第十四話:哭声の檻
地下は、温度がない。
冷たいのではなく、最初から“生”が存在しない場所だ。
鎖の擦れる音だけが響いていた。
薄闇の奥。
岩と鉄で組まれた隔離室の中央に、一人の女がいた。
膝を抱え、揺れている。
髪は乱れ、肌は白く、目はどこも見ていない。
口から漏れるのは――言葉ではなかった。
「……あぁ……あぁぁ……」
泣き声というより、痛みそのもの。
哀しみが形を持って滴っているような声だった。
その前に立つ影が、愉快そうに肩を揺らした。
エルデ。
「いいねぇ……最高だ。理解が追いつかない。……あぁ、知りたい、もっと知りたい」
嬉々として、鎖に触れる。
触れただけで鉄が軋み、結界の符が焦げる。
女は反応しない。
泣き声が少し大きくなるだけだ。
「君は……何百年、ここで泣いてた? ヴァルツェインの、可愛い研究成果。リーネ……」
名前を呼ばれても、リーネは何も返さない。
ただ、涙と呻きと、崩れた呼吸。
エルデは舌打ちひとつもせず、代わりに笑った。
「いい。連れて行こう。地上の空気を吸えば、何かが変わるかもしれない。……変わらなくてもいい。観察できる」
鎖がほどける。
リーネの身体がゆっくりと起き上がる。
立ち上がれるはずがない体なのに、何かに操られるように“立ててしまう”。
エルデはその腕を引いた。
哀しみの塊を、まるで荷物のように。
地上へ出る。
瓦礫と煤と金属臭。
工房の煙突が折れ、街の中心が抉れている。
それでも空は青く、子供の笑い声が、どこかに残っていた。
エルデは楽しそうに息を吸う。
「さあ、見せて。泣くだけの君が、ここで何になる?」
その瞬間――。
路地の向こうから、小さな影が走ってきた。
煤で汚れた頬。両手に布切れを抱えた子供。
「……お母さ――」
呼びかけは、途中で途切れた。
子供がリーネを見上げた、その一瞬。
リーネの目が、初めて“世界”を捉えた。
「……っ……!」
声にならない叫び。
泣き声が、悲鳴に変わる。
そしてそれは、音ではなく“念”になって爆ぜた。
空気が歪む。
瓦礫が跳ねる。
人々の頭の中に、直接、悲しみが叩き込まれる。
見てしまう。
失う瞬間だけが、無限に再生される。
「やめろ……やめて……!」
膝をつく兵。
嘔吐する住民。
叫ぶ子供。
エルデの笑みが、一瞬だけ薄くなる。
「……あぁ、これは駄目だ。制御が効かない。観察する前に壊れてる。……使い道がない」
哀しみの波が、さらに広がる。
エルデは肩をすくめた。
「じゃあ、諦めよう」
次の瞬間、影が消える。
吹雪でもないのに、そこだけ空間が“抜けた”。
残されたのは、泣き叫ぶリーネと――崩壊し始めた街だけだった。
そして数刻後。
街の外縁で、ヴァルツェインの英雄たちがリーネと対峙していた。
その目は、どこか死んでいた。
鎧の内側からは、機械の唸り。
人体を兵器へと作り替えた国の臭い。
中心に立つ少女――エミリア・クロイツ。
表情はない。呼吸も浅い。人形のように整っている。
英雄たちは、彼女の前へ出た。
「……お前は、まだ生きろ」
言葉が届くかどうかも分からないまま、彼らは盾になった。
リーネの悲鳴が走る。
精神を削る念が、刃のように突き刺さる。
英雄の一人が倒れる。
次が倒れる。
最後の一人が、エミリアを抱きかかえるように庇って、消えた。
エミリアだけが残った。
感情のない瞳で、泣き叫ぶ怪物を見て――。
*
ノーザリアを出たユウマたちは、ヴァルツェインの国境に辿り着いていた。
空は灰色。雪ではない。煤が舞っている。
街は壊滅状態だった。
壁が崩れ、工房が燃え、道に人がいない。
それなのに――聞こえる。
遠くで、泣き声。
狂おしいほどの哀しみが、ずっと響いている。
しかし妙だった。音量が一定で、波が沈静化している。
叫びきって声が枯れた、というより――“檻”の中で鳴っている。
ユウマは短双剣の柄を握り直した。
ユナが隣に立つ。ユイも白紗を揺らし、空気の異常を測っている。
「近づけるか」
レンが言う。刀は抜かない。抜く必要がないほど、空気が刃だった。
ソウマが一歩前へ出る。
目が冷たい。感情を薄くして世界を見る目。
「……嫌な念だ。触れただけで、思考が持っていかれる」
試しに兵の残骸へ近づいた瞬間、ユウマの視界が揺れた。
胸が締め付けられる。
理由もなく罪悪感が湧く。
自分が何かを壊した気がして、息が苦しくなる。
「……っ」
ユナが即座に手を伸ばす。
「ユウマ、戻って!」
ユイが結界を張る。
白い膜が、哀しみの波を“薄める”。
「まだ、前に出ないで。……これは、泣き声じゃない。精神に干渉する“念波”よ」
遠くの中心街。
そこにリーネがいる。
しかし、近づけない。
ユウマは唇を噛んだ。
レンが言う
「……一旦退くぞ、何か。突破口を」
その夜。
崩れた街の影から、ひとつの足音が近づいた。
静かで、無駄がない。
焚き火の光に、女が立つ。
無表情。
機械のように整った姿。
そして、目の奥が空洞。
「……ヴァルツェイン英雄隊。生存者。エミリア・クロイツ」
名乗り方だけが、淡々と正確だった。
ソウマの視線が、微かに揺れた。
似ている。
感情を消して生きる術を、彼も知っている。
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