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私の官能小説が大流行した結果、恋愛経験ゼロなのに女嫌い王太子の恋愛指南役になりました  作者: 高八木レイナ


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12/15

十一話 検証と、その余熱

 書庫の空気は、いつもと同じはずだった。

 紙とインクの匂い。高い窓から差し込む、穏やかな光。規則正しく並ぶ背表紙の列。


 ――それなのに。


 リシェルは、どうしても落ち着かなかった。


(昨日のこと……忘れなきゃ……)


 本を手に取りながらも、指先に力が入らない。思考は何度もあの瞬間に引き戻される。耳元に落ちた、低い声。近すぎた距離。触れそうだった体温。


(あれは、仕事……ただの指南)


 そう言い聞かせた。

 昼休憩中に見かけたセラフィアの姿が、まだ頭から離れない。

 あの人なら——エリオスの隣に立っても、何ひとつおかしくない。

 だから、割り切れるはずだった。


(……どうして、こんな気分になるの)


 ──そのときだった。

 足音が、近づいてきた。

 規則正しく、無駄のない歩み。聞き慣れてしまったその音に、胸が一度だけ大きく鳴った。扉が静かに開く。蝶番の低い鳴き声。


「……いるな」


 低く、落ち着いた声。


「お、おはようございます、殿下……」


 リシェルは慌てて立ち上がる。だが顔を上げた瞬間、視線がぶつかってしまい、すぐに逸らした。

 エリオスはいつも通りの表情だった。整った顔立ちに、感情はほとんど浮かんでいない。だが――。


(昨日と同じ顔、なのに……)


 なぜか、距離が近く感じる。

 彼はゆっくりと歩み寄ってきた。逃げる理由もないのに、リシェルは一歩だけ後ろへ下がってしまう。


「——リシェル」


 不意に名を呼ばれた瞬間、息が止まった。


「で、殿下……」


 反射的に背筋を伸ばす。だが昨日の記憶が蘇って、顔に熱が集まった。

 エリオスは、そんな様子をじっと見ている。


「……続き、ですか?」


「ああ。恋愛指南の」


 淡々とした声音。だが、その奥にわずかな含みがある気がして、リシェルの胸の奥がざわついた。


「は、はい……」


 声が少し震える。

 エリオスはリシェルをひと目見てから、ふと目を床に落とした。


「昨日は、"距離"と"声"だったな」


「……はい」


「なら、今日は復習をする」


(復習……!?)


 リシェルの心臓が一気に騒ぎ出す。だが、エリオスの声音はあくまで落ち着いていた。恋愛指南の延長として言っているだけのように聞こえる。


「まずは、視線だ」


「し、視線……?」


「相手から目を逸らすな。見られていると意識するだけで、相手は落ち着かなくなることがある」


 そう言いながら、エリオスはゆっくりと顔を上げた。

 そして――真っ直ぐに、リシェルを見た。


(む、無理……!)


 目が合った瞬間、呼吸が浅くなる。逸らそうとしても、逸らせない。逸らしたら指導にならないと分かっているから。

 エリオスは何も言わない。ただ、じっと見ている。それだけなのに、耐えられない。


「……どうした」


「な、なんでもありません……!」


 慌てて言うが、声が上ずってしまう。


「逸らすなと言ったはずだ」


 低い声が落ちる。責めるでもなく、ただ事実を口にするだけの調子なのに、それが妙に胸に刺さる。

 リシェルは必死に顔を上げた。再び目が合う。今度は逸らさないように——と思った瞬間、余計に意識してしまう。


(視線だけで、こんなにも息が詰まるものなのかしら……)


 距離は変わっていないはずなのに。

 エリオスの瞳に、かすかな愉悦がよぎった。


「……なるほど」


「な、何がですか……?」


「視線だけでも、ここまで反応が出るのか」


「分析しないでください……」


 思わず小さく抗議すると、エリオスは一瞬だけ口元を緩めた。すぐに戻ったが、確かに今、笑った。


(……楽しんでない?)


 ほんの少しだけ、むっとする。

 こっちは必死なのに。

 そんなリシェルの内心を知らないふうで、エリオスは静かに言った。


「次だ」


 エリオスが一歩、踏み出した。コツ、と床に靴音が響く。リシェルは反射的に一歩下がる。だがすぐに背中に本棚の感触が当たった。革装丁の固い感触が背を押す。


(また……!)


