第二十四話:禍源域前線、狂気の観測者
土が、呼吸をしているみたいだった。
禍源域の縁――そこに立つだけで、空気が湿った獣の喉奥みたいに粘つく。耳の奥で、誰かが怒鳴っているような低い振動が鳴り続け、心臓の鼓動と妙に噛み合ってしまう。
その中心に、エルデがいた。
角の生えた、禍鬼でも人でもない影。
けれど動きは軽く、笑い声だけが不自然に澄んでいる。
「仕方ないですねぇ。……はぁ、でも、でもでもでも」
エルデの視線が、一直線にユウマへ刺さった。
「やっと来た。やっと来た! あぁ、知りたい、知りたい、知りたい……君の全部を。君の“耐え方”を。君の“壊れ方”を!」
熱に浮かされた言葉なのに、目だけは異様に冷たい。
観察者の目だった。ずっと、遠くから覗いていた目。
レンが、短く息を吸う。
「布陣を割る。ユウマは前、俺とアルノルトは左右。ユナとユイは後衛、結界を切らすな。ツバサ、ソウマ――外周を押し返せ。禍鬼の流れが途切れない」
「了解」
ソウマの返事は淡い。感情の温度が削られた声で、刀の切先だけが静かに立つ。
ツバサは歯を噛みしめ、唾を吐いた。
「……あんなの、笑ってる場合じゃねぇだろ」
前線のさらに後ろ。
エルザ率いるノーザリア隊が、盾と槍で壁を作っている。ザラハドとリュミエードの英雄隊も、禍鬼の濁流を押し留めるように戦っていた。
そして、少し離れた岩盤の上――
“謎の男”が、座っていた。
黒い外套。
顔の半分は影に沈み、指先だけが白い。
その指が、地面へ淡い光の線を走らせている。
術式だ。
線が増えるほど、禍源域の呼吸が深くなる。
空気の粘度が増し、世界の色が一段暗くなる。
なのに男は、戦場を見ても動かない。
筆を走らせる音もないのに、線だけが刻まれ続ける。
――こいつが“中心”だ。
ユウマは短双剣の柄を握り直した。リュミエードの鍛冶屋が打ち直し、芯まで鍛え直した刃。イツキの形見が、今は冷たい重さで手の内に収まっている。
「ユウマァ……」
エルデが、子どもみたいに名前を呼んだ。
「ユナを攫う予定だった。君が来なければ、もっと楽だったのに。……でもさ、君が自分から来てくれた。最高。最高すぎて脳が、震えそうだよぉ」
次の瞬間――エルデが消えた。
視界の端に、影が“湧いた”。
レンが反射で刀を抜く。甲高い金属音が鳴り、レンの刃が弾かれる。
受け止めたのは間違いなく刃なのに、感触が硬い骨みたいだった。
エルデは、笑っている。
「速い? 遅い? どう? 君たちの世界の基準で、どう?」
レンの足が地面を削る。
弾かれた衝撃だけで、腕の芯が痺れた。
そこへ、アルノルトの剣が入る。
白い閃光みたいな一撃――けれどエルデは紙一重で身を捻り、肩で受けるように流した。
「おやおやおやおや」
エルデの角の影が、揺らぐ。
「英雄って……こんなに綺麗なんだねぇ。君たち、壊したらどんな音がするんだろう」
背中が冷える。
言葉が遊びなのに、次の動きが“本気の殺し”になっている。
レンが歯を食いしばる。
「ユウマ、来い!」
「……わかった」
ユウマは踏み込んだ。
短双剣の二連。左で牽制し、右で喉を狙う。
エルデは上体を反らし、喉を避け、逆にユウマの手首へ爪を伸ばす。
その爪が触れる前に、ユウマの体が熱を持った。
禍人化。
皮膚の下を、黒い脈が走る。
視界が狭まり、音が遠のく。代わりに、エルデの動きが“遅く”見えた。
「……っ」
ユナが、後ろで息を呑む気配。
けれど彼女は崩れない。ユウマが禍人化しても、もう怯えない。
ユイが結界を張る。
薄い光の膜が、戦場の空気を一段軽くした。精神を削る波が、少しだけ弱まる。
ユウマは躊躇なく、踏み込んだ。
左の短剣でエルデの腕を弾き、右で胸の中心へ突き込む――
硬い。
刃が入らない。
肉ではなく、魔力の鎧。
エルデが嬉しそうに笑う。
以前なら。
禍人化の反動で、一分前後、体が動かなくなる。
だが、エルデはもう“それ”を待っていない。
アルキュオンで、見たのだ。
暴走が鎮められたあと――ユウマが、止まらずに立ち続ける姿を。
エルデは、舌なめずりするみたいに笑った。
「そうそう、それだ。君はもう“止まらない”。知ってる、知ってるよ。アルキュオンで確認した。……だから今日はね」
エルデの瞳が、ひどく澄む。
狂気が濁っていない。観測者の狂気だ。
「“どこまで続くか”を見に来た。肉体じゃない。心だよ。君の“人間”が、どこで擦り切れるのか」
言葉と同時に、空気が軋んだ。
エルデが撒いた何かが、じわりと広がる。
痛みでも毒でもない。胸の奥を撫でるような――嫌悪感。焦燥。恐怖。
禍源域が引きずり出す負の感情に、エルデが“手”を添えている。
ユイの結界が、わずかに鳴った。
膜が揺れる。支える側の精神に、細い針が刺さる感覚。
ユウマは歯を噛みしめた。
視界が狭まる。だが、ユナの気配が背骨を支える。
エルデが、わざとらしく首を傾げる。
