九話 閉館後の授業
夕方の光が窓から斜めに差し込み、金色と影が本棚の列に縞を描いている。日中の賑わいが嘘のように、館内はしんと静まり返っていた。ルドヴィクは既に帰ってしまっている。
この場にいるのは、リシェルとエリオスだけだ。
紙とインクの匂いだけが、いつも通りそこにある。なのに——空気の質が、昼間とは違う気がした。
リシェルはエリオスの前に立った。
緊張で背筋がこわばる。向かいに立つエリオスも、普段の感情をあまり表に出さないいつもの表情とは少し違って、どこか力が入っているように見えた。その微かな変化が、かえってリシェルの意識を彼に引きつける。
夕日が、エリオスの横顔を金色に縁取っていた。
昨夜あれだけ覚悟を決めたのに、いざこうして向き合うと、心臓がうるさくて仕方がない。
(やっぱり、恋愛指南なんて無理……!)
エリオスが気まずそうに口を開く。
「それで……」
低く落ち着いた声だった。
「恋愛というものは、まず何から始めるべきなんだ?」
(いきなり本題……!)
リシェルは一瞬固まった。頭の中に浮かぶのは、これまで読んできた恋愛小説。そして——自分が書いてきた官能小説のシーンだった。
(だ、だめ……! あれは参考にしたら危険……!)
必死に変な想像から意識を逸らし、昨夜考えた案を口にする。
「え、ええと……」
「まずは……会話、でしょうか」
「会話?」
「は、はい」
リシェルは小さく頷いた。
「女性は……その……いきなり距離を詰められると驚きますから。まずは普通に会話を重ねて、安心させることが大事だと思います」
エリオスは腕を組んだ。真剣な顔で考え込んでいる。
「安心、か……」
そしてふと顔を上げた。
「では、今の俺の話し方はどうだ」
「え?」
「女性と話す練習だ。お前が相手になってくれ」
(わ、私!?)
リシェルの顔が一気に熱くなる。だがエリオスは真剣だった。逃げ場はない。
「わ、分かりました……」
エリオスは少し姿勢を整えた。それから、ゆっくり口を開く。
「……今日はいい天気だな」
沈黙。窓の外で木の葉が揺れる音だけが、静かに聞こえる。
(え……?)
リシェルは瞬きをした。
(今のが、女性との話のきっかけになる会話?)
エリオスは真顔だった。
「どうだ?」
「え、ええと……普通……だと思います」
悪くはない。だが、良くもない。『ええ、そうですね』で終わってしまいそうな会話だ。
「普通か……」
エリオスは少し考えた。
「では、女性が喜ぶ話題は何だ?」
「そ、それは……」
(恋愛小説だと……)
頭の中でページがめくられる。
「女性を褒める、とか……?」
どうしても自信がなくて疑問符が浮かぶ。
「褒める?」
エリオスはじっとリシェルを見る。その視線があまりにも真っすぐで、リシェルは思わず目を逸らした。
「……例えば? 具体的には?」
(わ、私に聞かれても……!)
しかしエリオスは待っている。仕方なく、リシェルは言った。
「き、今日の装いが素敵ですね、とか……?」
エリオスは少し黙った。
その沈黙が痛い。
(私だって必死に考えてるのに……っ!)
少なくとも『今日はいい天気だな』よりはましではないだろうか。そう思いたいが——。
エリオスは静かに言った。
「……なるほど」
そして、視線をもう一度リシェルに向ける。
「今日のお前の装いは、よく似合っている」
リシェルの思考が止まった。
「え……」
「その色のリボンも悪くない」
真顔だった。あまりにも真剣に言われて、リシェルの頬がみるみる熱くなる。
「い、いえっ! 私じゃなくてね!?」
「練習だろう? 対象がいなければ意味がない」
「そ、それは……そうですが……!」
(ひとつ言うたびに、その場で試されるなんて聞いてない……!)
リシェルは完全に混乱していた。だがエリオスはまだ考え込んでいる。
「褒める、か……意外と難しいな」
その言葉に、リシェルは思わず笑いそうになった。
(王太子なのに……)
社交界では完璧に振る舞う人なのに、こんなところで真剣に悩んでいる。その姿が少しだけ可笑しくて——同時に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
(私も、もっと協力してあげなきゃ)
内心で奮起する。
「他に、女性はどうすれば喜ぶ?」
エリオスの問いに、リシェルは戸惑いながら考える。
「……優しく名前を呼ぶとか……?」
エリオスはわずかに目を見開いた後、唇に悠然とした笑みを浮かべた。
「……リシェル」
その少しかすれた声に、心臓が大きく跳ねる。鼓動が痛いほど波打った。
(……っ)
名前を呼ばれただけなのに、胸の奥がじんと熱くなる。
(心臓が……もたない……!)
