三話 揺れる心情
書庫の仕事にも、ようやく慣れてきていた。
蔵書の配置は頭に入り、貸出記録の整理も滞りない。背表紙を指で辿るだけで、どの棚のどのあたりに何があるかが、自然と手に伝わってくる。脚立の昇り降りも、もう怖くはない。
――怖くはない、が。
昼下がりの書庫に、人の気配はない。
窓から差し込む白い光が、塵ひとつなく拭い上げた棚の縁を静かに照らしている。紙と革の匂いが、いつもと変わらず空気の底に澱んでいた。物音といえば、自分の足音と、遠くどこかの廊下を行き来する誰かの靴音だけだ。
リシェルは静かな書庫を見渡して、小さく息を吐いた。
(あれ以来、一度も……)
あの転落未遂の日から、五日。
毎日のように来ていたという王太子エリオスが、ぱたりと姿を消した。
(やっぱり、私のせいよね……)
謝りたかった。不注意だったことも、あの場をさらに混乱させてしまったことも。けれど当の本人が現れないことには、どうにもならない。謝罪の言葉は、口の中でずっと行き場を失ったままだ。
その日の夕刻、蔵書目録を抱えてそれとなく叔父のルドヴィクに尋ねてみた。
「最近、エリオス殿下はお忙しいのですか?」
「ん? ああ……そういえば来てないなあ」
叔父は首をひねる。乾いたインクの粉がついた手袋の指先をこすり合わせながら、遠い目になった。さすがにその手袋はもう使えないと判断したのか、外しながら言う。
「二年くらい前からほとんど毎日来てたんだけどねえ。政務資料を見る目的もあるが――」
にやり、と意味ありげな笑みがルドヴィクの顔に浮かんだ。
「"夜の女王"の書物目当てで」
「……」
危うく蔵書目録を落としかけた。
「"夜の女王"の書物、目当て……で?」
息が、一瞬止まった。思わずオウム返しになってしまう。
つまり、叔父は知っているのだ。エリオスがあの本を読んでいることを。――さすがにその著者がリシェルだということまでは知らないはずだが。
「若い男だしなあ。健全、健全」
(健全……健全……私の本で健全……)
豪快に笑う叔父を前に、リシェルは曖昧に微笑むしかなかった。頬が引きつるのを辛うじて抑える。
(上の本……じゃなかったのね)
エリオスの目的は史書ではなかったのだ。薄々そうではないかと疑っていた。けれど、あの日のことを思い返すと動揺してしまう。
(エリオス殿下が、私の本の読者だったってこと……? しかも二年前からなんて……)
デビューしてすぐの話だ。
嬉しさと恥ずかしさがないまぜになったような、お腹の底をくすぐられるような、こそばゆい感覚が、じわりと胸に広がる。
この頃、雨の日が続いていた。窓を叩く雨が、書庫に重く響いていた。
ルドヴィクは両手をすり合わせながら愚痴る。
「それにしても、今日は寒いな。もう少し暖炉に薪を入れるか」
本棚から少し離れた壁際に、大きな石の暖炉が据えられている。本を守るためだろうか、火の気はそこにだけ集められていた。
(エリオス様は今日もこないのかしら……)
暖炉の火が揺れるたびに、天井近くで影が伸び縮みした。乾いた紙の匂いに、湿った空気が少しずつ混じってくる。
リシェルは窓辺に立ち、濡れて霞む庭を見つめた。
(エリオス様は今頃、何をしていらっしゃるのかしら)
政務だろうか。それとも――もう書庫には近づくつもりがないのだろうか。そう思うと、なんとなく書庫が広すぎる気がした。
たった一度の事故だというのに。たった一度、抱き止められただけなのに。
それなのに、こんなに気になってしまっている。
ふいに雨音が強まった。ガラスを打つ水の音が、不規則に重なる。
リシェルは窓枠に手を置いたまま、しばらくその音を聞いていた。
◆
王太子政務室にて書類の山に囲まれながら、エリオスは無言でペンを走らせていた。紙に並ぶ数字と文字は、どれも同じ顔をしている。
外は曇天で、窓から差し込む光も薄く、燭台を増やしても机の上はどこか薄暗かった。
「最近、書庫に行ってませんね」
軽い口調で言ったのは、赤茶色の髪の側近のカイル・レグナートだ。人懐っこい顔をしているが、幼なじみでもあるだけに遠慮がない。
