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私の官能小説が大流行した結果、恋愛経験ゼロなのに女嫌い王太子の恋愛指南役になりました  作者: 高八木レイナ


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十話 王太子妃候補

 翌朝、リシェルはいつもより早く目が覚めた。


 ――というより、ほとんど眠れていない。


 洗面台に立ち、冷たい水で顔を洗う。指先がひんやりと濡れて、一瞬だけ意識が冴えた。だがすぐに、昨夜の記憶が一気に蘇ってくる。

 壁ドン。耳元の囁き。互いの体温が感じられるほどの距離。——低く抑えた、落ち着いた声。

 思い出しただけで、耳の奥が熱くなる。


(……なんで思い出してるの、私)


 洗面台の縁を両手で掴む。冷たい石の感触だけが、かろうじて現実だった。

 それでも今日も行かなければならない。リシェルは小さく息をついて、鏡から目を逸らした。

 王宮書庫に入ると、いつもと変わらない紙とインクの匂いが迎えてくる。だが、リシェルの内側だけがまったく落ち着いていなかった。


「リシェル、顔が赤いぞ」


 不意に声をかけられ、びくりと肩が跳ねる。


「ル、ルドおじさん……!」


 慌てて顔を背ける。


「大丈夫か? 熱でもあるんじゃないか」


「い、いえ! 平気です……!」


 ルドヴィクはしばらくリシェルを見ていたが、何も言わずに視線を本へ戻した。

 何とか誤魔化しながら、本の整理に戻る。


(落ち着いて……仕事、仕事……)


 だが手元の本に集中しようとしても、どうしても意識が逸れてしまう。


 ――恋愛指南。


 あんなことをしておいて、あれで練習のつもりなのだろうか。


(あれが本番だったら、女たらしになりそう……)


 そんなことを考えて、また顔が熱くなる。

 昼休憩の時間になり、リシェルは小さく息を吐いた。


(少し、気分を変えよう)


 軽食を書庫で済ませる日もあるが、今日は食堂へ向かうことにした。人の気配のある場所に身を置けば、少しは落ち着けるかもしれない。

 廊下を歩いていると、前方が少しざわついているのに気づいた。


「見た? 今の方……」


「ええ、あの方が——」


 囁き合う声に、自然と足がゆるむ。


「セラフィア様よ。王太子妃候補の筆頭って噂の」


「やっぱり……他の令嬢とは格が違うわね」


 その言葉に、リシェルは思わず顔を上げた。

 廊下の向こうを、一人の令嬢が歩いている。

 艶やかなローズブラウンの髪が、歩くたびに秋の回廊の光を受けてゆるやかに揺れる。明るい琥珀色の瞳は穏やかに細められ、優雅な微笑みはどこか作り物めいて見えた。宝飾を纏った衣装は華やかでありながら品があり、足音さえも静かで、それでいて確かな存在感があった。

 彼女が通るだけで、廊下の空気が自然と静まる。他者を圧倒する王族のような風格。


(あの方が……?)


 リシェルは、ただ呆然と見つめた。


 ――王太子妃候補、セラフィア・ヴァレンティナ公爵令嬢。


(……住む世界が、違う)


 直感的に自然と、そう思った。彼女なら、エリオスの隣に立っても見劣りしないだろう。

 セラフィアの視線が一瞬リシェルを捉えて、値踏みするように上から下まで見られた。リシェルは身をすくませる。すぐに興味なさそうに視線を逸らされた。

 リシェルはとっさに目を伏せた。


 ――昨日の光景が蘇る。書庫の中。近すぎる距離。耳元に落ちた低い声。


(あの方に……エリオスが、同じことをするのだろうか)


 想像してしまった瞬間、胸がきしんだ。


(……嫌だ)


 そう気づいて、驚いた。

 ぎゅっと拳を握る。


(違う。これは仕事だ。関係ない)


 エリオスが誰と恋愛しようと、自分には関係ない。そう言い聞かせる。

 だが胸の奥の感触は、そんな言葉では消えなかった。

 食堂へ向かう廊下の窓から、秋の光が差し込んでいる。白く透き通るような午後の光が、石の床に長く伸びていた。

 足取りは、どこか重かった。



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