何だか、口説かれているような気持ちになってしまうのだ。
(勘違いも甚だしい……)
リシェルは己の心が見透かされていないか不安になった。
(これは練習よ。殿下は、会話の練習をしているだけ……)
そう言い聞かせる。だが、全然落ち着かない。
「次は?」
「つ、次……?」
「名前を呼んだあとは、どうする」
真面目な顔だった。リシェルはひくりと喉を鳴らす。
「ええと……」
必死に記憶を探る。
「その……少し距離を縮めて、相手にだけ向き合っていると分かるようにするとか……」
「距離」
エリオスが低く繰り返した。
「それは、どの程度だ」
「ど、どの程度……?」
「言葉だけでは分からない。見せてくれ」
「わ、私がですか!?」
「お前が言い出したことだろう」
ぐうの音も出ない。
リシェルはおそるおそる一歩近づいた。だが、それだけで限界だった。
「……これくらい、とか」
エリオスは無言で見下ろしてくる。
「遠いな」
「そ、そんなこと……!」
「これでは他人行儀だ」
言うなり、エリオスが一歩踏み込んだ。コツ、と靴音が床に響く。さらに、もう一歩。
「殿下……?」
リシェルは思わず後ずさる。背中が本棚に当たる。革装丁の固い感触が背に伝わった。逃げ場がない。
(ち、近い……!)
エリオスの顔が、目の前にある。夕の光が横から差して、その輪郭が妙に鮮明に見えた。
「これくらいか?」
「ち、近いです……!」
「近い?」
エリオスは真剣に考える顔をした。
「女性はこの距離が苦手なのか」
「そういう問題では……!」
リシェルが慌てて言いかけた瞬間。
ドン、と鈍い音がした。
エリオスの手が、本棚の横の壁についた。白い手が、すぐ耳の脇に見える。完全に逃げ道が塞がれる。
(か、壁ドン……!? まだ教えてないのに?)
リシェルの顔が一気に真っ赤になる。
「あぁ、あ、あのっ……殿下!?」
エリオスは首を少し傾けた。
「これが噂に聞く"壁ドン"というやつか」
「な、なんで知ってるんですか!?」
「小説だ。最近、王宮でも官能小説が流行っているらしい」
(……私が書いた場面じゃないですか!!)
心の中で叫ぶ余裕もないくらい、心臓が限界だった。近すぎる。吐息が届きそうなほど近い。エリオスの声が低くなるたびに、耳の奥が変な感じになる。
「……確かに」
低く呟く声が、すぐ近くで聞こえた。
「こうして距離を詰めると、相手はかなり動揺するな」
「あ、当たり前です!」
「……なるほど。技術として使えそうだ」
「技術じゃありません!!」
(自分の想像力に殺されそう……!)
リシェルはもう限界だった。
「こ、これを婚約者候補の方にするつもりですか!?」
「いや。さすがに初対面ではやらない」
「そっ、そうですよね……!?」
(じゃあ、どうして私にやったの!?)
エリオスの視線が少しだけ鋭くなる。
「だが、お前は随分慣れているんだろう? カフェでも男と親しそうに話していた」
(そ、それ、まだ誤解されてる——!!)
エリオスは少し顔を近づけた。吐息が触れそうな距離だった。
「経験があれば、これくらいの距離も平気なのか?」
「へ、平気じゃありません!!」
思わず叫ぶ。その声が書庫の静寂に響き渡った。
エリオスは一瞬驚いた顔をしたあと、ふっと小さく笑った。口元だけが動く、珍しい笑い方だった。
「……そうか」
壁についていた手が離れる。冷えた空気が間に戻ってきた。
リシェルはやっと息ができた気がした。
(終わった……)
安堵したのも束の間だった。
「……なるほど」
エリオスは腕を組んで考え込んでいる。
「女性は距離が近いと動揺する」
「はい……」
リシェルは小さく頷いた。さっきの余韻がまだ心臓に残っていて、返事をするのも精いっぱいだった。
「……だから恋愛では、距離の使い方が大事だと思います」
「距離か。他には?」
「それと……声も……大事だと思います」
「声?」
「ええと……その……」
顔がどんどん熱くなる。夕日のせいではない。
(な、なんでこんな説明を……)
それでも頑張って続けた。
「女性は……耳元で囁かれると、どきっとすることが多い……らしいです」
言い終わった瞬間、後悔した。
(しまった……!!)
