第22話:黒き道程、狂気の準備
アシハラの城門を出た瞬間、空気がひとつ軽くなった。
それは解放ではなく、むしろ――これから先に遮るものがなくなる感覚だった。
冬の乾いた風が頬を撫でる。遠くの雲は薄く、空は澄んでいる。
なのに、ユウマの胸の奥だけが妙にざわついていた。
歩き出してしばらくしてから、ユウマはレンの隣に並んだ。
レンはいつも通りの歩幅で、刀を背に、視線だけを前に置いている。
「レン」
「ん」
返事は短い。続きを促すような間だけがある。
ユウマは少し言葉を探してから、静かに言った。
「多分……あいつも禍源域に向かってると思う」
レンの歩みが僅かに止まりかける。だが止まらない。
視線も逸らさないまま、声だけを返した。
「根拠は」
「……何となくわかるんだ」
それは同調ではない。幻魔石の共鳴でもない。
もっと嫌なもの――皮膚の内側を這うような直感だった。
レンは一度だけユウマを見て、すぐ前に戻した。
「何となく、が一番当たる時もある」
言い方は淡々としているのに、否定はしない。
ツバサが後ろから鼻で笑った。
「最悪だな。『何となく』で世界が終わりそうだ」
「笑ってる場合じゃないよ」
ユナが小さく言う。声は落ち着いている。
けれど手は、ユウマの袖を掴みたいのをこらえているように見えた。
ユイが歩きながら指を組む。薄い結界が、地面から立ち上がる塵や感情の揺れを“均す”ように広がる。
禍源域へ近づくほど、これが効いてくる。
ソウマは相変わらず表情を動かさない。
ただ、空気の質が変わり始めているのを察したのか、呼吸の周期だけを整えていた。感情を落とす術を“戦いの準備”として使っている。
――感情が乱れれば、死ぬ場所へ向かっている。
その事実を、誰も口にしない。口にした瞬間、揺れるからだ。
出発の際、君主は多くを語らなかった。
玉座から降りて、真正面からユウマを見て、丁寧に告げただけだった。
『結果がどうあれ、私は逃げません。……どうか、君も逃げないでください』
『君が背負ったものを、私たちは見ないふりをしない。――だから、帰ってきてください』
責任を背負わせる言葉ではなく、責任を自分の言葉で引き受けたうえで、祈りを添える言い方。
若い君主らしい、綺麗さと痛みが同居していた。
ユウマはその声を胸の奥に置いたまま、前を見た。
一方、禍源域へ向かう別の足音は、もっと軽かった。
「……あぁ、やっぱりコレだよねぇ」
エルデは満足げに杖を撫でた。
黒い木肌に、意味の分からない紋。握りの部分には擦り切れた装飾があり、まるで長年の愛用品のようだ。
ここはアルキュオン。
正気を取り戻した国の片隅で、誰にも見られぬように一瞬だけ立ち寄り、彼は“それ”を回収していた。
隣に立つ謎の男が、冷めた声で言う。
「そんなもの、なくても術は動く。
それに、本当に大切なら、なぜ最初から持ち歩かなかった」
エルデは目を見開いて、次の瞬間、笑った。
「気分だよ。気分。
気分が乗らないと、出るものも出ないだろ? ほら、気分は大事だ」
「……持ってこなかった理由は」
エルデは一秒だけ真顔になり、即答した。
「忘れてた」
謎の男が微かに眉を動かす。
呆れたのか、評価したのか、分からない。どちらでもいいという顔だった。
エルデは杖を肩に担ぎ、軽い足取りで禍源域へ向かった。
その足は、ユウマたちよりも先に中央へ届く。彼は道を知っている。禍の匂いが濃い方へ、迷いなく進める。
そして禍源域の外縁に辿り着いたとき――空気は、色を失った。
音が遠くなる。風のはずなのに、耳鳴りのような震えが混じる。
禍源域は“そこにあるだけ”で、生き物の心を擦る。
恐怖も憎悪も哀しみも、ここでは同じ燃料だ。
「さぁ……開くぞ。開くぞ開くぞ開くぞ……!」
エルデは頬を引きつらせるような笑みで、杖を握り直した。
謎の男が言う。
「急ぐな。術式を書く。時間がかかる」
「書く? 今すぐやればいいじゃないか。ほら、早く――」
「確実に“膨大な魔力”を引き出すには、場を固定する必要がある。
待て」
エルデは舌打ちしそうになり、しかし思い出したように笑った。
