第六話:リュミエードの恋人
海の匂いがした。
塩と、濡れた木と、魚の内臓を洗い流したあとの水の匂い。砂の国の乾いた風に慣れた鼻が、ひと呼吸ごとに別の世界へ引っ張られていく。
海と商人の国、リュミエードの朝は忙しい。
まだ陽が高くないのに、岸壁には荷車が並び、縄が鳴り、怒鳴り声と笑い声が混ざる。カモメの声がうるさくて、逆に人の声が紛れてしまうくらいだった。
ユウマたちはその流れの端を歩いていた。
レンが先を見て、ユイが荷の紐を直し、ソウマがぼんやりと人の動きを眺める。ツバサは、面白いものがないかと視線だけ忙しい。
その横を――この国の英雄ロイクとディアナが、当たり前のように腕を組んで歩いていた。
肩が触れる距離。歩幅が揃う距離。
それが“見せつけ”でも“誇示”でもなく、単に体温の置き場としてそこにある。
すれ違う港の人間は、ちらりと見て、終わり。
誰も口を挟まない。誰も笑わない。誰も気を遣わない。
ユウマは、そこで妙に足が止まりそうになった。
「……ああいうの、普通なのか」
声が思ったより小さく出て、自分でも驚いた。
隣にいたレンが、視線だけで答える。
「この町じゃ、そうなんだろ。珍しくない」
「へえ……」
ユウマは短く返して、それ以上の言葉を飲み込んだ。
胸の奥に引っかかるものがあるのに、形にしたくなかった。
ユナが、少し遅れて二人を見る。
視線はすぐに外した。だけど、外し方がぎこちなかった。
ツバサがニヤつく。
「なあ、あれさ、地味にすごくね? 自然すぎて逆に怖い」
「怖いって何だよ」
レンが呆れた声を出すと、ツバサは両手を上げて笑った。
「いや、だってさ。俺ら、ああいうの……“普通”って顔でできる?」
ソウマが、欠伸まじりに言う。
「できるできないの前に、やる必要がない」
「そこが一番かわいくないんだよなぁ」
ツバサがそう言っても、ソウマは何も気にしない。
ユウマは苦笑しかできなかった。
ロイクは、こっちの視線に気づいたのか、肩越しに振り向いて軽く手を振った。
「おはよう。こっちは朝が早いから、驚くだろ」
「慣れるまで落ち着かないね」
ディアナが笑う。
笑い方が、気負いがない。目だけじゃなく頬まで動く笑い方だ。
「案内、頼んでもいいか?」
レンが用件を言うと、ロイクは頷いた。
「いいよ。市場まで行こう。朝のうちに済ませた方が安い」
「交渉は、任せる」
ソウマがさらっと言う。ロイクは笑って、「任せろ」と返した。
それを聞いたディアナが、ロイクの腕に少しだけ力を入れる。
ほんの一瞬。気づく人だけが気づく程度の仕草。
ユウマは、それが妙に目に刺さった。
市場は賑やかだった。
布、香辛料、干し魚、果物、壺。人の肩がぶつかる。声を張り上げないと自分の値段も通らない。
ロイクは手際よく必要なものを揃えていく。
ディアナは値段を聞き、少し首を傾けて、売り手を笑わせながら一割を落とす。口調は軽いのに、やってることは確実だった。
「二人、息合ってるな」
ツバサが言うと、ディアナは肩をすくめた。
「長いからね。良いところも悪いところも、だいたい知ってる」
「悪いところって?」
ユナが少し興味を見せる。ディアナは即答した。
「ロイクは、抱え込む」
「ちょ、待て、今ここで言う?」
ロイクが慌てる。周りの雑音に紛れて、恥ずかしさだけが妙に鮮明だった。
ディアナは笑って、今度はユナを見る。
「あなたたちも、たぶんそういうのあるでしょ。強い人ほど、自分で背負う癖がある」
ユナが言葉に詰まる。
ユウマも黙った。
ロイクが照れ隠しのように言う。
「……まあ、昔はもっとひどかった。金も未来もなかったから」
その言い方が、冗談みたいで、冗談じゃない。
場の空気が、少しだけ落ち着く。
「聞いてもいい?」
ユイが、静かに言った。
ロイクは少し考えてから頷いた。
「船の事故があったんだ。漁師船でな。俺が無理をして、嵐の前に出た」
「……」
「船は戻ったけど、人は戻らなかった。借金が残った。俺のせいで、色んなものが壊れた」
ロイクの声は淡々としている。
淡々としているのに、そこに置かれている重さだけは誤魔化せない。
