十二話 触れる理由と、触れたくなる理由
王宮書庫は、夕暮れの色に沈みかけていた。
高窓から差し込む光はすでに傾き、金色の筋が長く床を這う。紙とインクの匂いに、ほんのわずかに冷えた空気が混じっていた。昼間の静けさとは違う、宵に向かう時間の気配。棚の背表紙が夕暮れの光を吸い、それぞれに深い影を落としている。
リシェルは棚の本を整えながら、落ち着かないまま手を動かしていた。
(……昨日のこと、忘れなきゃいけないのに……)
耳元に落ちた声の残響だけが、妙に離れない。
触れていないはずなのに、あの距離の熱だけが、まだ残っている気がした。思い出すたびに、指先がわずかに震える。
「リシェル、その棚はもういい。あとは私がやる」
穏やかな声に振り返ると、ルドヴィクが苦笑していた。
「あ……すみません」
「今日は私が鍵閉めの当番だからな。無理に残らなくていい」
「い、いえ……」
返しながらも、どこか上の空だった。
——そのとき。扉の外で、足音が止まる。
規則正しく、無駄のない歩み。聞き慣れてしまったその音に、心臓が強く跳ねた。
扉が開く。蝶番が低く鳴る。
「……いるな」
低く、落ち着いた声。エリオスだった。
「っ……!」
反射的に背筋が伸びる。
「お、お疲れさまです、殿下……」
朝でもないのに、ついそんな言葉が出てしまう。自分でも何を言っているのか分からないまま、視線を合わせられずにいると——。
エリオスは、いつもと変わらない表情でそこに立っていた。静かで、整っていて、何も読み取れない顔。
――なのに。
(……近い)
距離はあるはずなのに、なぜかそう感じる。
「あの……!」
リシェルは慌てて一歩踏み出した。
「す、すみません。じつは今日はルドヴィクさんが鍵閉めをする担当だったんです。昨日言えなくて……」
言葉が少し詰まる。本当は、昼間のうちに伝えたかった。けれど——どうやって彼に伝えればいいのか、分からなかった。王太子に、個人的な予定をどう切り出せばいいのか。書庫で待つしかできなかった自分が、情けない。
「……なるほど」
エリオスは短く頷く。
「いや、ちょうどいい」
「え?」
思わず顔を上げる。
「今日は場所を変えよう」
「場所を……?」
「書庫の外だ」
淡々とした声音。だが、その意味を飲み込んだ瞬間、胸の奥がざわついた。
(書庫の外……?)
頭の中に、昨日の光景がよぎる。
「帰り支度が終わるまで待っている」
そう言って、エリオスは壁際へとわずかに身を寄せた。急かすでもなく、ただ当然のように待つ姿。その距離感が、かえって落ち着かない。
「リシェル、あとは私がやるから行ってこい」
ルドヴィクが苦笑混じりに声をかける。
「で、でも……」
「王太子殿下を待たせるわけにはいかないだろう」
「っ……」
言い返せない。結局、小さく頭を下げて、手早く身の回りを整え始める。
その間も——背後から、視線を感じていた。
(……見られてる)
何をしているわけでもないのに、意識してしまう。指先が小さく震えるのを、誤魔化すように本を抱え直した。
ようやく支度を終えて振り返ると、エリオスは変わらず静かに立っていた。
「お待たせしました……」
「いや」
短く返される。それだけなのに、なぜか胸の奥がざわつく。
「行くぞ」
踵を返す背を追いながら、リシェルは小さく息を吐いた。
(……今日も、続くんだ)
恋愛指南。仕事のはずのそれが、どうしてこんなにも落ち着かないのか。
エリオスの後ろを歩いていると、すれ違う文官や使用人たちが頭を下げるが、連れて歩いているリシェルへの興味深々な視線も一緒についてくる。それが気まずくて、居たたまれない。
――案内されたのは、王宮の奥にある温室だった。
高いガラスの天井から、やわらかな夕暮れの光が降り注いでいる。橙色に染まった光が、葉の緑をいっそう濃く見せていた。湿り気を帯びた空気と、濃い花の香りが、書庫とはまるで違う世界を作り出している。緑が密に茂り、細い通路が複雑に続いていた。
「……ここ、ですか?」
(温室?)