こんなことを言ったら——エリオスが試さないわけがない。
「なるほど」
エリオスは静かに言った。そして、一歩近づく。
「殿下?」
さらに一歩。リシェルは後ずさったが、すぐに本棚が背を止めた。逃げ場がない。
(ま、まさか……)
エリオスは少し首を傾けた。
「耳元だったな」
一瞬だけ、躊躇うように視線が揺れる。だがすぐに決意したように、彼は距離を詰めた。
「え……」
次の瞬間。エリオスの顔がすぐ横にあった。
そして——耳元で、低い声が落ちる。
「……こうか?」
リシェルの体が跳ねた。
「ひゃっ!?」
耳に吐息がかかった。温かい。それなのに、ぞくりと背筋が震える。心臓が爆発しそうだった。
「お、殿下……!」
声が震える。エリオスは少しだけ離れ、リシェルの顔を見た。
「確かに動揺しているな」
「当たり前です!!」
目の奥が熱くなる。くすぐったくて、彼の吐息が触れた耳を手で覆い隠す。
(女嫌いだっていう噂はどこにいったの……!?)
エリオスは視線を逸らした。
(……あれ?)
なんとなく、さっきより声が低い気がした。
エリオスはそれを見て、ふと呟く。
「……だが」
再び少しだけ顔を近づけた。耳の近くに、低い声が落ちる。今度は、さっきより静かだった。
「本当に、お前は男に慣れているのか?」
「な、慣れてません!!」
書庫に声が響く。
エリオスは一瞬だけ目を見開いた。それから小さく息を吐く。
「……そうか」
なぜか、ほんの少し安心したようだった。
リシェルはそれどころではない。
(もう恋愛指南どころじゃない……!!)
心臓が壊れそうなほど鳴っている。
(本当に彼は女性経験がないの?)
それにしては慣れすぎではないだろうか。行動に躊躇がないのはどういうわけなのか。近づく前に、もう少し戸惑いがあるものではないのか。
リシェルの頭の中がぐるぐると回る。
エリオスはゆっくりと本棚から手を離した。一歩下がる。
「もう教えません……!」
リシェルは真っ赤な顔で俯く。耳まで赤く染まっていた。
その様子を見て、エリオスは小さく息を吐いた。
「……殿下?」
リシェルが不安そうに顔を上げる。
エリオスは少しだけ笑う。夕暮れの光の中で、その口元がほんのわずかに動いた。
「そんなことを言わずに。まだ俺に……教えてくれ。恋愛の先生」
低い声が、静かな書庫に落ちる。
リシェルは何も言えなかった。ただ、胸の奥だけが、どくどくとうるさく脈打っていた。
◆
書庫を出ると、秋の冷気が火照った頬を撫でた。
乾いた落ち葉の匂いと、夕暮れの澄んだ空気。王宮の通路を歩きながら、エリオスは先ほどのことを思い出す。
(……本当に男に慣れているわけではないらしい)
胸の奥の重い澱が、ほんの少しだけ軽くなる。それでも——口元が勝手に緩んでしまうのは止められなかった。さっきのリシェルの顔が、何度も頭に浮かぶ。
(……今度、もう一度やったら、どうなるだろう)
そう考えて、また口元が動きそうになるのを抑える。
(いや、何を考えているんだ)
だが、その考えはなかなか消えなかった。
——女性とどう接するかの練習のはずが、どうも目的が変わってきている気がした。
彼女が動揺する顔を見ていると、なぜか——もう少し困らせたくなる。だから、つい調子に乗ってしまったのだ。
だが、それだけではない。
あの反応を見るたび、彼女の知らないところへ踏み込みたくなる。もっと違う顔を見てみたいと思ってしまう。
(……本当に、困ったな)
小さく息を吐く。
秋の風が、衣の裾をかすかに揺らした。
それでも足取りは、どこか軽かった。




