第二十六話:黒衣の刃、術式の防壁
黒衣の男が指先を上げた瞬間、戦場の“音”が一段、沈んだ。
刃鳴りも、叫びも、禍鬼の唸りも――薄い膜の向こうへ押しやられたみたいに遠い。
代わりに、耳の奥で自分の鼓動だけがやけに大きく響く。
ユウマは息を吐き切る前に、短双剣を握り直した。
手のひらが汗ばんでいるのに、冷たい。
「……動くな」
黒衣の男の声は低く、淡々としている。
命令というより、物理法則の宣言だった。
ラウルが軽い足で回り込もうとした瞬間――足が止まった。
見えない壁に膝を押さえつけられたように、身体が前へ出ない。
「うそだろ……?」
ラウルが息を飲む。
ジョエルが盾を構え直して前へ出る。
巨大な盾が一歩分、地面を削った――はずなのに、盾の先が“何もない空間”にぶつかって、鈍い音だけが返った。
フィオナが祈りを走らせる。
だが光が届く前に、空気がねじれて消える。祈りが“霧散”させられる感覚。
「……浄化が、届かない……!」
その背後で、エルデが術式の中心に立っていた。
楽しそうに両腕を広げ、渦の底から何かを吸い上げている。
「いいねぇ……いいねいいねいいね。禍源域ってさぁ、ほんと素敵。知識の匂いがする」
レンが刀を前に出した。刃先がわずかに震える。恐怖じゃない。圧への反射だ。
「お前が壁なら、斬るだけだ」
黒衣の男は、返事をしない。
代わりに、指先で空中に“短い線”を一本引いた。
――世界が、落ちた。
重力が一瞬だけ増したみたいに、膝が沈む。
ユイの結界がぎしりと悲鳴を上げ、ユナが歯を食いしばって補強する。
「ユイ……持つ?」
「……持つ。切らさない」
ユイの声は細いのに、芯が折れない。
ソウマが前へ出た。
感情を消しているせいか、顔色一つ変えない。刃だけが淡く光る。
「レン。あいつは“受けない”。斬り合いじゃない」
「分かってる」
レンは短く返すと、踏み込みを“浅く”した。
距離を詰めない。代わりに、男の周囲の空間そのものを探るように刀を走らせる。
刃先が見えない壁に触れた瞬間、火花が散った。
金属が擦れた火花じゃない。空気が焼けた火花だ。
黒衣の男は、初めて視線だけを動かした。
レンの刃筋を見ている。――評価している。
「……ほう」
それだけ。
次の瞬間、男の指が二本、軽く跳ねた。
地面に黒い線が走る。
線は“文字”のようでもあり、傷のようでもある。触れた空気が、切れていく。
ツバサが反射で跳んだ。
「おいっ……!」
線が通った場所の禍鬼が、真っ二つに裂ける。
だが裂けたのは肉体だけじゃない。裂け目から漏れる負の波が、結界を叩く。
ユナが叫ぶ。
「ユウマ、来る……!」
ユウマは短双剣を構え、身体ごと前に出た。
禍人化の熱が、血管を押し広げる。痛みが薄れる。代わりに“焦り”だけが強くなる。
黒衣の男は、ユウマを見た。
その目が、冷たいまま、少しだけ興味を帯びた。
ユウマが踏み込む。
短双剣が交差し、男の“壁”に叩きつけられる。
衝撃が腕を抜け、肩まで痺れる。だが刃が壁に“食い込む”感触があった。
「……っ!」
レンが即座に合わせる。
「今だ。ユウマ、そこを支点にする!」
レンの刀が、ユウマの刃が作った“歪み”へ叩き込まれる。
歪みが広がる。見えない壁に、ひびが入るみたいに。
ソウマが横から滑り込んだ。
斬るのではなく“縫う”。黒衣の男の足元に、刃で細い線を刻む。
男の指先が止まる――ほんの一拍。
その一拍で、戦場が動いた。
「押せ!」
レンの声が飛ぶ。
ジョエルが盾を前に出し、ひびの入った壁へ体重を預ける。
ラウルが歪みの隙間を狙って双剣を滑り込ませ、フィオナが祈りを“穴の中”へ流し込む。
結界の内側で、ユイが喉を鳴らした。
「……ユナ、もう少し。あと少しで……!」
「分かった……!」
