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私の官能小説が大流行した結果、恋愛経験ゼロなのに女嫌い王太子の恋愛指南役になりました  作者: 高八木レイナ


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一話 無慈悲な夜の女王

「先生、新刊を書いてください。もう三か月前からお願いしていますよね?」


 そうリシェル・フェルヴァンに向かって無表情に言ったのは、王都印刷工房の編集長ギルベルト・カーヴァーだ。

 リシェルはウッと言葉に詰まる。

 彼女は、まだ二十歳の子爵令嬢だ。淡い灰青色の髪の毛は、光の加減で銀色にも見える。瞳は青紫寄りのスモーキーバイオレット。

 そんなリシェルに冷たい眼差しを向けているのは、男爵家の出であるギルベルトだ。没落気味とはいえ子爵令嬢であるリシェルに新刊を書くよう迫っている光景は異様だったが、この王都印刷工房ではありふれたことだった。

 ギルベルトは軽く白髪が混じった黒髪を短く刈り上げ、清潔そうな白いシャツにネクタイ、ダークグリーンのスーツをまとい、洗練された都会の紳士という印象だった。身長は高めで姿勢も良く、落ち着いた雰囲気がある。

 その手には、薄い灰色の手袋が嵌められていた。原稿に触れるときも、ギルベルトは滅多に素手にならない。

 リシェルは机を挟んで向かい合う形で椅子に座り、唇を噛んで耐えるように俯いている。


「スランプで……まったく書けないんです」


 小さな声で絞り出すように言った。

 遠くで、活版印刷のプレスが微かに響く。

 活字を並べ替える金属音。

 刷り上がった紙を確かめる、乾いた手袋の音。

 鉛のインクと紙の繊維が混じった匂いが、空気の底に沈んでいる。

 それらのすべてが、リシェルを追い立てていた。

 ——早く、小説を書け。

 ——ここは、活版印刷の現場とは隔てられた、工房の奥。

 原稿閲覧室。

 そこは作家と編集者が向き合い、世に出る前の小説を慎重に磨き上げたり、小説の校閲をしたり、打ち合わせをする場所だった。

 冷静沈着で無表情、感情を表に出すことはほとんどないギルベルトが、眉をひそめる。


「スランプ? とは何ですか?」


(ああ、こっちにはない言葉だった)


 リシェルは慌てた。


「えっと、なんと言えば良いか……今までできていたことが一時的にできなくなったりすることです」


「へぇ。便利な言葉ですね。先生が作った単語ですか?」


「いえ、どこかで聞いたことがあって、覚えていただけです」


 そう誤魔化す。ギルベルトは単語に敏感なので、下手なことを言えばどこの地方から発祥したものか調べだしかねない。だが、この世界のどこを探しても、この単語は見当たらないだろう。

 なぜなら、これはリシェルが前世で使っていた言葉だから。

 リシェルには前世の記憶があった。十八歳の頃、父の書斎で別の本に挟まれるように隠されていた官能小説を見つけたときに、前世の記憶がよみがえった。


『こういうの、私も書いたことがある……!』


 ──と。

 前世のリシェルは、公立高校に勤める国語教師だった。

 二十代で、過労死した。

 副業は原則禁止。文筆業も、例外的に認められるだけ。

 青春小説や歴史小説ならともかく、官能小説など――口が裂けても言えなかった。

 どこかから噂が漏れるかもしれないと思うと、ただ怖かったのだ。

 忙しくて、気づいたときには死んでいた。


 ――もっと、自分のために書けばよかった。


 転生後に思ったことがそれだった。

 だから『無慈悲な夜の女王』というペンネームを使い、官能小説を書き始めた。

 もちろん子爵令嬢のリシェル・フェルヴァンが作者ということは知らせず、最初は寄宿学校時代からの友人マルグリットに見てもらっていただけだった。

 ところがマルグリットが「面白いから」と別の友人に回し、その友人がまた別の友人に回し……気がついたときには手の届かないところまで転がっていた。

 友人の家と取引のある印刷工房の編集長ギルベルトに原稿が届いたと知ったとき、リシェルはしばらく現実を受け入れられなかった。


(この印刷工房は、前世でいう出版社と印刷所を兼ねたようなところ……かな)


 そしてリシェルは『無慈悲な夜の女王』というペンネームで正式に出版し――それが社会現象になるほどヒットしてしまった。


「スランプとは困りましたね。そうだ、いっそこれまでと方向性を変えてみてはいかがでしょうか?」


 ギルベルトが手袋越しに黒縁眼鏡のブリッジを押し上げながら言う。42歳という年齢より若々しく見えた。

 リシェルはごくりと唾を飲み込んだ。


「方向性……というと?」


「先生のヒット作、『騎士団長』シリーズは素晴らしいです。でも、読者は次の刺激を求めています。王族ものは『禁欲のユニコーン』先生が書いていて、今は波が来てますよ」


「王族もの……王子様ということですか?」


 リシェルは少し困ってしまい眉を寄せる。今まで書いたことがないヒーローだ。こちらの世界にも王族はいるが、末端貴族のリシェルには接点もないため、人物像がうまく想像できない。


