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政略結婚のはずでしたが、黒の公爵に「君を愛するつもりしかない」と言われました

掲載日:2026/03/07

深く息を吸い、ゆっくりと吐く。

それを三度、繰り返した。

胸の鼓動が、どうにも落ち着かない。

式の最中もそうだった。誓いの言葉を交わしたときも、指輪をはめられた瞬間も、胸の奥で鳴り続けていた。


これは期待ではなく、ただの緊張だ。

そう、自分に言い聞かせる。


私、ルイーズ・フォン・エーデルは、伯爵家の娘として生まれた。

家の存続のために婚姻を結ぶことなど、貴族にとって特別なことではない。この結婚も、その一つに過ぎない。

政略婚。それ以上でも、それ以下でもない。

家同士の利害が一致し、互いに利益を得る。整えられた条件のもとに成立した、穏当で理性的な縁組だ。そこに感情を持ち込む必要はない。

少なくとも、私はそう考えている。

そう割り切れているはずだ。


それはそれとして。


初夜の寝室というものは、どうしてこれほど静かなのだろう。

燭台の炎が、かすかな音を立てて揺れている。柔らかな光が壁に影を落とし、天井の装飾をゆるやかに揺らしていた。寝台の白いシーツが、やけにまぶしい。昼間の喧騒が嘘のように、部屋の中は静まり返っている。


そして、隣に座る存在感。

思いのほか、近い。

わずかに動くだけで衣擦れの音が聞こえる距離。意識してしまえば、互いの呼吸さえ感じ取れそうなほどだ。

胸の鼓動が、また強くなる。


落ち着きなさい、ルイーズ。これはただの緊張よ。慣れない状況に置かれているだけ。それ以上の意味など、どこにもない。



この縁談が公にされたとき、社交界は静かにざわめいた。

グライフェンベルク公爵家といえば、この国でも屈指の権勢を誇る三大公爵家の一つ。広大な領地を治め、軍の実権を握り、その発言力は王家といえど軽んじることはできない。


その当主が妻として迎えたのが

没落寸前と噂される、小さな伯爵家の娘。

それを知った貴族たちは、表向きこそ礼節を守ったが、内心では様々な反応を示した。


ある者は嘲笑した。あのエーデル家の娘を? 物好きな公爵だと。


またある者は首をかしげた。あまりにも釣り合いが取れない。何か裏があるに違いないと。


そして、政治というものをよく知る者たちは、少し考え、やがて静かに頷いた。

なるほど、と。


グライフェンベルク公爵家は、すでに強大すぎる。

もし王族の血を引く侯爵家と縁を結べば、王家は「公爵が王位に近づこうとしている」と警戒するだろう。隣国の姫君を迎えれば、他の大貴族たちは「公爵が外交を掌握した」と疑い、結束して対抗する。

強い家が、さらに強い家と結べば残された者たちは、束になって均衡を取り戻そうとする。

それが貴族社会の理だ。

ゆえに、公爵にとって最も波風の立たない縁談相手とは、どの派閥にも属さず、政治的な影響力を持たない家。ただ公爵家の庇護の下に入るだけの、しがらみのない家だった。

没落寸前の伯爵家は、その条件を驚くほど綺麗に満たしていた。


つまり、我がエーデル家のことだ。

当時の私は、そう理解した。

公爵が私を選んだ理由を、政治的な理屈として理解した。そしてそれは、極めて理にかなった選択だった。だから納得していた。

これは感情の問題ではない。家同士の利害が一致した結果に過ぎない。

それで十分だと、思っていた。

思っていたのだけれど。



ふと現実に意識が戻る。

燭台の炎が、静かな寝室でかすかに揺れている。厚い絨毯が音を吸い込み、部屋の中にはほとんど気配がない。昼間、あれほど賑やかだった祝宴が嘘のように、夜は静まり返っていた。

