十一話 検証と、その余熱
書庫の空気は、いつもと同じはずだった。
紙とインクの匂い。高い窓から差し込む、穏やかな光。規則正しく並ぶ背表紙の列。
――それなのに。
リシェルは、どうしても落ち着かなかった。
(昨日のこと……忘れなきゃ……)
本を手に取りながらも、指先に力が入らない。思考は何度もあの瞬間に引き戻される。耳元に落ちた、低い声。近すぎた距離。触れそうだった体温。
(あれは、仕事……ただの指南)
そう言い聞かせた。
昼休憩中に見かけたセラフィアの姿が、まだ頭から離れない。
あの人なら——エリオスの隣に立っても、何ひとつおかしくない。
だから、割り切れるはずだった。
(……どうして、こんな気分になるの)
──そのときだった。
足音が、近づいてきた。
規則正しく、無駄のない歩み。聞き慣れてしまったその音に、胸が一度だけ大きく鳴った。扉が静かに開く。蝶番の低い鳴き声。
「……いるな」
低く、落ち着いた声。
「お、おはようございます、殿下……」
リシェルは慌てて立ち上がる。だが顔を上げた瞬間、視線がぶつかってしまい、すぐに逸らした。
エリオスはいつも通りの表情だった。整った顔立ちに、感情はほとんど浮かんでいない。だが――。
(昨日と同じ顔、なのに……)
なぜか、距離が近く感じる。
彼はゆっくりと歩み寄ってきた。逃げる理由もないのに、リシェルは一歩だけ後ろへ下がってしまう。
「——リシェル」
不意に名を呼ばれた瞬間、息が止まった。
「で、殿下……」
反射的に背筋を伸ばす。だが昨日の記憶が蘇って、顔に熱が集まった。
エリオスは、そんな様子をじっと見ている。
「……続き、ですか?」
「ああ。恋愛指南の」
淡々とした声音。だが、その奥にわずかな含みがある気がして、リシェルの胸の奥がざわついた。
「は、はい……」
声が少し震える。
エリオスはリシェルをひと目見てから、ふと目を床に落とした。
「昨日は、"距離"と"声"だったな」
「……はい」
「なら、今日は復習をする」
(復習……!?)
リシェルの心臓が一気に騒ぎ出す。だが、エリオスの声音はあくまで落ち着いていた。恋愛指南の延長として言っているだけのように聞こえる。
「まずは、視線だ」
「し、視線……?」
「相手から目を逸らすな。見られていると意識するだけで、相手は落ち着かなくなることがある」
そう言いながら、エリオスはゆっくりと顔を上げた。
そして――真っ直ぐに、リシェルを見た。
(む、無理……!)
目が合った瞬間、呼吸が浅くなる。逸らそうとしても、逸らせない。逸らしたら指導にならないと分かっているから。
エリオスは何も言わない。ただ、じっと見ている。それだけなのに、耐えられない。
「……どうした」
「な、なんでもありません……!」
慌てて言うが、声が上ずってしまう。
「逸らすなと言ったはずだ」
低い声が落ちる。責めるでもなく、ただ事実を口にするだけの調子なのに、それが妙に胸に刺さる。
リシェルは必死に顔を上げた。再び目が合う。今度は逸らさないように——と思った瞬間、余計に意識してしまう。
(視線だけで、こんなにも息が詰まるものなのかしら……)
距離は変わっていないはずなのに。
エリオスの瞳に、かすかな愉悦がよぎった。
「……なるほど」
「な、何がですか……?」
「視線だけでも、ここまで反応が出るのか」
「分析しないでください……」
思わず小さく抗議すると、エリオスは一瞬だけ口元を緩めた。すぐに戻ったが、確かに今、笑った。
(……楽しんでない?)
ほんの少しだけ、むっとする。
こっちは必死なのに。
そんなリシェルの内心を知らないふうで、エリオスは静かに言った。
「次だ」
エリオスが一歩、踏み出した。コツ、と床に靴音が響く。リシェルは反射的に一歩下がる。だがすぐに背中に本棚の感触が当たった。革装丁の固い感触が背を押す。
(また……!)