(寄宿学校時代に、ひとつ上の学年に王子様はいたけれど……)


 同じクラスの女子たちは彼が廊下を通るたびに黄色い声を上げていたが、リシェルはそのとき食堂のプリンパフェのことを考えていた記憶しかない。

 ギルベルトは口の端を上げる。


「今売れるのは"腹黒執着王太子"です。ヒロインを逃がさない男を書いてください」


 リシェルは頭が真っ白になった。


(腹黒執着王太子……ヒロインを逃がさない男……暗い部屋の隅に追い詰めて、「逃がさない」とか言うんだろうか。……全然ピンとこない)


 リシェルは制服フェチで、騎士団長など役職を背負った組織の男を好んで書いていた。


(……たんに単純で、まっすぐな人が好きなだけなんだけど)


 騎士団長は脳筋に見えて責任感の塊。それにヒロインに一途で、子犬のように愛らしい一面もありながら、戦場では鬼神のように駆けるのである。そのギャップがたまらない。

 しかし、この世界には彼女の描くようなヒーローが登場する官能小説は存在しなかった。

 あるのは婚姻指南書や風俗研究書、猥談集の類ばかりで、行為の説明や男性視点の欲望、教訓めいた内容が中心だ。

 リシェルが求めていたのは、恋から始まる欲情や戸惑い、理性との葛藤――そこに至る心の揺れを丁寧に描いた物語だった。

 だが、そんな小説はこの世界にはない。

 だからリシェルは書いた。

 自分が書かなければ、誰も書いてくれないと思ったからだ。

 そしてその物語は、思いがけず大衆に熱狂的に受け入れられた。


「しかし、腹黒執着王太子、ですか……」


 舌の上でその属性を転がしてみるが、うまく飲み込めなかった。王太子というと、定番なのは政略結婚だろうか……。感情を抑圧される立場に違いない。


(う〜ん……前世でもあまり読んだことない系統のヒーローだから、うまく想像できない)


 リシェルは困り果てて、机に視線を落とした。


「ちょっと……うまく書けないかもしれません」


「どうしてですか?」


「腹黒執着系って書いたことないですし、王太子が普段どんな仕事をしているのか想像できないし……」


 声は尻すぼみになる。

 ギルベルトは肩をすくめた。


「リアリティなんて深く考えなくても良いんですよ。それっぽくなれば十分です。そもそも先生がよく書く童貞なのにテクニシャンっていう設定だって、ありえないじゃないですか」


「そっ、そりゃあそうですけれど……!」


 あまりに直接的な言い方に、リシェルの顔面に朱が差す。


(だって、それまで『俺に溺れろ』とか言ってたくせに、いざとなってまごついたら、ヒーローとして格好悪すぎるもの……!)


 リシェルは両手で赤らんだ頬を押さえる。

 官能小説家の担当編集者が男性というのは、かなり恥ずかしく、落ち着かない気持ちになる。ギルベルトは妻子持ちだが、それでもだ。

 ギルベルトは深くうなずいた。


「それで良いんです。読者は不都合なリアリティなんて求めていません。童貞なのにテクニシャン、処女なのに淫ら——それくらいで、ちょうどいいんですよ。なので、心の赴くままにペンを走らせてみてはいかがですか?」


 リシェルは腑に落ちないものを感じたが、編集長の言うことも最もだと思った。深呼吸して気持ちを落ち着かせる。小説では、心情描写などリアリティを追求すべきところと、創作として片付けて良い部分があるのだ。


「……それができなくなっちゃったんです」


 リシェルは小さく口を開いた。

 スランプはいつも当然やってきた。それはうまく書こうとして力みすぎたことが原因だったり、書きたい文章や内容に実力が追いついていないことが原因だったり、周りと比べすぎてしまうことが原因だったりする。スランプは乗り越えた時には作家として大きく実力が伸びるものだということも何度も経験したから知っている。


(今回のスランプの原因は、きっと自分の予想以上に作品が売れてしまい、プレッシャーに耐えきれなくなったせい……)


 客観的には自分の状況は分かるのだが、だからといってスランプを脱せるわけではない。もう筆を折るしかないかもしれない……と思うくらいに追い詰められていた。しかし筆は置けない状況だ。


