れるような、ほんの微かな音。

 ギルベルトは、ふと視線を外した。リシェルではない、どこか別の場所へ。その一瞬だけ、空気が変わった気がした。——気のせい、だろうか。

 けれど、なぜか落ち着かない。どこかから見られているような感覚が、背中に残る。

 ギルベルトは何も言わない。ただ、口元の笑みだけが、わずかに深くなった。


「……では、私はこれで。このあと別件の打ち合わせがありましてね」


 何事もなかったかのように踵を返す。


(別件の打ち合わせ? 王宮まできて……?)


 リシェルは不思議に思ったが、立ち上がる。


「そうですか。お気をつけて」


 リシェルはギルベルトを入口まで見送る。回廊に出たギルベルトは、軽く振り返った。


「王宮って、いつも迷子になってしまいますね。——それでは締切、楽しみにしてます」


 そうリシェルに釘を刺すことも忘れない。

 軽く手を振り、そのまま回廊を歩いていく。足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

 リシェルはしばらく動けずにいたが、やがてゆっくりと視線を落とす。


(……『観察して、書く』か)


 ぎゅっと拳を握りしめる。作家として成長したいという気持ちが強まる。あまり書いたことがないキャラクターでも、挑戦してみたい。そしたら、もしかしたら――スランプから抜け出せるかもしれない。

 そのとき、ふと柱の陰から、かすかな気配を感じた。


「……?」


 そちらをじっと見つめる。


 ――気のせい、だろうか。


 誰もいないはずなのに。



 書庫の扉の向こうで、ギルベルトの声が続いていた。

 エリオスは回廊の柱の陰で、その声に耳を澄ませていたわけではない。ただ、立ち去ろうとして——聞こえてしまっただけだ。


「その調子で、どんどん観察してください。モデルを」


 ――その言葉だけが、扉越しにエリオスの耳に残った。


(……モデル? 何のことだ?)


 帰ろうとしていた足が止まる。

 靴底が石畳を踏む音が、静かに響いた。


(いや……立ち聞きは良くないな)


 眉が、わずかに寄る。

 そのまま静かに立ち去ろうとしたとき、扉が開いた。慌てて柱の陰に身を寄せる。


(どうして隠れるんだ。俺は……)


「王宮って、いつも迷子になってしまいますね。——それでは締切、楽しみにしてます」


 ギルベルトがそう言い残して、リシェルから離れていく。


(――締切?)


 リシェルは何か頼まれごとでもしているのだろうか。

 エリオスがちらりと覗き見ると、リシェルはどこか嬉しそうに、ギルベルトの後ろ姿を見送っていた。

 それに少し引っかかるものを覚えながら、エリオスはそっとその場から立ち去った。

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