どこにも行けない。だが、昨日と違うのは——エリオスが、それ以上近づいてこないことだった。
手を伸ばせば触れられる距離。けれど、触れない。
「……この距離だ」
静かな声。
「これ以上詰めると、相手は身構える。だが、離れすぎても意味がない」
理屈としては理解できる。だが——。
(近い……!)
昨日がよぎる。耳元の囁き。触れそうな距離。体温。意識すればするほど、落ち着かない。
エリオスはリシェルの様子を見ながら、ほんの少しだけ首を傾けた。
「……逃げないな」
「に、逃げません……!」
「そうか」
短く返される。だが、その言葉にはどこか満足したような響きがあった。
沈黙が落ちる。近い距離。交わる目。呼吸。何もしていないのに、空気が張り詰めていく。
(……これじゃあ、どっちが恋愛指南されているのか……わからないわ)
リシェルは半ば本気でそう思った。
教えているはずなのに、追い詰められているのは自分の方だ。
そのとき、エリオスが低く言った。
「名前を呼ぶ」
「……え?」
「昨日言っていたな。優しく名前を呼ぶといいと」
リシェルの心臓が跳ねる。
(やっぱりやるの……!?)
エリオスはほんの一瞬だけ間を置いてから――
「……リシェル」
低く、抑えた声。逃げ場のない距離で、真っ直ぐに呼ばれる。
呼んだ本人も、わずかに息を詰めたように見えた。
それだけで――。
「……っ」
息が詰まった。心臓が大きく跳ねる。耳の奥が熱い。
「……反応が分かりやすいな」
「わ、分かりやすくてすみません……!」
「謝る必要はない。むしろ——」
エリオスは少しだけ声を落とした。
低い声が、いつもよりわずかに掠れて聞こえた。
「正確な反応だ」
その言葉に、リシェルは何も言えなくなる。
(……もう無理……)
これ以上は、もたない。だが逃げることもできない。
「……どうした」
低い声が、すぐ近くで落ちる。
「い、いえ……!」
慌てて首を振る。だがその動きで、ほんのわずかに距離が揺れた。触れそうで、触れない。
エリオスの視線がわずかに強まる。喉が小さく動いた。その仕草が妙に色っぽく見えてしまって、リシェルはますます混乱した。
(な、なんで今、そんなふうに見えるの……?)
「……そうか」
短く言う。だがその目は、さっきまでよりも確かに何かを含んでいた。見極めるような、試すような——。
ほんの一瞬の沈黙のあと、エリオスはゆっくりと一歩退いた。距離が離れる。それだけで、空気が緩んだ。
(……助かった……)
思わず小さく息を吐く。だがその様子を、エリオスは見逃さなかった。
「……やはり、限界があるらしい」
「限界って言わないでください……!」
目を潤ませて抗議すると、エリオスはまたほんの少しだけ笑った。
(やっぱり楽しんでる……!)
「……そうか」
「楽しそうに言わないでください……!」
ついむっとして言い返すと、エリオスは一瞬だけ目を見開いた。
それから、どこか面白がるような光が、その瞳の奥に浮かぶ。
「そうか。悪かった」
まったく悪いと思っていなさそうな声だった。
「"耳元で囁く"というのは、手応えがあった。だが、それだけで十分とは思えない」
そう言って、一歩近づく。それだけで、空気が変わる。
「他には?」
「……え?」
「他に、効果的なものはないのか」
問われて、リシェルは一瞬言葉に詰まった。頭の中に浮かぶのは、読んできた数々の恋愛小説の一節。それでも——これは、仕事だ。
「ええと……その……」
視線をさまよわせながら、なんとか言葉を探す。
「距離が近い状態で……耳元だけでなく……首筋、とか……耳の後ろ、とか……は、敏感なことが多い、らしい……です」
言った瞬間、自分で何を言っているのかと顔が熱くなる。
(な、何言ってるの私……!)