 どこにも行けない。だが、昨日と違うのは——エリオスが、それ以上近づいてこないことだった。

 手を伸ばせば触れられる距離。けれど、触れない。


「……この距離だ」


 静かな声。


「これ以上詰めると、相手は身構える。だが、離れすぎても意味がない」


 理屈としては理解できる。だが——。


(近い……!)


 昨日がよぎる。耳元の囁き。触れそうな距離。体温。意識すればするほど、落ち着かない。

 エリオスはリシェルの様子を見ながら、ほんの少しだけ首を傾けた。


「……逃げないな」


「に、逃げません……!」


「そうか」


 短く返される。だが、その言葉にはどこか満足したような響きがあった。

 沈黙が落ちる。近い距離。交わる目。呼吸。何もしていないのに、空気が張り詰めていく。


(……これじゃあ、どっちが恋愛指南されているのか……わからないわ)


 リシェルは半ば本気でそう思った。

 教えているはずなのに、追い詰められているのは自分の方だ。


 そのとき、エリオスが低く言った。


「名前を呼ぶ」


「……え?」


「昨日言っていたな。優しく名前を呼ぶといいと」


 リシェルの心臓が跳ねる。


(やっぱりやるの……!?)


 エリオスはほんの一瞬だけ間を置いてから――


「……リシェル」


 低く、抑えた声。逃げ場のない距離で、真っ直ぐに呼ばれる。

 呼んだ本人も、わずかに息を詰めたように見えた。

 それだけで――。


「……っ」


 息が詰まった。心臓が大きく跳ねる。耳の奥が熱い。


「……反応が分かりやすいな」


「わ、分かりやすくてすみません……!」


「謝る必要はない。むしろ——」


 エリオスは少しだけ声を落とした。

 低い声が、いつもよりわずかに掠れて聞こえた。


「正確な反応だ」


 その言葉に、リシェルは何も言えなくなる。


(……もう無理……)


 これ以上は、もたない。だが逃げることもできない。


「……どうした」


 低い声が、すぐ近くで落ちる。


「い、いえ……!」


 慌てて首を振る。だがその動きで、ほんのわずかに距離が揺れた。触れそうで、触れない。

 エリオスの視線がわずかに強まる。喉が小さく動いた。その仕草が妙に色っぽく見えてしまって、リシェルはますます混乱した。


(な、なんで今、そんなふうに見えるの……?)


「……そうか」


 短く言う。だがその目は、さっきまでよりも確かに何かを含んでいた。見極めるような、試すような——。

 ほんの一瞬の沈黙のあと、エリオスはゆっくりと一歩退いた。距離が離れる。それだけで、空気が緩んだ。


(……助かった……)


 思わず小さく息を吐く。だがその様子を、エリオスは見逃さなかった。


「……やはり、限界があるらしい」


「限界って言わないでください……!」


 目を潤ませて抗議すると、エリオスはまたほんの少しだけ笑った。


(やっぱり楽しんでる……!)


「……そうか」


「楽しそうに言わないでください……!」


 ついむっとして言い返すと、エリオスは一瞬だけ目を見開いた。

 それから、どこか面白がるような光が、その瞳の奥に浮かぶ。


「そうか。悪かった」


 まったく悪いと思っていなさそうな声だった。


「"耳元で囁く"というのは、手応えがあった。だが、それだけで十分とは思えない」


 そう言って、一歩近づく。それだけで、空気が変わる。


「他には?」


「……え?」


「他に、効果的なものはないのか」


 問われて、リシェルは一瞬言葉に詰まった。頭の中に浮かぶのは、読んできた数々の恋愛小説の一節。それでも——これは、仕事だ。


「ええと……その……」


 視線をさまよわせながら、なんとか言葉を探す。


「距離が近い状態で……耳元だけでなく……首筋、とか……耳の後ろ、とか……は、敏感なことが多い、らしい……です」


 言った瞬間、自分で何を言っているのかと顔が熱くなる。


(な、何言ってるの私……!)