「ああ」
エリオスは周囲を一瞥する。
「一般開放されているが、この時間は人が少ない」
その言葉に、リシェルは小さく息を呑んだ。
(……誰かに見られるかもしれない場所で、恋愛指南を……?)
閉ざされた書庫とは違う。静かだけど、人の目がある空間。
(そんなところで……誰かに恋人だと勘違いされたらどうするの?)
リシェルが戸惑っていると、エリオスは先へ進もうとする。
「……まずは、距離だ」
エリオスが歩き出す。リシェルも急いで後を追う。
通路は思っていたよりも狭かった。枝葉が張り出し、自然と身体が寄る。湿った土の匂いと、甘い花の香りが混じり合って漂ってくる。
「——そっちは枝が当たる」
低い声と同時に、肩に手が触れた。
「……っ」
びくり、と体が揺れる。
ほんの軽い接触。押さえつけるわけでもなく、ただ位置を導くだけのもの。——それなのに。
(近い……)
指先の感触が、妙に残る。
「……この程度で反応するのか」
「し、しません……!」
思わず反論すると、エリオスはわずかに目を細めた。それ以上は何も言わず、再び歩き出す。
その背を追いながら、リシェルは自分の鼓動がやけにうるさいことに気づいていた。
しばらく進むと、小さく開けた場所に出た。頭上のガラス越しに、燃えるような夕空が見える。
そこでは、庭師らしき男が作業をしていた。土の匂いと、剪定した葉の青い匂いが漂っている。
「ああ、エリオス殿下。それにリシェル様じゃありませんか」
顔を上げた男が、気さくに声をかけてくる。書庫にも花を届けに来る、顔なじみだった。
「今日はお仕事で?」
「え、ええ……少しだけ」
ほっとしながら応じる。先ほどの緊張を解きたい気持ちもあって、自然と言葉が続いた。
「この花、珍しいですね」
「ああ、これは——」
説明を受けながら、少しだけ距離が近づく。庭師がリシェルへ身を傾けた、その瞬間だった。
すっ、と腰に手が回った。
「……っ」
息が止まる。
「——こちらだ」
低く抑えた声が、すぐ横で落ちる。
ちらりと横を見ると、エリオスはまっすぐ前を向いていた。表情は変わらない。なのに——耳の先が、わずかに赤かった。
「……殿下?」
抗う間もなく、軽く引き寄せられる。
「……そちらに行く必要はない」
一拍置いて、
「通路が狭い。邪魔になる」
静かな声音だった。命令というより、当然のような響き。
「は、はい……」
反射的に答えてしまう。
庭師は一瞬きょとんとしたが、すぐに「では、失礼します」と頭を下げて去っていった。遠ざかる足音と、土を踏む音。それが消えると、温室の静けさだけが戻ってきた。
その間も——エリオスの手は、腰に添わされたままだった。
(……近い)
呼吸が浅くなる。離れようとした瞬間、わずかに引き寄せられる。
(こんなところで、こんな距離で……)
逃げられない体勢。触れているのに、押しつけられてはいない。だからこそ、余計に意識してしまう。湿った温室の空気の中で、エリオスの体温だけが妙に鮮明に感じられた。
「……どうした」
「い、いえ……」
声が上ずる。エリオスは少しだけ目を落とし、リシェルの様子を見ている。
やがて、ゆっくりと手が離れた。
――その瞬間。
(……あれ)
ほんのわずかに、何かが足りなくなったような感覚が残った。すぐに首を振る。
(違う……!)
「……今のは」
エリオスが淡々と口を開く。
「異性と距離を保つためにしたことだ」
「そ、そう……ですね……」
どう答えればいいのか分からない。エリオスの目的は、異性と自然に打ち解ける方法を探ること。そういう意味では、確かに筋の通った接触だったはずだが——。
(……あれ、本当に必要だったの?)
――まるで、あの庭師から引き離すみたいに。
疑問が浮かぶ。けれど、口には出せない。
「他にも」
エリオスは続ける。
「状況に応じて接触の強弱を変える必要がある」
「強弱……」
「軽い触れ方では足りない場合もある。今の程度であれば、相手も身構えない」
落ち着いた分析。まるで、何も感じていないかのように。
(……ほんとに、そうなの?)