その静けさの中で、隣に座るこの方の存在だけが、やけにはっきりと意識される。



不意に、気配が動いた。

ほんのわずか。ただそれだけのことなのに、心臓が跳ね上がる。

視線が、こちらへ向いた。




「私は君を愛するつもりしかない」




静寂の中で、その言葉だけがくっきりと響いた。


「……ほぇ?」


気がつけば、そんな声が漏れていた。伯爵令嬢として長年叩き込まれてきた礼節が、見事にどこかへ消え失せている。

目の前にいるのは、この国でもっとも権勢を誇る三大公爵家の当主。そして本日、私の夫となった方。

エルハルト・フォン・グライフェンベルク公爵。


その人は、わずかに目を細めた。

今、少し笑われただろうか。三ヶ月の婚約期間のあいだ、この方の表情が変わるところなど、一度として見た覚えがない。常に静かで、冷静で、隙のない公爵だった。

それが今、ほんのわずかに口元を緩めた気がした。


「聞こえなかったか」


低く落ち着いた声が、静かな寝室に響く。


「い、いえ聞こえております。ただ、その…少々、意味を測りかねまして」


自分でも情けないほど歯切れの悪い返事だった。


「意味はそのままだ」


公爵は淡々と言った。


「私は君を愛する。それ以外の選択肢を持っていない」


胸の奥で、鼓動がひときわ大きく跳ねる。

どうして、今この言葉を。

初夜の寝室で。燭台の灯りが一つ揺れるだけの、こんな静かな場所で。


「政略結婚だと、思っているだろう」


「はい。そのように理解しております」


私は正直に頷いた。

だが公爵は、静かに首を横に振った。


「政略ならば、もっと有利な縁談はいくらでもあった」


淡々と並べられる名家の名。それらはすべて、この公爵ならば容易に手に入れられた縁談だ。



「だが私は君以外を、選ぶつもりがなかった」



その視線が、まっすぐにこちらへ向けられる。逃げ場など、どこにもない。





私は静かに息を吸った。

落ち着きなさい、ルイーズ。こういうときこそ冷静でなければならない。ゆっくりと呼吸を整える。

だが、それでも。

胸の鼓動だけは、どうしても静まってくれなかった。


「あの。政治的な合理性については、私なりに理解しておりました」


「ほう」


公爵はわずかに顎を引いた。


「グライフェンベルク公爵家がこれ以上強大な家と縁を結べば、王家や他の大貴族が警戒する。しがらみのない弱小家であれば、社交界も揉めない。つまり我がエーデル家は」


一度、息を整える。


「消去法として、もっとも波風の立たない選択だったのではないかと」


三ヶ月の婚約期間、私なりに、きちんと考えた結論だった。

公爵は静かに私を見つめ、わずかに目を細めた。


「よく整理されているな」


「お恥ずかしながら、それくらいは」


「半分は正しい」


「半分?」


「政治的な合理性は確かにある。周囲にはそのように見せてある」


「見せて、ある?」


「私が弱小家を選ぶ理由として、その説明は都合がよかった。だから広めた」


私はゆっくりと問い返す。


「周囲が納得するよう、意図してその論理を流した、ということでしょうか」


「ああ」


淡々と肯定される。

合点がいったと思いかけて、ふと気づく。


「では、残りの半分は」


公爵は一瞬も迷わなかった。


「君だ」


息が止まる。


「政治的に正しいだけでは、私は動かない」


「二年年前から、動いていた」


二年前。

胸の奥で、何かが小さく引っかかる。燭台の炎が揺れる。その光の中で、遠い記憶が輪郭を結ぶ。


「二年前の春。王城の庭園」


公爵の声は低く、揺らぎがない。


「君は、誰もいない場所で白薔薇を見ていた」


またもや変な声が出そうになったが、どうにか我慢した。


二年前。王城の舞踏会。あの夜、私は確かに庭へ抜け出した。舞踏会が苦手なのと、ドレスの締め付けが苦しくて、少し休憩したかったから。


「君は花を見て、こう言った」


公爵はわずかに目を細める。


『こんなに手をかけられているのに、少しも嬉しそうじゃないわね。』


言った。

間違いなく言った。

あのとき私は、確かにそう呟いた。しかもそのあと「どうして女性はこんなに苦しいドレスを着なければならないのかしら」などという、かなり率直な言葉を漏らした記憶がある。