 ――一瞬、沈黙が落ちた。


「……なるほど」


 低く落ちる声。

 エリオスは視線をわずかに落とした。一拍置いて、それから顔を上げる。その目に、何かが宿っていた。


「では、試そう」


「ま、待っ——」


 言い終わる前に、距離がさらに詰められていた。逃げる間もない。エリオスの手が、そっとリシェルの頬の横に添えられる。押さえつけるでもなく、ただ位置を固定するように。

 石鹸と香木の微かな匂いが、ふっと近づいた。

 耳の後ろに、ふ、と何かが触れた。


「——っ」


 息が、乱れる。


(——近い)


 そこだけが、やけに鮮明だった。ひやりとした感覚と、すぐあとに来る熱。意識が一点に集中する。

 体がびくりと震えて、逃げようとするのに、足が動かない。何をされたのか、うまく認識できない。ただそこに触れられているという事実だけが、強く残る。


「……どうだ」


 すぐ近くで、低い声が落ちた。

 その声も、さっきより少しだけ熱を帯びている気がした。その吐息は、先ほどよりわずかに浅い。


「り、理論上は……その……有効、だと……思い、ます……」


 なんとか言葉を絞り出すが、自分でも何を言っているのか分からなかった。

 エリオスはわずかに目を細めた。


「理論上、か」


 そのまま、しばらく何も言わなかった。視線がリシェルの顔に落ちたまま、動かない。


「他には? 女性と距離を縮める方法は……?」


 リシェルはもはや頭が真っ白で、まともな思考ができなくなっていた。


(ええっと……ギルベルト編集長が言ってたことがあったような……確か……)


「し……"嫉妬"とか……」


「……嫉妬?」


「そういう感情を、見せるといいって聞きました……」


 リシェルが息も絶え絶えにそう言った瞬間——エリオスの表情が、わずかに歪む。まるで、何かを思い出したかのように。


「……へぇ、それは……」


 ふいに、エリオスの目つきが変わった。

 一段低くなった、かすれた声だった。さっきまでとは、どこか違う。

 耳の後ろに触れていた指が、すっとなぞるように首筋へ這わされる。


「……リシェル、他の男とあまり話さないでくれ」


「へ……? あっ……は、はい」


 反射的に答えてしまう。

 エリオスがふっと口元を緩ませる。その笑みが、妙に満足そうで——少しだけ腹が立った。


「……約束したからな?」


 そう言って、ゆっくりと手が離れる。触れていた場所から温度が消えて、代わりに妙な喪失感が残る。


(……え?)


 一瞬、何かが足りないと感じてしまった自分に、リシェルははっとする。


(ち、違う……!)


 慌てて一歩下がる。耳の後ろに、まだ感覚が残っている気がした。遅れて、心臓が暴れ出す。


「で、殿下、今のは……!」


「問題ない。指南の範囲だろう?」


 あくまで冷静な顔。だがその目は、どこか探るようだった。


「……十分すぎるほど、分かった」


「っ……!」


 そう言われて、顔が一気に熱くなる。

 エリオスはゆっくりと一歩退いた。間を置いてから、声音を変えて言った。


「……そういえば、恋愛指南の報酬は何がいい?」


 エリオスにそう問われて、すっと頭が冷えた。

 恋愛指南。仕事。報酬。


(そう……これは、ただの仕事だ)


 それを突きつけられたように感じて、リシェルは視線を逸らすこともできず、ただ立ち尽くした。


「……まだ決めてなくて」


「別にいい。ゆっくり決めてくれ」


(望みたいものが、言えない)


 胸がざわつく。その感覚の正体を、リシェルはまだうまく言葉にできなかった。


(……無理……こんなの……)


