第八話 世界は、静かにこちらを見る
潮風が、思ったより冷たかった。
リュミエードの港を離れてから、まだそんなに時間は経っていないはずなのに。
甲板の端で、ユナが手すりに肘をついて海を見ている。
髪が風に引っぱられて、頬にかかるたびに指で払っていた。
ツバサは反対側で、刀の柄を布で拭いている。何度も、何度も。落ち着かない時の癖だ。
ユウマは、自分の掌を見た。
昨日、あれが黒く染まった。目が赤くなって、呼吸が変わって――周りの目が一斉に変わった。
怖がられて当然だ。
それでも、頭のどこかで「仕方ない」の一言で片付けたくない自分がいる。
船員がロープを引く音がして、誰かがこちらをちらりと見た。
視線はすぐ逸れる。でも、なかったことにはならない。
「寒い?」ユナが振り返って言う。
「大丈夫」ユウマは答えて、喉の奥の乾きを誤魔化すみたいに唾を飲んだ。
喉が渇く。潮の匂いのせいか、昨日のせいか、自分でも分からない。
レンは船首の方にいた。風を真正面から受けて、目だけで遠くを追っている。
ソウマは木箱に腰掛け、地図と紙を重ねて見ていた。字が小さすぎて何を書いているのか分からないが、目の動きだけは速い。
ユウマがレンの背中を見ていると、レンが振り向かずに言った。
「思ったより静かだな」
「海だからな」ソウマが淡々と返す。
「静かすぎると、逆に嫌だ」ツバサがぼそっと言った。
ツバサの声には、昨日のリングの砂がまだ混じっているみたいだった。
あの瞬間、ガルドが笑った。あれが、腹の奥に刺さったまま抜けない。
ユウマは少し迷ってから、レンに声をかける。
「……ノーザリア、なんだよな」
「そうだ」
「遠い?」
「距離じゃない。確認しに行く価値がある」
レンは短く言って、そこで言葉を切った。
必要以上に語らない。だけど、黙って飲み込むだけでもない。レンらしい。
ユウマは頷いて、もう一度海を見た。
波が揺れて、船の影が伸び縮みする。まるで、世界が呼吸しているみたいだった。
――世界側が、こちらを見ている。
ふいにそんな考えが浮かんで、ユウマは眉間を押さえた。
大げさだ。分かってる。
でも、昨日の「共鳴」は、確かに自分の中で何かを押した。
◇
船を降りた港町は、リュミエードほど明るくなかった。
潮の匂いは同じなのに、空気が違う。風が鋭い。話し声も少ない。
荷を背負って歩き出すと、すれ違う人たちの目が、やっぱり一瞬だけ止まった。
怖がっているのか、警戒しているのか、好奇心なのか。
分からないまま、全部が同じ重さでのしかかる。
ユナが、さりげなくユウマの前に出た。
守るってほど露骨じゃない。けど、立ち位置が少しだけ変わった。
「……ユナ」
「なに」
「いや、ありがと」
ユナは顔を向けずに、「うん」とだけ言った。
その短さが、逆に助かった。
宿を探していると、通りの端で子どもが母親の袖を引っぱっていた。
母親が子の頭を押して、こちらから目を逸らさせる。
ユウマは苦笑しそうになって、やめた。
自分が笑ったら、もっと変に見えるかもしれない。
宿屋の主人は、無愛想だった。
でも追い返しはしない。金を受け取り、鍵を投げるように渡してくる。
「騒ぎは起こすなよ」
「起こしたくて起こしてない」ツバサが言って、ユイに肘で小突かれた。
「……わかってるって」ツバサは苦笑した。
部屋に入ると、やっと肩の力が落ちた。
でも、落ちた分だけ、昨日の記憶が浮いてくる。
イツキがいたころ。
あいつなら、こういう空気の時、わざとくだらないことを言って笑わせただろう。
(今さらだろ)
心の中で自分に言ってみる。
でも、胸は少しだけ痛む。
◇
夕方。