聞かれていたとしたら、非常に恥ずかしい。

だが公爵は淡々と続けた。


「続きがある」


聞こえていたのですか。


『きっと、誰かの思惑どおりに咲かされているのね』


『少し、窮屈そう。私のドレスと同じだわ』


私は静かに目を閉じた。


「お忘れいただけますか」


「無理だ」


即答だった。

なぜそんなに記憶力が優れていらっしゃるのだろう。


「君の言葉は、私の胸に刺さった」


「ドレスの話ではなく」


「前半だ」


よかった。


「私は柱の影にいた」


公爵の声が、わずかに低くなる。


「王太子と対立していた夜だ。軍制改革を巡り、貴族院は二分されていた」


それは知っている。その頃の公爵は“黒の公爵”と呼ばれ、冷酷で非情だと噂されていた。

父からも何度も言われた。「あの方だけは怒らせるな」と。


「舞踏会は、私を従順な臣下として演出するための場だった」


「そうでしたのね」


「誰も本音を向けてこない。賞賛も恐れも打算もあった。だが、理解はなかった」


少しだけ、胸が痛んだ。

誰も本音を言わない場所。打算の笑顔ばかりが並ぶ空間。


「君の言葉を聞いた瞬間」


公爵はゆっくりと私に近づいた。


「初めて、胸が痛んだ。君は私を見ていないし、そんなつもりは無かっただろう。だが、言い当てた」


静かに告げる。


「私はあの花だった」


整えられ、管理され、望まれる姿を強いられる存在。完璧に咲くことだけを求められる白薔薇。

確かに公爵の横顔は、あの花に少し似ている気がした。完璧で、隙がなくて、誰もその奥を覗こうとしない。

そして、ふと思う。

もしかして。私も似ていたのではないだろうか。

没落寸前の家で、何事もないふりをして笑顔を貼り付け続けてきた私もまた、誰かの思惑どおりに咲かされていたのかもしれない。


「だから決めた」


公爵は迷いなく言った。


「手放さないと」


「はぁ」


思わず曖昧な返事が出る。


「私は合理的な男だ。感情で賭けはしない」


静かな声。だが次の言葉には、わずかな熱があった。


「だが君だけは例外だった」


その瞳が、はっきりと私を捉える。


「君が他家に嫁ぐ未来を想像したら」


一瞬の間。


「耐えられなかった」


今。


この方は、確かにそうおっしゃった。

耐えられなかった、と。あの“黒の公爵”が。


もしかして私、思っていたよりずっと大事にされていたのではないだろうか。


「二年かけて整えた」


「二年、でございますか」


「伯爵家の負債を処理し」


「え」


「縁談を水面下で排除し」


「え?」


「王家と交渉し」


「少々、よろしいでしょうか」


思わず声が出た。


「それは……すべて、あなた様が?」


「ああ」


「二年前から?」


「ああ」


つまり。


私が「どうして縁談が来ないのだろう」と毎晩ひっそり枕を濡らしていたニ年間、この方が裏で全部止めていらしたということですの?

泣いていたのに……!