――一瞬、沈黙が落ちた。
「……なるほど」
低く落ちる声。
エリオスは視線をわずかに落とした。一拍置いて、それから顔を上げる。その目に、何かが宿っていた。
「では、試そう」
「ま、待っ——」
言い終わる前に、距離がさらに詰められていた。逃げる間もない。エリオスの手が、そっとリシェルの頬の横に添えられる。押さえつけるでもなく、ただ位置を固定するように。
石鹸と香木の微かな匂いが、ふっと近づいた。
耳の後ろに、ふ、と何かが触れた。
「——っ」
息が、乱れる。
(——近い)
そこだけが、やけに鮮明だった。ひやりとした感覚と、すぐあとに来る熱。意識が一点に集中する。
体がびくりと震えて、逃げようとするのに、足が動かない。何をされたのか、うまく認識できない。ただそこに触れられているという事実だけが、強く残る。
「……どうだ」
すぐ近くで、低い声が落ちた。
その声も、さっきより少しだけ熱を帯びている気がした。その吐息は、先ほどよりわずかに浅い。
「り、理論上は……その……有効、だと……思い、ます……」
なんとか言葉を絞り出すが、自分でも何を言っているのか分からなかった。
エリオスはわずかに目を細めた。
「理論上、か」
そのまま、しばらく何も言わなかった。視線がリシェルの顔に落ちたまま、動かない。
「他には? 女性と距離を縮める方法は……?」
リシェルはもはや頭が真っ白で、まともな思考ができなくなっていた。
(ええっと……ギルベルト編集長が言ってたことがあったような……確か……)
「し……"嫉妬"とか……」
「……嫉妬?」
「そういう感情を、見せるといいって聞きました……」
リシェルが息も絶え絶えにそう言った瞬間——エリオスの表情が、わずかに歪む。まるで、何かを思い出したかのように。
「……へぇ、それは……」
ふいに、エリオスの目つきが変わった。
一段低くなった、かすれた声だった。さっきまでとは、どこか違う。
耳の後ろに触れていた指が、すっとなぞるように首筋へ這わされる。
「……リシェル、他の男とあまり話さないでくれ」
「へ……? あっ……は、はい」
反射的に答えてしまう。
エリオスがふっと口元を緩ませる。その笑みが、妙に満足そうで——少しだけ腹が立った。
「……約束したからな?」
そう言って、ゆっくりと手が離れる。触れていた場所から温度が消えて、代わりに妙な喪失感が残る。
(……え?)
一瞬、何かが足りないと感じてしまった自分に、リシェルははっとする。
(ち、違う……!)
慌てて一歩下がる。耳の後ろに、まだ感覚が残っている気がした。遅れて、心臓が暴れ出す。
「で、殿下、今のは……!」
「問題ない。指南の範囲だろう?」
あくまで冷静な顔。だがその目は、どこか探るようだった。
「……十分すぎるほど、分かった」
「っ……!」
そう言われて、顔が一気に熱くなる。
エリオスはゆっくりと一歩退いた。間を置いてから、声音を変えて言った。
「……そういえば、恋愛指南の報酬は何がいい?」
エリオスにそう問われて、すっと頭が冷えた。
恋愛指南。仕事。報酬。
(そう……これは、ただの仕事だ)
それを突きつけられたように感じて、リシェルは視線を逸らすこともできず、ただ立ち尽くした。
「……まだ決めてなくて」
「別にいい。ゆっくり決めてくれ」
(望みたいものが、言えない)
胸がざわつく。その感覚の正体を、リシェルはまだうまく言葉にできなかった。
(……無理……こんなの……)
仕事のはずなのに。どうしてこんなに、苦しいのか分からなかった。
「……リシェル」
「はい……?」
少し間があった。エリオスは視線を、一瞬だけリシェルの顔に落とした。
「……続きを、楽しみにしている」
それだけ言い残して、エリオスは踵を返した。
足音が遠ざかる。扉が静かに閉まる。
書庫にまた、紙とインクの匂いだけが残った。
——いつもと同じ、静かな空気。
なのに、リシェルはしばらくそこに立ち尽くしたまま、動けなかった。
◆
王宮の中庭には、午後の光が穏やかに満ちていた。
石畳の上に白いテーブルが設えられ、王太子妃候補たちのための茶会が開かれていた。