「何かあったんですか?」
「別に」
即答した。だがペン先が、わずかに鈍った。
「もしかして、新しく入ったっていう女性司書が原因ですか?」
ぴたり、とエリオスの動きが止まる。
「……違う」
一瞬、間があった。
沈黙は、あまりにも雄弁だ。カイルが片眉を上げる。
「図星ですね」
「違うと言っている」
「じゃあなぜ、あれだけ通っていた場所に突然行かなくなるんです?」
返す言葉がなかった。
あの書庫は静かで、落ち着いていて、誰にも干渉されない場所だった。女たちの甘い香水も値踏みする視線もない。しばしの間、自分の立場を忘れて物語の世界に浸れる場所――だったのに。
ふいに脳裏をよぎるのは、脚立から落ちかけた彼女の細い体。抱き止めたときの、思いがけない軽さ。腕の中で一瞬だけ、静かになった呼吸。近すぎる距離。自分が、視線を合わせられなかったこと。
思い出すと、胸の奥が妙にざわついた。
「……いい加減、女性への苦手意識は克服してくださいよ」
カイルが肩をすくめる。
「王太子なんだから。そんなことじゃ世継ぎも設けられませんよ」
「そんなこと、わかっている」
低く唸るように答える。わかっている。わかっているが……。
脳裏に、二年前の光景が浮かんだ。エリオスは婚約者候補とのお茶会に向かっていたとき、扉越しに彼女と侍女の会話が漏れ聞こえてきた。
『顔は嫌いじゃないけど、あの人つまらないのよね。でも王太子妃になれるなら我慢するわ』
それまで薄っすらとあった好意が、粉々に砕けた瞬間だった。
女たちの視線は、いつも同じだ。値踏み。計算。――そして、飽きたら次の男へ。
あのときの冷たさが、まだ耳に残っている。
――だが。
あの司書の目には、それがなかった。あったのは、ただ必死さと困惑だけだ。それが、逆にエリオスを落ち着かなくさせる。
「今は……まだ、このままで良い」
エリオスは小さく呟く。
カイルが深いため息を吐いた。
「でもそれじゃダメなことは、わかっているでしょう? 荒療治でも良いから、女性に慣れてください。逃げてばかりでは何も変わりません」
――カイルの言うとおりだった。
何も反論できない。
やがて、エリオスはゆっくりと立ち上がった。
「……少し、気分転換をしてくる」
「行き先は?」
返事はせず、扉から出た。
いつもは騒々しい昼の王宮は、急に降り出した雨で静まり返っていた。
空気に土と水の匂いが混じる。
打ち付ける雨が回廊の端から飛沫を上げた。
それを避けるようにエリオスは回廊を、無言で闊歩していた。
本来ならまだ政務の時間だが、カイルの言葉が耳に残っていて、集中できなかった。
『逃げてばかりでは何も変わりません』
逃げているつもりはない。ただ、必要がないから行かなかっただけだ。そう己に言い訳する。
――本当に?
歩調が、わずかに乱れた。
脚立が揺れる音。かすかな悲鳴。とっさに伸ばした自分の腕。軽かった、という記憶だけが、やけに鮮明だ。
――だから何だ。
眉を寄せる。
――スモーキーバイオレットの瞳。綺麗だと思った。
あの感情をどう扱えばいいのかわからない。だから行かなかった。それだけのことだ。
回廊の角を曲がると、空気がわずかに変わった。
乾いた紙と古い革装丁の匂い。書庫のある一角特有の、あの静かな空気だ。
エリオスの足が止まった。
――いつの間にか、ここまでやってきていた。
ここ五日ほどは、近くにきても通り過ぎてしまっていたが……。
あの扉が、視界の先にある。
胸の奥が、わずかにざわつく。
「……逃げてなんかいない」
(ここは俺の場所だ。後からきた奴に、俺の平穏を乱されてたまるか)
そんな気持ちもある。唯一の憩いの場所を、奪われたくない。
ゆっくりと息を吸う。微かに漂う雨の匂い。
(いつもの場所へ……)
鼓動は、やや速い。
それが苛立たしい。だが、逃げるほどではない。
――俺が先にいた場所だ。
エリオスは静かに目を伏せた。それだけで、扉に手をかけた。