「どうしてですか? 何か原因でも?」


 ギルベルトのまっすぐな瞳がリシェルを射抜く。


「急に売れてしまったから、自信がなくなってしまったのかもしれません……」


 勇気を出して、リシェルはぽつりと言った。


「何に自信がないのです?」


 リシェルは拳を握りしめて、絞り出すように言う。


「その……恋愛シーンもですが……官能シーンも上手く書けているのか分からないんです……。私は恋愛経験がないから、すべて想像で書いてますし……」


 そう――リシェルは、転生する前の人生でもいまの人生でも誰かと恋愛した経験がない。当然、いい年をして処女である。だというのに官能小説を書いているのだ。

 前世で官能小説を読み込み、知識だけは豊富になってしまった。あふれる異性への興味を創作のパッションに変えて生きてきた。

 しかし未経験のリシェルがこの世界で官能小説を世に広めてしまったことに、いまさら怖気づいているのだ。


(誰かに『リアリティがない』とか言われたらどうしよう……)


 そうなれば、


『うるせぇ! 俺の妄想を黙って読め!』


 と開き直ることのできる作家なら良いだろうが、奥手で自己評価低めのリシェルには難しいことだった。己の底の浅さを読者に見抜かれたらと思うと怖い。


「良いですか、先生」


 まるで教師のように、優しくギルベルトは話す。聞き分けのない子供に対してするように。


「犯罪小説を書く人は殺人鬼ですか? 違いますよね?」


「は、はい……それは、そうですが……」


「官能小説も同じです。創作に実体験は必須ではありません。先生はもう、それを証明しています。経験などなくても先生は素晴らしいものを生み出せています。それで良いじゃないですか」


 静かなギルベルトの声音は、リシェルの心に染み渡るようだった。

 一瞬、本当に納得しかけた。


(……いや、本当に?)


 経験したほうがよりリアルに書けることもあるのでは……。当然、この世界のほとんどの人はリシェルよりも経験豊富だ。違和感を持たれることだってあるのではないかと思う。

 そう疑念を覚えつつも、突っ込める雰囲気ではなかった。


「とにかく、早くスランプから脱してください。新作待ってますからね」


 ギルベルトにそう嘆息しながら言われて、不承不承、うなずくしかなかったのである。



 リシェルが印刷工房を出たとき、王都の町並みはすでに夕暮れ色に沈みつつあった。

 空気はひんやりと乾いていて、昼間にこもっていた熱を一気に奪っていく。

 外套を羽織り直しながら、彼女は小さく息を吐いた。まだ息は白くならないが、もう秋の気配ははっきりとしている。

 自然と足取りが重くなるのは仕方がない。

 手に提げた袋の中には、『無慈悲な夜の女王』宛てのファンレターが溢れるほど詰まっていた。

 普段なら胸が温かくなるはずの重みも、今日はただの負担に感じられる。

 貴族街の外れに建つ子爵家のタウンハウスが見えてきた。

 煉瓦造りの質素な屋敷だが、秋の夕陽を受けた壁はどこか柔らかく、幼い頃からこの季節に滞在するのが好きだった。


(……いまでは、ここで暮らすのは私と姉と、マーグだけ)


 石畳を踏みしめる靴音が、やけに響く。

 周囲は静かで、遠くから聞こえるのは巡回の足音くらいだ。

 鍵を開けて玄関に入ると、すぐに足音が近づいてきた。


「おかえりなさいませ、お嬢様」


 迎えに出てきたマルグリットの穏やかな声に、張り詰めていた肩の力が少し抜ける。

 ふくよかな体躯に年季の入ったメイド服をまとった彼女は、いつもと変わらぬ表情でリシェルを見ていた。

 そのとき、玄関に掛けられた見慣れないフロックコートが目に入った。

 リシェルは首を傾げて尋ねた。


「……マーグ、誰か来てるの?」


「ええ、ルドヴィク様が……」


 マルグリットが言い終わる前に、サロンから叔父のルドヴィク・フェルヴァンが現れた。


「久しぶりだな、リシェル」


 ルドヴィクは四十代半ばの、細い縁の眼鏡をかけた学者めいた雰囲気の男性だ。短めに整えられた灰褐色の髪のこめかみには白いものが混じっている。


「ルドおじさん、どうしたの?」


 彼は王宮秘蔵書庫の管理官をしているため忙しいはずだ。王宮秘蔵書庫とは王宮図書館の内部にある、関係者以外は立ち入り禁止の場所だ。


「リシェル。少し、話せるか」


 仕事柄、常に整えられた身なりの叔父は、珍しく疲れた表情をしていた。


「ええ。どうかしましたか?」


 リシェルがルドヴィクをサロンへと導いた。

 刺繍入りの布がかけられたソファーに腰掛ける。この刺繍はマルグリットが趣味で刺したものだ。ティーテーブルにも同様の洒落た布が広げられており、花瓶には庭で育てている薔薇が彩りを与えていた。