小さな食堂で、湯気の立つスープを飲んでいると、隣の席の男たちが小声で話していた。
「リュミエードでさ、角の――」
「やめろって。聞かれてたらどうする」
「聞かれて困る話なら最初からすんな」
言葉が途切れる。
その沈黙が、ユウマの背中に張りつく。
ソウマがスプーンを置き、何でもない声で言った。
「噂は勝手に広がる。止めようとするほど目立つ」
「分かってる」ユウマは答えた。分かってるからこそ、息が浅くなる。
ユナが、スープの器を両手で包みながら言う。
「明日からもっと寒くなるんでしょ。だったら、体力落とす方がまずい」
「そうだな」レンが言う。
「だから、食べる。寝る。変なこと考えるのはあと」ユナは言い切った。
ユウマは、少し笑いそうになった。
ユナは優しい。優しいのに、言い方が強い。
それが、今はありがたい。
「……昨日さ」ユウマは言った。
ユナが箸を止める。
「俺、勝手に入った。あれに」
ユナは少しだけ目を細めた。
「勝手にじゃない。必要だった」
「でも――」
「でも、次は言って」
ユナはまっすぐ言った。
「一人で決めない。二人で決める。……それ、ここまでやってきたでしょ」
ユウマは頷いた。
言い返せない。というより、言い返したくない。
「わかった」
「よし」ユナはそれだけ言って、またスープを飲んだ。
隣でツバサが黙っていた。
黙っているくせに、指が刀の柄を握り直している。
「ツバサ」レンが呼ぶ。
「ん」
「焦るな」
「焦ってねぇし」
ツバサはすぐ言い返して、でも続ける言葉が出ない。
ユウマはツバサの横顔を見た。
強くなりたい。追いつきたい。
そう言っているように見えた。
その気持ちは分かる。
ツバサがぽつりと吐いた。
「……次、会ったら、絶対に置いてかれねぇ」
「置いてかれるとか、そういう話じゃない」ソウマが言う。
「わかってる。わかってるけど……ムカつくんだよ」
ツバサは笑った。昨日より硬い笑いだ。
ユウマの胸の奥が、少しだけ締まった。
――イツキも、こういう時、無理に笑ってた。
◇
夜。
宿を出て、町外れの小さな火を囲む。風よけの壁が低くて、火の熱がすぐ奪われる。
レンは薪を足しながら、ソウマにだけ聞こえる声で言った。
「書簡の件、まだ引っかかる」
「引っかかるのは分かる。だが、急ぐと見落とす」
「急がない。……ただ、逃がす気もない」
レンの声は低い。
感情を出しているわけじゃないのに、芯が硬い。
ユウマは火を見ながら、ふと思った。
世界がこちらを見る、という感覚。
それは怖いだけじゃない。
期待みたいなものも、混ざっている気がした。
最悪だ、とユウマは思った。自分が「選ばれてる」みたいな感覚に、少しでも慣れたくない。
ユナが、ユウマの隣に座り直す。肩が触れるか触れないかの距離。
「ねえ」
「ん」
「眠れなかったら言って。……話すだけでもいいから」
ユウマは、返事の代わりに頷いた。
その一瞬、喉の渇きが少しだけ引いた気がした。
火がぱち、と鳴る。
風が強くなって、炎が揺れて、影が長く伸びた。
遠くで、誰かが紙をめくる音がした――ような気がした。
もちろん、ここにそんなものはない。
それでもユウマは、背中が冷えた。
◇
「……ふふ、ふふふ……」
暗い部屋で、男が笑っていた。
紙の上に、細い線が増えていく。文字が増えるたび、笑いが弾む。
「いい……いい……。世界が、動く。動く……!
君は……“ただの駒”じゃない。……変数。変数だ」
ペン先が止まらない。
楽しくて仕方がないみたいに。
「北、かぁ……。いいねぇ。寒い場所は、壊れる音がよく響く」
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