ディアナが、指先でロイクの袖をつまむ。
引っ張りはしない。ただ、そこにいると伝えるみたいに。
「その時、周りの連中がさ。『お前は別れろ』『一緒にいたら沈む』って、ディアナに言ったんだ」
ロイクが言って、笑おうとして失敗する。
ディアナが代わりに、さらっと言った。
「で、私が言ったの」
ディアナは、息を整えるみたいに一瞬だけ目を伏せて、顔を上げる。
声は強くない。むしろ普通の声だった。
「――あんたがダメな時に そばにいないなら、 いい時に一緒にいる資格もないでしょ」
その一言で、周りの音が一拍遅れて聞こえた気がした。
ツバサが、口を開けたまま固まっている。
レンは目を細めて、どこか遠いものを見る顔になる。
ユイは小さく笑って、それからすぐに黙った。
ユナが、ゆっくり息を吐く。
「……それ、言えるの、すごい」
「すごくないよ」
ディアナは肩をすくめる。
「怖かったし、悩んだし、泣いた。普通に。
でも、そこで離れたら――たぶん、私は一生、ロイクの“いい時”だけを横から眺める人になる。それは嫌だった」
ロイクが、観念したみたいに笑った。
「俺は、そこで逃げ道が消えた。
だから、働いた。謝った。返した。……今も返してる」
「ちょっと待って、まだ返してんの!?」
ツバサが思わず突っ込むと、ロイクが手を振った。
「金だけじゃない。信用とか、町の目とか、色々だ」
「町の目は、今は味方みたいだけどな」
レンが言うと、ロイクは頷いた。
「時間がかかった。だけど、二人でやった」
その言葉が、やけに真っ直ぐだった。
宿へ戻る道で、ユウマは足元ばかり見て歩いた。
石畳の隙間に砂が入り、潮で黒ずんだ跡がある。そんなものを眺めて、考えないふりをする。
守る。
巻き込みたくない。
危ないから下がれ。俺がやる。
それが正しいと、ずっと思っていた。
そうしないと、失うから。失ったら終わりだから。
でも――
(守る側であろうとしてた、って……)
言い訳に似ている。
実際は、怖くて、隣に立たせられなかっただけじゃないのか。
隣に立たせたら、傷つく。
傷ついたら、自分が耐えられない。
だから先に線を引く。距離を作る。
(……それ、守ってるんじゃなくて、逃げてるだけだ)
気づいた途端、喉が渇いた。
水を飲んでも、まだ渇く。胸の中が乾く。
ユウマは立ち止まり、波止場の方を見る。
海は遠くない。月の光が、揺れている。
「ユウマ」
ユナが、少し遅れて追いついた。
名前の呼び方が、いつもより柔らかい。
「……さっきの話、どう思った?」
ユウマは即答できなかった。
言えば、どこかが崩れる気がした。
「羨ましい、って思った」
絞り出すみたいに言うと、ユナは驚いた顔をした。
すぐに、少し困ったように笑う。
「羨ましい、か」
「……俺たちは、いつも、並び方が変だ」
ユナが黙る。
否定もしない。
「前に出て、後ろに下がらせて。
それで“守ってる”って顔をして……結局、俺が怖いだけだった」
ユナは、ゆっくり首を振った。
「怖いのは、私も同じ。
でも、怖いからって、離れたままだと……ずっと怖いままになる」
言い切り方が強くなくて、逆に刺さる。
「私、戦えって言いたいんじゃないよ。
ただ……話してほしい。勝手に決めないで」
ユウマは、しばらく黙っていた。
言葉を探すふりをして、実は、自分の弱さを見つめていた。
「……わかった」
短い返事だけで、精一杯だった。
ユナが、ユウマの袖をつまむ。
ディアナみたいに、引っ張らない。
ただ、「ここにいる」と伝えるみたいに。
「歩こう」
「ああ」
二人は宿へ戻る。
今までみたいに前後じゃなく、横に並んで。
少しだけ歩幅が合わない。
でも、合わせようとする気配がある。
その背中を、少し離れたところからレンが見ていた。
何も言わない。言う必要がない、という顔で。
港町の夜は、まだ騒がしい。
だけど、ユウマの胸の中は、さっきより少しだけ静かだった。
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