 ルドヴィクは長く息を吐いてから、自身の指先をもてあそぶ。


「実はな……王宮秘蔵書庫で、人手が足りていないんだ」


 その言葉にリシェルは一瞬、まばたきをした。


「王宮秘蔵書庫で、ですか?」


「……ああ。常勤の司書が一人、長期療養に入ってな。急ぎで補充が必要になった。期間限定の臨時司書で良いんだが……リシェルに頼めないかと思って」


「えっ、私にですか?」


 司書という仕事はしたことがない。普段なら目にすることもできない書物に触れられるというのは魅力的だが……。


「……私に、務まるでしょうか」


 自然と慎重な問いが口をついた。

 ルドヴィクは苦笑する。笑うと目尻に細かな皺が寄った。


「期間限定だ。書架整理と貸し出し管理が主で、専門的な知識は求められない。何より――条件は悪くないぞ」


 そう言って、彼は報酬額を口にした。

 リシェルは思わず息を呑んだ。

 控えめに見積もっても、今の家計にとっては大きな助けになる。短期間でこれほどの収入を得られる仕事は他にないだろう。


「それにリシェルは本好きだろう? 休憩時間には本が読み放題だぞ。ここだけの話、王宮秘蔵書庫は恋愛小説の宝庫だ」


「そうなのですか!?」


 恋愛小説好きのリシェルなら食いつくと思って、ルドヴィクはそう言ったのだろう。リシェルは顎に手を当てて唸った。


(ちょうど創作のインスピレーションが欲しいと思っていたところだし……)


 担当編集長の提案したような、腹黒執着王太子の出てくる恋愛小説がないか探してみたい。

 しかし話がうますぎる気がする。本好きは多いし、秘蔵書庫の常駐司書ならばなりたいと志願する者も多いはずなのに。


「……どうして、私に?」


「信頼できる身内が望ましい、という条件がついた。王宮秘蔵書庫だからな」


 ルドヴィクは困ったように顎を掻く。


(なるほど……)


 王宮としても、秘密保持を最優先したいのだろう。


「……本当に面倒なことはないんですね?」


 念入りにリシェルは尋ねた。仕事を始めてから無理難題を押し付けられては困る。

 せっかく見つけた臨時司書候補に逃げられてはたまらないと思ったのか、ルドヴィクが身を乗り出した。


「絶対にない! 秘蔵書庫の書物は持ち出し不可だからな。出入りの際に身体チェックがあるくらいだ」


 王宮秘蔵書庫に収められている書物は、王族であっても原則として外へ持ち出すことは許されない。それほど重要で、慎重な扱いを要する文献ばかりが保管されている場所なのだ。


「やってくる者も少ないし、退屈すぎて眠たくなってしまうかもしれないが……」


 そこがルドヴィクからすると不安点なのだろう。しかし、リシェルにとっては静かな図書館という響きは魅力的に聞こえた。

 ルドヴィクは視線をさ迷わせて言うか言わまいか悩むような姿を見せた後、口にした。


「最近、王太子殿下が秘蔵書庫に足繁く通われていてな。女嫌いで有名な方だが……無闇に話しかけられることはないし、粗相さえしなければ目をつけられることはないだろう」


「王太子!? それって、エリオス・アルクレイン殿下ですか?」


「そう、そのエリオス殿下だ」


 寄宿学校時代に、一学年上にいた先輩だ。顔はよく思い出せず、へのへのもへじのようなイメージだが、人を寄せ付けない雰囲気があったことは覚えている。


(う〜ん……遠くから見るだけでもキャラクターの参考になるかしら……)


 リシェルは唸った。


(……いや、見るだけよ。話しかけるわけじゃないし。あくまで、ちょっと参考にするだけ)


 本人に取材などもってのほかだ。変なことを聞けば怪しまれてしまうし、官能小説の主人公のモデルにしたと知られたら不敬罪として処罰されかねない。

 リシェルは膝の上で指を組んだ。

 心の中で、慎重に天秤をかける。王宮勤めは気疲れが多いかもしれない。王宮秘蔵書庫となれば、なおさらだ。それでも、あくまで期間限定の臨時司書だし、これがスランプを脱する手助けになるかもしれない。


「……分かりました。やらせてください」


 覚悟を決めて、リシェルは言った。

 叔父は安堵したように胸を撫で下ろす。


「助かる。採用手続きはこちらで進めておく。制服も、すぐに支給されるはずだ」


 こうしてリシェルは、王宮秘蔵書庫の臨時司書となることになった。


 ――腹黒執着王太子の取材のつもりで。まさか、自分が恋愛指南をする羽目になるとも知らずに。



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