なんだか、ものすごく複雑な気分である。


「君が私の隣に立つ未来だけを残した。なぜそんな顔をする」


「いえ。少々、複雑な心持ちになっただけでございます」


「説明してくれ」


「二年間、縁談がまったく来ず、密かに落ち込んでおりましたので」


沈黙。


彼は、わずかに目を瞬かせた。


「それは、申し訳なかった」


「いえ! 結果として、この上ないご縁を頂戴いたしましたので。」


謝られると、こちらが恐縮してしまう。

けれど胸の奥で、何かがじんわりと温かく広がっていた。

二年間、誰かが私を見ていた。

誰にも選ばれないと思っていたあの夜々に、この方はずっと、私を選び続けていた。

その事実が、静かに胸へ染み込んでくる。


「政略ではない」


気を取り直すように、彼は続けた。


「私は君に救われた。だから今度は、私が救う」


彼の指が絡む。強く、逃げられないほどに。




「私は君を愛するつもりしかない」



最初の言葉が、再び落ちる。


「義務ではない。同情でもない。恩返しでもない」


一拍の間があった。


「欲望だ」


また直球が来た!

この方、本当にオブラートという概念をご存じないのでは?


「私は君を欲している」


「君が笑うと胸が緩む」


「君が他の男と話すだけで、理性が軋む」


「私は強いが、君に関しては理性的ではいられない」


落ち着いて。深呼吸。深呼吸。

いや待って、深呼吸すると隣にいらっしゃるこの方の香りが…って今それどころではない!


「あの」


「何だ」


「一点だけ、確認させていただいてよろしいでしょうか」


「どうぞ」


「本気でいらっしゃいますか」


まっすぐに聞いた。

笑っていない。嘘をついている顔でもない。ただ、確かめたかった。

彼は一瞬だけ、意外そうに目を見開いた。

そして、また少しだけ笑った。


「生まれてこの方、これほど本気だったことはない」


だめだ。

こんなの、だめだ。ずるい。

こんなに真っ直ぐ言われたら。

目が、じわっとした。

泣かない。泣かない。絶対泣かない。せっかくこの空気だったのに、台無しになってしまう。


「ルイーズ」


「泣いておりません」


「君が笑うと胸が緩むと言っただろう」


低く、穏やかな声で。


「泣いていると、どうなると思う」


どうなるんですの。


「焦る」


そう言いながら、彼は無言でハンカチを差し出した。

この方。こういうことを、さらりとなさるのね。


受け取って使った。


「泣いておりません」と言いながら泣いた。


しばらくして、ようやく落ち着いた。

思えば、久しぶりに泣いた気がした。

家では泣けなかった。泣けば父が心配するから。泣けば兄が落ち込むから。だから一人のときしか泣かなかった。それがいつの間にか癖になり、人前では笑うことが当たり前になっていた。