「ほら、来るでしょ? 怖い? 悔しい? 悲しい? そのどれか一つでも濃くなれば――禍源域は喜ぶ。君の中の“禍”も喜ぶ。……そして」
エルデの視線が、すっとユナへ滑った。
「君は揺れる。守るものがあるって、いいねぇ。壊しがいがある」
瞬間、ユウマが踏み込む。
左の短剣で牽制、右で胸の中心――
エルデは“避けない”。紙一重で、鎧の継ぎ目だけをわざと晒す。
「そう、それでいい。君の一撃、もっと見せて」
誘導だ。
だが、レンがそれを読んだ。
「ユウマ、右――!」
レンの刀が先に入り、エルデの体勢を半歩だけ崩す。
その“半歩”が、致命になる。
ユウマの右の短剣が、継ぎ目に噛んだ。
刃が滑り込む。
黒い血が、細い糸のように飛ぶ。
エルデは、笑ったままだった。
驚きではない。歓喜だ。
「いい、いい、いい……! これだ。これが見たかった。君の“進化”は肉体じゃない、選択だ。守るために踏み込む選択――!」
次の瞬間、エルデの笑みが、鋭く細くなる。
「でも、邪魔が多い」
レンとアルノルトが畳みかける。
ラウルが側面を裂き、ジョエルが前に壁を作り、フィオナの祈りが戦線を繋ぐ。
連携で押し返す。
エルデの足が、半歩下がった。
その事実が、エルデの狂気をさらに研ぎ澄ませた。
「……最高。最高だよ。君は止まらない。だから僕は、“止める場所”を変える」
エルデが、静かに囁く。
「心を折ればいい」
次の瞬間、エルデの視線がユナへ刺さる。
殺意が、方向を変えた。
ユウマの背骨が凍る。
ユナが動くより早く、ユウマが動いた。
禍人化の体で、地面を蹴り――ユナの前に割り込む。
エルデの爪が、ユウマの肩を裂いた。
痛みより、熱が勝つ。
血が流れる感覚が遅れてくる。
ユナの息が近い。
「ユウマ――!」
「大丈夫!」
短く言うしかなかった。言葉を長くした瞬間に、隙になる。
エルデが、にやりと笑う。
「いいねぇ。いい。そういうの。守るってやつ。……君、もっと壊れやすくなってくれる?」
レンが踏み込む。
アルノルトが重ねる。
ラウルが視界をかき乱し、ジョエルが“受ける位置”を固定する。
連携で押し返す。
エルデの足が、半歩、下がった。
――効いてる。
その事実が、エルデの狂気をさらに加速させる。
「あぁ、最高。最高。こんなに予想外で、こんなに楽しい」
エルデが笑う。
そして、肩越しに、ちらりと“謎の男”を見る。
男は変わらず、術式を書いている。
戦場の血も、叫びも、彼にとっては風音と同じらしい。
その無関心が、怖かった。
ユイの結界が、微かに揺れる。
禍源域の圧が増している。術式が進んでいる。
ユウマは息を整えようとして、気づいた。
この場所にいるだけで、心の底が引きずられる。
恐怖が湧く。怒りが湧く。悲しみが湧く。
禍源域は、それを餌にする。
ユナが、ユウマの背に手を当てた。
その掌の温度が、ユウマの心をぎりぎり繋ぎ止める。
「……大丈夫。ちゃんとここにいる」
ユナの声は震えていない。
震えそうなものを、噛み殺している。
エルデが、それを見て笑った。
「いいなぁ。羨ましい。そういうの、僕には無いんだよ。あるのは知識だけ。知識だけが、僕を裏切らない」
そして声が、また高くなる。
「だから知りたい! 君の“愛”が、どこまで君を強くするのか――!」
エルデが、両手を掲げる。
禍源域の風が、渦を巻く。
地面の影が盛り上がり、黒い禍鬼が“生まれかける”。
「外周、来る!」
ソウマが言った。
感情のない声なのに、刃だけが怒っている。
彼は振り向かずに、禍鬼の気配へ刀を向けた。
ツバサが怒鳴る。
「増やすなよ、クソが!」
外周の英雄たちが、波を刈る。
けれど術式が進むほど、湧き方が変わる。質が変わる。数が変わる。
レンの目が細くなる。
「……長引かせるな」
アルノルトが頷いた。
「押し切ります。今ここで」
ユウマは、短双剣を構え直した。
肩の裂傷が熱く痛む。けれど禍人化の熱が、それを押し潰していく。
エルデが、舌を鳴らす。
「来い来い来い来い。君たちの限界を、僕に見せてよ」
その背後で、謎の男の指が止まった。
術式の一番外側――最後の線が、ゆっくり閉じられていく。
男が、顔を上げる。
視線が、戦場を一撫でした。
それだけで、空気が“落ちた”。
誰かの喉が鳴り、誰かの足が一瞬止まる。
感情が揺れた隙を、禍源域が舐めるみたいに吸う。
男の声が、低く落ちた。
「……続けろ。止めるな」
それが命令なのか、独り言なのか分からない。
けれどレンは、はっきりと理解した。
――時間がない。
レンが刀を握り締め、短く言う。
「次で決める」
ユウマが頷く。
ユナとユイが、結界を厚くする。
外周の英雄たちが、波を押し返す。
そしてエルデが、嬉しそうに笑った。
「うん。うんうん。いいよ。最高だ」
狂気の視線が、ユウマに絡みつく。
「さぁ――実験を続けよう」
禍源域が、呼吸を深くした。
次話は【毎日21時30分】更新です。続きが気になったらフォロー/★で応援してもらえると嬉しいです。