 仕事のはずなのに。どうしてこんなに、苦しいのか分からなかった。


「……リシェル」


「はい……?」


 少し間があった。エリオスは視線を、一瞬だけリシェルの顔に落とした。


「……続きを、楽しみにしている」


 それだけ言い残して、エリオスは踵を返した。

 足音が遠ざかる。扉が静かに閉まる。

 書庫にまた、紙とインクの匂いだけが残った。


 ——いつもと同じ、静かな空気。


 なのに、リシェルはしばらくそこに立ち尽くしたまま、動けなかった。



 王宮の中庭には、午後の光が穏やかに満ちていた。

 石畳の上に白いテーブルが設えられ、王太子妃候補たちのための茶会が開かれていた。

 本来であれば、この場には王太子も顔を見せるはずだった。だが——近頃は、こうした席に姿を見せることはほとんどない。

 繊細な磁器のカップから立ちのぼる紅茶の湯気が、秋の冷えた空気にゆっくりと溶けていく。手入れされた低木の垣根が四方を囲み、外の喧騒を遠ざけていた。

 セラフィア・ヴァレンティナは、カップを静かに置いた。

 向かいと横に座る令嬢たちが、示し合わせたように声をひそめる。


「……ねえ、セラフィア様。殿下は、本日もお見えにならないのですね」


 小さく息を吐くような声音だった。わずかな不満が滲んでいる。


「政務で、お忙しいのでしょう」


 セラフィアは穏やかに答えた。表情は変えない。


「殿下は、もともとこうした場を好まれない方ですもの」


 やわらかな言葉だったが、それ以上の詮索を許さない響きがあった。

 令嬢たちは一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく頷く。


「……そうですわね。失礼いたしました」


 空気が整えられる。しばらくの沈黙のあと、別の令嬢が声をひそめた。


「……そういえば、セラフィア様。最近の噂、ご存知ですか?」


「噂?」


 扇を緩やかに動かしながら、セラフィアは問い返した。表情は変えない。


「王太子殿下が最近、秘蔵書庫に足繁く通われているのですが……そこに新しく入った司書の女性がいるそうで」


「ええ」


「それが……子爵家の令嬢だそうなのですよ。没落気味の、さほど名の知れない家の」


 一人が扇で口元を隠しながら続ける。もう一人が小さく笑った。


「殿下がそんな方と親しくされるなんて、どうかと思いますわよね。私たちとしても、少し……釘を刺してあげたほうがよいのではないかと」


 その言葉に、テーブルの空気がわずかに揺れた。

 令嬢たちの視線が、セラフィアへ集まる。お伺いを立てるような、期待を含んだ目だった。

 セラフィアは、カップの縁を指先でそっとなぞった。


 ——釘を刺す。


 その言葉の意味するところは、分かる。分かった上で、セラフィアは緩やかに微笑んだ。


「必要ないわ」


「え……?」


「手を出すことはないと言っているの」


 穏やかな声だった。だが、その奥に一本の芯が通っていた。令嬢たちが、わずかに背筋を正す。


「殿下の行動に、私たちが口を挟むのは筋違いよ。それに——」


 一拍、置く。


「どうせ、一時の火遊びなのだから」


 さらりと言った。まるで、秋風が葉を揺らすように。


「ああ……! さすがでございますわ、セラフィア様」


 令嬢のひとりが、感嘆したように声を上げる。


「本当に。こういうとき、動じないでいられるのがセラフィア様のすごいところですもの」


「王妃の器、とはまさにこのことですわね」


 口々に賛辞が重なった。セラフィアはそれを、変わらぬ微笑みで受け取る。


「ありがとう」


 短く返す。それだけで十分だった。

 令嬢たちは満足したように頷き合い、話題はいつの間にか別のことへ移っていった。


 セラフィアは、紅茶のカップをゆっくりと持ち上げた。

 口をつける、その直前。

 指先に、かすかな力が入った。


(……一時の火遊び)


 自分で言った言葉が、胸の内で反響する。

 そうだ。そうに決まっている。王太子が、あのような立場の娘に本気になるはずがない。婚約者候補も複数いる。政治的な判断が優先される立場なのだから。

 だから——気にするだけ無駄だ。


(分かっている)


 紅茶を、静かに飲む。香りは上品で、温度もちょうどよかった。

 なのに、なぜか味がよく分からなかった。


(……あの程度の娘が)


 没落気味の子爵家。大した後ろ盾もない。社交界でさほど名の知れた存在でもない。

 自分とは、比べるまでもない相手のはずだった。


(……分を弁えないにも程がある)


 なのに——なぜ、こうも胸の奥が騒がしいのか。

 令嬢たちの笑い声が、遠くで続いている。中庭の木が、秋風に揺れた。乾いた葉が、石畳の上を滑っていく。

 セラフィアはカップをそっとソーサーに戻し、庭の端へ視線を向けた。

 その表情は、どこまでも穏やかだった。

 ただ——膝の上で静かに重ねられた手だけが、指先が白くなるほど、かすかに握りしめられていた。



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