そう思ってしまう自分に、戸惑う。
温室を出る頃には、リシェルの頭はすっかり混乱していた。距離。接触。声。すべてが"指導"として処理されている。
――なのに。
(……なんで、こんなに)
自分だけ、意識してしまうのか。
「今日はここまでだ」
エリオスの声で、現実に引き戻される。
「は、はい……」
「……明日も続けたいが、いいか?」
「……はい」
それだけ言って、エリオスは去っていった。足音が遠ざかる。やがて、夕暮れの光だけが残る。
残されたリシェルは、しばらくその場から動けなかった。腰の、彼の手が触れていた場所に——まだ、温度が残っている気がした。
◆
その日の夜。
小さな机の上に、ランプの灯りが落ちている。橙色の光が、室内を狭く照らしていた。窓の外は静かで、秋の虫の声だけがかすかに届いてくる。
リシェルはペンを握ったまま、じっと紙を見つめていた。
(……あのときの、あれ)
昼間の光景が、頭の中に蘇る。温室。距離。声。そして——腰に回された手。無意識に、自分の腰へ触れてしまう。
(……あれって)
ペン先が止まる。
(腹黒執着王太子じゃない……?)
はっとして、ぶんぶんと首を振る。
(いやいやいや、そんなわけ……! あの冷静で淡々とした殿下が……?)
そんな人が、あんな庭師相手に嫉妬じみたことを——。
(……でも)
思い出す。
『……そちらに行く必要はない』
低く落ちた声。あのときの、わずかな圧を。
(……あれって演技?)
やっていたことは恋愛指南だ。女性に好まれるための練習。だから——ああいう振る舞いを、あえてしたとか?
(……そうだ、よね。そうに決まってる)
自分に言い聞かせるように、小さく頷く。けれど胸が、ざわついた。
(……なんで、こんなに)
理由が分からないまま、ペンを走らせる。
――腹黒で、執着気質の王太子。
書き出されたその一文を見て、指先がわずかに震えた。
(違う……)
エリオスはこんな単純なキャラクターじゃない。ただ距離を詰めるだけではなくて、あのとき殿下はもっと——。
(……彼は、何を考えてたの?)
演技にしては、あまりにも自然すぎた気がした。初めて会ったときは、触れること自体、躊躇っていたはずなのに。
(練習で、そんなに簡単に変わるもの?)
その引っかかりだけが、ランプの灯りの下で、静かに残り続けていた。
◆
執務室の窓の外、王宮の庭園はすでに灯りを落とし、淡い月光だけが石畳を照らしている。葉の擦れる音が、遠くかすかに届いてきた。
書類に目を通していたはずだった。だが、気づけば同じ行を何度も読み返している。ペンを持つ指先が、動かない。
(……集中できないな)
小さく息を吐き、ペンを置いた。かすかな音が室内に響いて、また静寂が戻る。
理由は、分かっている。——今日のことだ。
(……あの反応)
ふと、指先が止まる。
肩に手をかけたとき、リシェルは一瞬だけ息を呑んだ。逃げようとして、だが逃げきれずに、わずかに体を強張らせた。耳の後ろに触れたときも同じだった。拒絶されたわけではない。だが、慣れているとも違う。
なぜか、その一つひとつが頭から離れない。視線を逸らす癖。呼ばれたときの反応。耳の後ろに触れた瞬間の、あの息の乱れまで。
「……くだらない」
小さく吐き捨てる。ただの恋愛指南だ。そう割り切るつもりだった。
だが——。
(……他の女でも試せばいい)
ふと、そんな考えがよぎる。
だがすぐに、違和感が走った。
(……いや)
違う。それでは意味がない。意味がない、というより——他の誰かに置き換えることを想像しただけで、妙に苛立つ。
(……考えたくもないな)
わずかに眉をひそめる。
窓の外で風が強まり、硝子がかすかに震えた。月がわずかに雲に隠れて、室内がほんの少しだけ暗くなる。
椅子にもたれ、天井を見上げる。暖炉の炎の揺らぐ音だけが、部屋に低く満ちている。
書類に戻るべきだ。やるべきことは山ほどある。それなのに——。
気づけばまた、彼女の顔が浮かんでいる。耳の後ろをなぞった指先に、まだかすかに感触が残っている気がした。
(……厄介だな)
目を閉じる。暗がりの裏側に、また彼女の顔が浮かんだ。
止める気はある。だが、止まらない。
それが、何より——始末に負えなかった。