本来であれば、この場には王太子も顔を見せるはずだった。だが——近頃は、こうした席に姿を見せることはほとんどない。
繊細な磁器のカップから立ちのぼる紅茶の湯気が、秋の冷えた空気にゆっくりと溶けていく。手入れされた低木の垣根が四方を囲み、外の喧騒を遠ざけていた。
セラフィア・ヴァレンティナは、カップを静かに置いた。
向かいと横に座る令嬢たちが、示し合わせたように声をひそめる。
「……ねえ、セラフィア様。殿下は、本日もお見えにならないのですね」
小さく息を吐くような声音だった。わずかな不満が滲んでいる。
「政務で、お忙しいのでしょう」
セラフィアは穏やかに答えた。表情は変えない。
「殿下は、もともとこうした場を好まれない方ですもの」
やわらかな言葉だったが、それ以上の詮索を許さない響きがあった。
令嬢たちは一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく頷く。
「……そうですわね。失礼いたしました」
空気が整えられる。しばらくの沈黙のあと、別の令嬢が声をひそめた。
「……そういえば、セラフィア様。最近の噂、ご存知ですか?」
「噂?」
扇を緩やかに動かしながら、セラフィアは問い返した。表情は変えない。
「王太子殿下が最近、秘蔵書庫に足繁く通われているのですが……そこに新しく入った司書の女性がいるそうで」
「ええ」
「それが……子爵家の令嬢だそうなのですよ。没落気味の、さほど名の知れない家の」
一人が扇で口元を隠しながら続ける。もう一人が小さく笑った。
「殿下がそんな方と親しくされるなんて、どうかと思いますわよね。私たちとしても、少し……釘を刺してあげたほうがよいのではないかと」
その言葉に、テーブルの空気がわずかに揺れた。
令嬢たちの視線が、セラフィアへ集まる。お伺いを立てるような、期待を含んだ目だった。
セラフィアは、カップの縁を指先でそっとなぞった。
——釘を刺す。
その言葉の意味するところは、分かる。分かった上で、セラフィアは緩やかに微笑んだ。
「必要ないわ」
「え……?」
「手を出すことはないと言っているの」
穏やかな声だった。だが、その奥に一本の芯が通っていた。令嬢たちが、わずかに背筋を正す。
「殿下の行動に、私たちが口を挟むのは筋違いよ。それに——」
一拍、置く。
「どうせ、一時の火遊びなのだから」
さらりと言った。まるで、秋風が葉を揺らすように。
「ああ……! さすがでございますわ、セラフィア様」
令嬢のひとりが、感嘆したように声を上げる。
「本当に。こういうとき、動じないでいられるのがセラフィア様のすごいところですもの」
「王妃の器、とはまさにこのことですわね」
口々に賛辞が重なった。セラフィアはそれを、変わらぬ微笑みで受け取る。
「ありがとう」
短く返す。それだけで十分だった。
令嬢たちは満足したように頷き合い、話題はいつの間にか別のことへ移っていった。
セラフィアは、紅茶のカップをゆっくりと持ち上げた。
口をつける、その直前。
指先に、かすかな力が入った。
(……一時の火遊び)
自分で言った言葉が、胸の内で反響する。
そうだ。そうに決まっている。王太子が、あのような立場の娘に本気になるはずがない。婚約者候補も複数いる。政治的な判断が優先される立場なのだから。
だから——気にするだけ無駄だ。
(分かっている)
紅茶を、静かに飲む。香りは上品で、温度もちょうどよかった。
なのに、なぜか味がよく分からなかった。
(……あの程度の娘が)
没落気味の子爵家。大した後ろ盾もない。社交界でさほど名の知れた存在でもない。
自分とは、比べるまでもない相手のはずだった。
(……分を弁えないにも程がある)
なのに——なぜ、こうも胸の奥が騒がしいのか。
令嬢たちの笑い声が、遠くで続いている。中庭の木が、秋風に揺れた。乾いた葉が、石畳の上を滑っていく。
セラフィアはカップをそっとソーサーに戻し、庭の端へ視線を向けた。
その表情は、どこまでも穏やかだった。
ただ——膝の上で静かに重ねられた手だけが、指先が白くなるほど、かすかに握りしめられていた。