なのに今、この人の前で泣いていた。

おかしいな、と思う。まだこの方のことを、よく知らないのに。


「あの」


「何だ」


少し迷って、それでも言うことにした。


「二年前、庭へ出た理由は……ドレスがきつかったのもございますが」


「知っている」


「舞踏会が少々苦手で。皆さまが打算で動いていらして、本音が見えなくて、少し疲れてしまって」


「それで庭に」


「はい。だからあの花に、つい感情移入してしまったのだと思います」


彼が、静かに目を細める。


「君も、管理されていたか」


「没落しかけた伯爵家の令嬢をずっと演じておりました」


「同じだな」


そうか、と思う。


二年前、あの庭で。お互いを知らないまま、同じ気持ちで薔薇を見ていた。完璧に咲かされることの、窮屈さを知っている者同士。


「私は君を愛する。今夜だけではない。明日も、十年後も、老いるその日まで」


静かに、確かに。


「君が私を拒んでも、愛する」


「怒っても、泣いても」


「逃げようとしても?」


「愛する」


「絶対でございますか」


「絶対だ」


少し、深呼吸した。


「私が将来、またうっかり妙なことを呟いてしまっても?」


「愛する」


「朝、寝癖がひどくても?」


「知っている。愛する」


知っていらっしゃるのですか。


「紅茶をこぼしても?」


「三回見た。愛する」


何度ご覧になっているの。


なんだか、おかしくなってきた。笑いが込み上げてくる。


でも今度の笑いは、鎧ではなかった。嘘でもない。ただ、おかしくて、嬉しくて、少し恥ずかしくて。そういう気持ちが混ざった、初めての笑い方だった。


「ふふ」


「笑ったな」


「申し訳ございません。なんだか、少し不思議な心持ちになりまして」


「不思議?」


「こんなふうに、きちんと見ていただいたことがこれまでなかったものですから」


言ってから、少し驚いた。こんなことを、口に出せるとは思っていなかった。




「これからも見ている」


「はい」


「一生」


「はい」


「君が私の人生だ」


「あの、もう一点だけ」


「何だ」


少し迷って、それでも言うことにした。


「私も、その」


頬が、盛大に赤くなるのがわかった。


「あなた様のこと、嫌いではございません」


沈黙。


「それは」


彼の声が、かすかに揺れた。


「私への告白としては、おそらく史上もっとも控えめなものだな」


「最初から、いきなり大きなことは申せません!」


「そうか」


「でも、本当のことでございます。これからきちんと、もっと……その」


「待っている」


この方、「待っている」という言葉が本当にお似合いだと思う。


「エルハルト様」


「何だ」


「二年間、見ていてくださって、ありがとうございました」


短い沈黙の後。


「礼はいらない」


「ですが、申し上げたいのです。ありがとうございます。」


彼の手が、少しだけ強く絡まった。


「どういたしまして」


しばらく、そのままでいた。

彼の手が温かいことを、初めて知った。

黒の公爵は冷たい人だと思っていた。近づけば凍えるような、そういう方だと。でも、まったく違った。体温があって、心臓の音がして、ハンカチをさりげなく差し出して、私が笑うと胸が緩むと言う。

そういう方だった。



彼は、静かに私の顎を持ち上げた。視線が、まっすぐに交わる。


「君が嫌なら、今夜は話すだけでもいい」


思いがけない言葉に、どくん、と心臓が跳ねた。

割り切っていたはずだった。期待などしていないはずだった。

それなのに今この瞬間、私の心臓はひどく正直で、頬はひどく熱くて、彼の手の温もりが離れてほしくないと思っていた。


「嫌では、ございません」


小さく、けれど確かな声で言った。


「今夜は…あなたと、いたいと思います」


彼が、静かに目を細めた。


初めて見る表情だった。やわらかくて、どこか安堵したような。


「よかった」


燭台の炎が、ゆっくりと揺れた。


二人の夜が、静かに深くなっていった。











翌朝。


目を覚ましたとき、見慣れない天井があった。


一秒後にすべて思い出して、顔が熱くなる。


そっと隣を確かめると、端正な横顔があった。起こすのも悪いと思い、そのまま天井を見上げる。


心臓が、うるさい。


でもそれは昨日とは違う、なんというか

、まったく別の種類の騒がしさだった。


昨日と今日で、何かが変わった気がする。


私はずっと、笑顔を鎧にして生きてきた。傷ついていないふりをして、期待しないことで自分を守ってきた。でも昨夜、私は泣いた。人前で、この方の前で、笑顔を外して泣いた。


そしてこの方は、「焦る」と言いながらハンカチを差し出してくれた。急かさなかった。責めなかった。ただ隣にいてくれた。


この方の隣では、無理に笑わなくてもいいのかもしれない。

笑いたいときに笑って、泣きたいときに泣いて、変なことを呟いても、寝癖がひどくても、紅茶をこぼしても、そのままでいていい。


そういう場所が、できたのかもしれない。


そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「起きていたのか」


「……っ、起きておりません」


「目が開いている」


「夢遊病でございます」


「……」


「……起きておりました」


低く、短い笑い声が聞こえた。


この方が声を出して笑うのを、初めて聞いた。


いい声だな、と思った。もっと聞きたい、とも思った。








朝食の席に移り、紅茶を注いで、ほっと一息ついたところで。


盛大にこぼした。


彼はすかさずハンカチを差し出しながら、ほんのわずか口の端を上げた。


「四回目だ」


「数えないでくださいませ!!」

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