ふたりの結界が、壁の外側まで伸びる。
ほんの一瞬、禍源域の圧が“薄まった”。
その瞬間を、エルデが見逃すはずがない。
「――あぁ。素敵。人が必死になる顔、最高」
術式の中心で、エルデの周囲の渦が濃くなる。
禍源域が、まるで呼吸を深くするように膨らみ始めた。
黒衣の男が、低く言った。
「余計な動きをするな。まだだ」
エルデはくすくす笑う。
「分かってる分かってる。焦って壊したら意味ないもんねぇ。……でも、僕は“待つ”のが苦手なんだよ」
レンの目が細くなる。
「……あいつ、わざと圧を上げてる。外周が――」
叫びが後ろから聞こえた。
「数が増えるぞ!」
強化禍鬼が、外周へ雪崩れ込む。
ザラハドとリュミエードが必死に受け止め、ノーザリアが盾壁を組み直す。
エルザの怒号が響いた。
「折れるな! 折れたら終わりだ!」
その声に、兵が歯を食いしばって踏ん張る。
ユウマは息を吐き、黒衣の男へ向き直った。
今、ここで“壁”を破らなければ、外周が崩れる。
黒衣の男が、初めて明確に“殺す”目をした。
「術式を守る。邪魔は排除する」
指が動く。
空中に、短い線が三本。
線が落ち、地面に刺さった瞬間、空間が裂けた。
裂け目から、冷たい風が噴き出す。禍源域の“負”を濃縮した刃。
ユナが叫ぶ。
「ユウマ!」
ユウマは短双剣で受ける――受けた瞬間、腕が持っていかれる。
刃を通して“感情”が削られる感覚。怒り、恐怖、哀しみが、無理やり引きずり出される。
視界が白くなる。
そのとき、背中が温かく押された。
「――戻って」
ユナの声。短い命令。
それだけで、ユウマの意識が“今”に戻る。
レンが踏み込んだ。
黒衣の男の線が刻まれる前に、刀で“書き換える”。
「お前の文字は読める」
レンの刃が、空間の線を断ち切る。
断ち切った瞬間、男の眉がわずかに動いた。驚きではない。純粋な興味。
「……面白い」
ソウマが男の背後へ回り込もうとする。
だが男は振り向かない。振り向く必要がない。
男の影が伸び、ソウマの足首を掴むように絡みつく。
ソウマの動きが止まり――それでも目は死なない。
「俺に触るな」
ソウマが低く言い、刀で自分の影を斬った。
影が裂け、ソウマが前へ出る。人間じゃない芸当。
その瞬間、黒衣の男が初めて“距離”を詰めた。
指先が、ソウマの喉元へ。
――殺される。
ユウマが踏み込む。
短双剣の片方を、投げるように滑らせた。
刃が男の手首を掠める。
血は出ない。代わりに、空気が裂ける。
男の指が止まり、ソウマが呼吸を取り戻す。
「助かった」
ソウマが一言だけ言う。感情のない声なのに、重い。
黒衣の男が、ユウマへ視線を戻す。
「異物。……鍵か」
その言葉が、背筋に刺さる。
この男は、ユウマの“存在”を最初から目的に含めている。
レンが一歩、前へ。
「お前が何を知ってるかはどうでもいい。ここは通る」
黒衣の男が、指先を下げた。
空気が、さらに沈む。
禍源域が膨らみ、中心のエルデが歓喜で身を震わせた。
「――そろそろ、かな。ねぇ、ねぇ。もう“頃合い”?」
黒衣の男が、淡々と答える。
「……あと少しだ。」
外周の叫びが一段大きくなる。
盾が軋み、槍が折れ、血が飛ぶ。
ユウマは歯を食いしばった。
ここで折れたら、終わりだ。
ここで通せなければ、全員が禍源域に呑まれる。
レンが低く言う。
「ユウマ。次の一手で壁を割る。合わせろ」
ユウマは短く頷いた。
残った短剣を握り直し、息を整える。
黒衣の男の指が、再び上がる。
その瞬間、禍源域の中心で――エルデが、笑った。
「――あぁ、来た来た来た。最高。最高だ」
世界が、もう一段沈む。
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