第二十九話:終末を越えて
風が――戻った。
禍源域の外周を押し潰していた“重さ”が、ふっと抜ける。
肺が勝手に膨らみ、誰かが嗚咽みたいな息を漏らした。
空の色が、薄い青を思い出す。
雲は裂け、光が落ちて、濡れた地面の匂いが立ち上がった。
連合軍の誰もが、膝をついたまま動けなかった。
助かった――と、理解するより先に、身体が勝手にそうしていた。
レンは刀を地に突き、息を整えながら禍源域を睨む。
渦はまだそこにある。だが、もう“広がらない”。
「……止まった、のか」
ツバサが掠れた声で言う。
返事がない。返せるだけの喉が残っていない。
白波ユイが、両手を胸元で組み、短く祈った。
結界の気配は、いつもの“守り”とは違う。戦場の空気をそっと撫で、崩れそうな人の背中を支えるだけの、静かな温度。
次の瞬間。
禍源域の中心が、ぱき、と音を立てたように見えた。
闇の膜が裂け、眩しい白が一筋――落ちてくる。
「ユウマ!」
ユナが叫んだ。
誰よりも先に走り出して、足を取られ、転びそうになりながら、なお止まらない。
白い光の端から、ひとつの影が吐き出される。
人の形をした影が、地面に叩きつけられる寸前――ユイの結界が一拍だけ張って、衝撃を殺した。
それでも、痛いほど重い落下だった。
ユナが抱きつくようにして受け止める。
腕の中の身体は熱いのに、指先は冷たい。
胸は上下している。だが、呼吸は浅く、どこか遠い。
「ユウマ、ねぇ……っ、返事して。お願い……!」
ユナの声が震える。
その震えが、必死に押し殺してきた三年間の恐怖を、全部ほどいてしまうみたいだった。
ユウマの瞼が、わずかに動く。
「……ユナ」
聞き間違いじゃない。
ユナは息を呑み、次の瞬間、怒鳴るように泣いた。
「バカ……! ほんと、バカ……!」
頬に落ちた涙が熱くて、ユウマは微かに笑おうとして、咳き込んだ。
全身が震え、歯の根が合わない。
レンが駆け寄り、片膝をつく。
「幻魔石は?」
ユウマは答えようとして、手のひらを見た。
握っていたはずの“重さ”がない。
代わりに、胸の奥にぽっかり空いたような感覚だけが残っている。
「……戻った。あそこに……返した」
言葉にした瞬間、遠くで禍源域がまた、ぱき、と音を立てた。
闇の輪郭が崩れ、土へ、霧へ、ただの“残り”へと落ちていく。
救われたのだ、と戦場がようやく理解しはじめる。
アルノルトが剣を地面に突き、天を仰いだ。
ジョエルが盾を下ろし、フィオナが膝のまま祈り続ける。
誰も勝ち鬨を上げない。上げられない。
その静けさの中で、ユウマだけが、もう一つの“音”を聞いていた。
耳の奥の、遠い場所。
笑いながら肩を小突くような気配。
(……イツキ)
呼べば、返ってきてしまいそうで。
呼べば、戻れないものを掴みに行ってしまいそうで。
ユウマは、喉の奥で名前を噛み潰した。
代わりに、胸の内に残る言葉だけを握る。
――正しく生きてるやつが、ずっと不幸のままなんてこと、あるわけねぇんだよ。
それは励ましじゃない。
“見せつけられた現実”だった。
遅れてでも、返る。
自分の知らない場所で、世界が少しだけ正しく動く。
その事実が、今のユウマを支えている。
ユナが、ユウマの額に自分の額を押し当てた。
息がかかるほど近い距離で、低い声で言う。
「……もう、勝手にいなくならないで」
責める言い方じゃない。
願いだ。
ユウマは目を閉じ、頷こうとして、また震えた。
身体が言うことを聞かない。
「……ごめん」
「謝るな。帰ってきたなら、それでいい」
ユナの声は、意外なほど落ち着いていた。
泣いているのに、決めた声だった。
ユイがそっと近づき、二人を包むように結界を薄く張る。
風が少しだけ優しくなる。
レンは立ち上がり、周囲を見渡した。
禍源域は崩れ、侵食は止まった。だが――
「……奴は?」
誰も答えない。
“謎の男”の気配が、どこにもない。
あるのは、焦げたような匂いと。
地面に残った、筆でなぞったみたいな黒い線の欠片だけ。
ツバサが唇を噛んだ。
ソウマは一言もなく、影の端を踏むように戦場を歩き、痕跡を探す。
終わってはいない。
ただ、今日だけは――終わらせた。
ユウマは、ユナの腕の中で小さく息を吐いた。
胸の空洞が痛む。
でも、その痛みの向こうに、確かに“生”がある。
「……生きてるな、俺」
独り言みたいな声に、ユナが笑いながら泣いた。
「当たり前だよ。私が、そうさせた」
強がりじゃない。
その一言が、ユウマの心を現実に縫い留める。
ユウマは、ゆっくりと手を上げて、ユナの背中に回した。
指先が震える。それでも、抱きしめる。
ユナが息を止めて、それから、力いっぱい抱き返した。
遠くで、崩れ切った禍源域の“残り”が、風に散っていく。
空は青いまま、何事もなかったみたいに広がっている。
ユウマは目を閉じた。
失ったものは戻らない。
でも――守ったものは、腕の中にある。
その重みを確かめるように、もう一度だけ、強く抱きしめた。
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