第三話:操られた英雄
朝のアルキュオンは、音が少ない。
朝餉の匂いも、客引きの声も、どこか“整えられて”いる。
窓の外には、塔が並んでいた。
空が塔に切り分けられて、太陽の光さえ規格に合わせて落ちてくるように見える。
ユイは白紗を整えながら、息を整えた。
この国の空気は乾いている。乾いているのに、肌の奥に湿りがまとわりつく。
――祈りの流れが、綺麗すぎる。
「……ユイ」
背後から声がした。
振り向くと、ソウマが入口に立っていた。
彼はいつも通り表情が薄い。だが、その薄さが「今は余計な感情を置いてきた」ことを示している。
「戻ったのね」
「ああ。市場と交代の動線、見てきた」
ソウマは部屋の隅に立ったまま、視線だけで窓を指した。塔の方角。
「この国、噂が回らない」
ユナが小さく首を傾げる。
「噂って……無い方がいいんじゃない?」
「“無い”なら自然だ。でもこれは違う。“潰してる”」
ソウマは言い切った。
「店主が口を滑らせそうになると、必ず隣の客が咳払いをする。偶然じゃない。回数が揃いすぎてる」
ツバサが鼻で笑った。
「咳払いくらい、たまたまだろ」
「たまたまなら、帳簿が綺麗すぎる説明がつかない」
ソウマは宿で借りた小さな帳面を開いて見せた。
市場で写してきた取引記録の走り書き――だが、そこに揺れがない。
「誤字がない。言い淀みの痕跡がない。値切りの痕もない。生活の手触りが削れてる。……人が暮らしてる数字じゃない」
ユイは、そこで初めてソウマの背後にあるものを見た。
彼の観察は、嘘をつかない。
そして、嘘をつかない観察ほど、人を怖がらせる。
「祈りの流れも同じよ」
ユイは窓の外を見たまま言った。
「川はね、綺麗すぎると“何かを流している”ことがある。ここは……祈りが、均一すぎる」
レンが短く息を吐いた。
「つまり、国ごと何かに支配されている可能性がある」
「可能性、じゃないかもしれない」
ユイは言った。声は柔らかいまま、芯だけを硬くする。
「私、書塔の近くに行きたい。あの均一さの中心を見れば、正体に近づける」
レンの目が鋭くなる。
「一人で行動はするな」
「……でも、近づかないと分からない」
ユイはレンの視線を受け止め、わずかに首を傾げた。
「レン、あなたは“戦い”が得意。私は“見つける”のが得意。ソウマは“読み解く”のが得意。役割を使い分けましょう」
ソウマが小さく頷く。
「俺は宿の外で、もう一度交代線を見ておく。……夕刻までなら、塔の周りの目も薄い」
ユナが不安げにユイを見る。
「ユイ、一人は……」
「一人じゃないわ。祈りを置いていく。鈴もある」
ユイは白紗の内側から小さな鈴を見せた。
――鳴らせば、祈りの膜が張れる。追い込まれた時のための護り。
レンは沈黙したまま、数秒、考えた。
「……夕刻までに戻れ。遅れたら迎えに行く。合図を決めろ」
「鈴を二回。聞こえなかったら、私がまずい状況って事ね」
ユイは淡く笑った。
笑うことで、場の温度を保つ。祈祷師の癖だ。
「行ってくる」
書塔の近くは、温度が違った。
冷たいのではなく、乾いている。
肌が紙に擦れるような感覚で、呼吸のたびに肺の奥が乾く。
塔の影に入った瞬間、視線が寄った。
通りを歩く人々の目が、同じ速度でユイを追う。
興味はある。けれど、熱がない。
観察して、すぐに逸らす――その動作まで似通っている。
ユイは足を止めずに歩き、石壁の古い紋様へ近づいた。
指先で、刻みの深さをなぞる。
祈りの糸が地下で流れている。
綺麗に、まっすぐに、均一に。
……不自然だ。人の祈りは、もっと歪む。
願いは揺れ、迷いは濁り、恐れは尖る。
それがないのは、祈っていないのと同じ。
「……ユナ」
背後から、声がした。
ユイの指が止まる。
呼ばれた名前は、ユイではない。ユナだ。
ゆっくり振り返ると、衛兵が二人立っていた。
装備は軽い。だが立ち方が戦場のそれで、距離の詰め方に迷いがない。
「私はユイよ。ユナでは――」
「ユナ」
衛兵は、同じ調子で繰り返した。
訂正が届かない。届く必要がない顔。
「評議会より。確認」
「確認、って……」
ユイは一歩退いた。
その瞬間、二人が同時に距離を詰めた。
速い。無駄がない。
そして――殺気がない。
“連れていく”動きだけがある。
人を攫う動きなのに、感情が見えない。そこが一番怖い。
ユイは白紗の内側から鈴を出し、指で鳴らした。
――チン。
澄んだ音が一つ。
薄い膜が空気に張られる。視界には見えないが、確かにそこに“境界”が生まれた。
「ここで話すわ。私は評議会と面識がない。手続きが必要でしょう」
「必要ない」
衛兵の片方が言い切った。
ユイは息を吸う。吐く息と一緒に祈りを落とす。
――浄化。
膜が僅かに膨らみ、二人の動きがほんの一瞬だけ鈍った。
“普通の人間”なら、その瞬間に顔が揺れる。驚きか、怒りか、困惑か。
しかし二人は違った。
目の焦点が、ぶれない。
「……処理」
衛兵が呟いた。
「……失敗」
その言葉が、背中へ冷たく落ちる。