“確実に”という言葉が好きなのだ。
「はぁ……待つの、嫌いなんだけどねぇ」
謎の男が指を地に伸ばし、土と石に線を刻み始めた。
精密な幾何。理解できないのに、見るだけで背筋が寒くなる整然さ。
――そのとき。
エルデの首が、ぴくりと動いた。
「……来てる」
鼻を鳴らすように、息を吸う。
禍源域の空気の奥に、微かに“異物”の匂いが混じる。嫌いな匂いではない。むしろ、欲しい匂い。
「ユウマ……。あぁ、近い。近い近い近い……!」
エルデは一歩、そちらへ踏み出しかけて、止まった。
目が揺れる。ユウマは大事だ。あの“例外”は、ずっと欲しい。
だが今は、禍源域の方がもっと大事だ。
「邪魔されたくないんだよねぇ……。でも、あいつが来たら、面白くて――」
独り言が増える。脳内の欲がぶつかっている証拠だ。
謎の男が、刻む手を止めずに言った。
「禍鬼を入れろ」
「は?」
「禍源域の中に、禍鬼を入れてみろ。反応を見る」
エルデは目を輝かせた。
実験。反応。観察。――その言葉は、彼の狂気を最も正しく刺激する。
彼は指を鳴らした。
影の中から、首を垂れた禍鬼が引きずり出される。アルキュオンの残滓を舐めるように彷徨っていた個体だ。
「ほら、行ってこい」
エルデが軽く蹴ると、禍鬼はよろめきながら禍源域の境界へ踏み込んだ。
――次の瞬間。
禍鬼の身体が、内側から膨れ上がった。
骨が鳴る。
筋肉が裂けて縫い直されるみたいに、膨張して形を変える。背骨が盛り上がり、肩が異様に盛り、腕が太くなる。爪が伸び、牙が増え、唾液が黒く濃くなる。
禍気が、濃くなる。
空気が粘つく。
禍鬼は頭を上げた。目が、さっきより“考えている”ように見えた。
理性ではない。ただ、獣の中に“命令を理解する”程度の知覚が生まれたような――嫌な進化。
「……ッ、あは」
エルデが喉を鳴らす。
「あははははは! いいねぇ……いいよ、これ!
ほら見てよ、ほら! これが禍源域だよ! 最高だねぇ……!!」
謎の男が言う。
「時間を稼げ。
術式を書き終えるまで、邪魔をさせるな」
エルデは一瞬、ユウマの方角に視線をやり――すぐに禍鬼へ戻した。
「わかったわかった。じゃあ……もっと作ろう」
“作る”と口にしたのが、最悪だった。
彼にとって禍鬼は、生き物ではない。素材だ。玩具だ。数字だ。
エルデは次々と禍鬼を境界へ放り込んだ。
一体、二体、三体。入るたびに、膨張し、変質し、強化されていく。
大きくなる。速くなる。硬くなる。
声が低くなる。息が熱くなる。
群れが、軍勢になる。
エルデは夢中だった。
頬が紅潮し、目の焦点が合わず、それでも手だけは正確に禍鬼を操る。
「面白い面白い面白い……!
ねぇ、もっと入れたらどうなる? もっと濃くしたら? もっと――」
謎の男は何も答えない。
ただ術式を刻み続ける。淡々と、確実に。
禍源域の外縁に、強化禍鬼の群れが形成されていく。
時間稼ぎのための壁。いや、壁というより――牙の海だ。
夕刻。
ユウマたちの進軍路にも、空気の質が変わる帯が現れた。
土が乾いているのに、足裏が重い。
風が吹いているのに、音が遠い。
胸の奥に、他人の恐怖が染み込んでくるような感覚。
ユイが結界を強めた。薄い膜が、皆の周囲を包む。
「……前方、禍気が濃い。数も多い」
ユイの声は落ち着いている。だからこそ怖い。
レンが刀の柄に親指をかける。
ツバサが息を吐き、刀を抜きかける。
ソウマは何も言わず、すでに体重を前に預けた。
ユウマは短双剣の柄に指を添えた。
ユナが一歩、ユウマの半歩前に立つ。怖いはずなのに、逃げない。
地平の向こうに、黒い点が増えていく。
最初は影だと思った。次に、獣の群れだと分かった。
――そして、ただの禍鬼ではないと気づく。
身体が大きすぎる。禍気が濃すぎる。
群れが、こちらを“狩り”に来ている。
ユウマは小さく呟いた。
「……来る」
その一言が合図みたいに、結界が震えた。
黒い牙の海が、彼らへ押し寄せる。
次話は【毎日21時30分】更新です。続きが気になったらフォロー/★で応援してもらえると嬉しいです。




