プロローグ
新連載始めました。
全23話。毎日20時更新です
王宮秘蔵書庫。古紙と革装丁の匂いが静かに満ちる、閉ざされた空間で——。
「お前は……男に慣れているんだろう?」
耳元に落とされた低い声に、リシェルの心臓は止まりそうになった。
リシェルは片耳を押さえながら、必死に呼吸を整える。頭の中でぐるぐると繰り返されるエリオスの言葉。
(落ち着け。落ち着くんだ、私……!)
だが、落ち着ける状況ではない。
まず、見られていた。
昨日のカフェ——編集長ギルベルトとの打ち合わせを、エリオス殿下は目撃していたらしい。しかも会話まで耳に入っていた可能性が高い。恋愛小説について真剣に語り合っていたあの内容を。
(で、でも……)
リシェルは恐る恐る、殿下の言葉を反芻する。態度、表情、言葉の端々。
(……気づいて、ない?)
どうやら彼は、リシェルが官能小説作家『無慈悲な夜の女王』だとは思っていないようだった。それだけは分かった。
——ただし。
(ギルベルトさんと付き合っていると思われてる……!?)
思い当たる節しかない。二人きりのカフェ。恋愛の話。誤解されても致し方のない状況だった。
ちがうんです殿下——とリシェルは心の中で全力で叫んだ。なぜあの場にいたかといえば、理由はただひとつ、官能小説の打ち合わせだったわけで——。
(口が裂けても言えないでしょう、それは!!)
リシェルは自分が官能小説家なことは秘密にしているのだ。
つまり、誤解を解く言葉がない。口を開けば開くほど、深みにはまる予感しかない。
そのとき、エリオスが静かに続けた。
「俺の……恋愛指南役になってほしい」
(……は?)
あまりにも想定外の展開に、リシェルの思考は三秒ほど真っ白になった。
恋愛経験ゼロの官能小説家リシェル・フェルヴァン、二十歳に。
今この瞬間も、王太子殿下が目の前にいるというだけで胸が痛いほど鳴っている、この自分に。
(無理無理無理無理無理……!!)
――しかし。
「……無理か?」
その声は、先ほどまでとは少しちがった。
整いすぎた顔に、わずかな不安の色が滲んでいる。
リシェルは、その顔を見てしまった。
(断れない……)
ぎゅっとスカートを握る。
「い、いいえ……お役に立てるかは分かりませんが」
エリオスの表情が、かすかに緩んだ。
「……そうか」
——少しだけ、嬉しそうに見えた。
リシェルは心の中で、もう一度だけ叫んだ。
(私、恋愛経験ゼロなんですけどーーー!!)