報告。機械の報告。
――この人たちは、今ここに“いない”。
ユイは理解した。
操られている。どこかの意志が、身体を動かしている。
「ごめんなさい」
ユイは謝った。謝って、白紗を翻す。
浄化は人を壊すためのものじゃない。
けれど今は、道を作るために使う。
膜を床へ落とし、霧のように広げた。
濃くしない。視界を奪うほど濃くすると、相手が“異常”に気づき、対応を変える。
ただ、追うための情報を削る。
ユイは塔の影へ滑り込み、細い路地へ入った。
背後に足音。追ってくる。速い。
だが――呼吸が聞こえない。
追跡者のはずなのに、生き物の気配が薄い。
路地の角で、ユイは壁に手をつき、符を貼った。
祈りの糸を逆流させる。地下の均一な流れが、僅かに揺れた。
その揺れに反応して――頭上から、視線。
ユイは顔を上げた。
書塔の最上部。
窓の奥に、影が立っている。
人の形。だがそこから感じるのは“人”ではない。
そして影の隣に、もう一つ。
鎧姿の男。英雄級の装備。
なのに、立ち方が人形だった。
呼吸も、重心の揺れも、ない。
ユイの喉が、ひゅっと鳴る。
――英雄。操られた英雄。
理解した瞬間、足音が迫った。
ユイは視線を切り、路地を抜けた。
逃げるためじゃない。戻るためだ。
祈祷師は、一人で抱えない。
宿へ戻った時、ユイの白紗の裾が少し裂けていた。
頬に薄い擦り傷。手首が赤い。
先に気づいたのは、ユナだった。
「ユイ……それ、どうしたの」
「大丈夫よ。転んだだけ……と言いたいところだけど、嘘になるわね」
ユイは椅子に腰を下ろし、息を整えた。
そして、淡々と告げる。
「攫われそうになったの。……『ユナ』って呼ばれた。訂正しても、聞かなかった」
ユウマの目が細くなる。掌を握り込むのが見えた。
怒りが出る前に、抑えている。
「誰が」
「衛兵。……でも衛兵じゃない。中身が違う」
レンが一歩前に出る。
「操りか」
「たぶん。浄化を当てても、感情が揺れないの。倒れた人が、こう言った」
ユイは言葉を丁寧に拾った。
「『処理、失敗』って」
ツバサが笑おうとして失敗した。
「……人間の言い方じゃねぇ」
そこで、ソウマが一歩前に出た。
彼はユイの裂けた白紗と赤い手首を見て、視線を上げた。
「“取り違え”じゃない」
全員がソウマを見る。
「ユナって呼称は、確認用のラベルだ。本人かどうかを確かめるためじゃない。……“対象を動かすため”の呼び名」
ユナが顔を強張らせる。
「……私が、対象?」
「違う。今は“ユウマの隣にいる女”が対象になってる可能性が高い。名前は道具だ。……この国は名前を人として扱ってない」
ユイが静かに頷く。
さっき感じた“紙の乾き”が、言葉になって落ちた気がした。
ソウマは続ける。
「俺が先に、誰が名前を使って動かしてるか掘るべきだった。……遅れた」
自責。
誰かを責めない代わりに、自分を責める種類の男だ。
「次は俺が前に出る。ユイ、単独は無し。……嫌でも守る」
ユイは笑った。小さく。
「守る、じゃなくて“気づく”でしょ。あなたはそっちが得意よ、ソウマ」
ソウマは返事をしなかった。
代わりに、テーブルの上に簡単な線を引く。
宿から書塔までの道、角、見張りの位置。交代の時間。
「今夜、動くならここだ。交代の隙が一分ある。そこだけ“人の動き”になる。そこを使う」
レンが言う。
「俺が先頭に立つ」
「レンは前。ユウマは中。ユナはユウマの隣。ツバサは後ろ。ユイは最後尾じゃない。中だ」
ソウマの指が動く。
配置は短い。だが、守るべきものと目的がはっきりしていた。
ユウマは、黙ってその線を見ていた。
そしてふいに、掌を握り直す。
――熱い。
昨夜の夢の熱が、今も残っている。
それが、今夜の動きに反応している気がした。
ユイは、その仕草を見た。
気づいた。だが、言わない。
今言えば、ユウマは一人で抱えようとする。
言えば、彼は優しさのふりをした無茶をする。
だから、ユイはただ、白紗を整えて言った。
「書塔の最上部に、英雄がいた。生気がなかった。……あれは守ってるんじゃない。“置かれてる”」
レンの目が鋭くなる。
「操られた英雄……」
「それだけじゃない」
ユイは窓の外を見た。
塔の最上部。あの影。
「見ているものが、いる。人の目じゃない」
沈黙が落ちた。
外は静かだった。静かすぎる。
その静けさの中で――
ユウマの掌の熱が、ほんの僅かに強くなる。
夢の女の声が、耳の奥で蘇った。
――近づけば、体が先に知る。
ユウマは何も言わずに拳を握り込んだ。
ユナがその袖を掴む。恋人の距離で、しかし甘さではなく“止めるため”に。
ユウマは一度だけ、ユナの手を包み返す。
「……今夜、行く」
短い声。
逃げない声。
ソウマが頷いた。
「行く。今度は、連れ去らせない」
そして、塔の方角から――
紙を裂くような風が、ひとつ吹いた。
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