英雄編 第一話:告白
今日から英雄編の始まりです。
アシハラの朝は、静かだった。
静かすぎて――自分の呼吸だけが、ひどく大きい。
篠原ユウマは、井戸端の水面に映った自分の顔を見て、わずかに眉を寄せた。
何も変わらない。角も生えていない。目が濁ってもいない。禍鬼のような臭いもしない。
それでも、胸の奥にだけ“違う”が残っている。
噛まれても禍人にならない。その事実は、救いではなく、未だに呪いのようだった。
背後で足音がした。
「ユウマ」
振り向くと、ユナが立っていた。
手には、干し肉と乾パンを包んだ布。旅支度の匂いがした。
「……寝てないでしょ」
「寝たよ」
嘘だった。ユナはその嘘を責めない。
責めない代わりに、目だけで全部を言う。――心配だ、と。
ユウマは布包みを受け取る指に、力が入った。
何か言うべき言葉が喉まで来て、そこに引っかかった。
ユナを、巻き込みたくない。
危険に、近づけたくない。
その思いはずっと正しいと信じてきた。
だが――それは、卑怯でもある。
ユウマは、空を見た。
雲が薄い。旅日和だ。こんな日に、逃げるようなことはしたくなかった。
「ユナ」
名を呼んだだけで、ユナの肩が僅かに跳ねた。
分かっている。今の声には“いつもと違う”が混ざっている。
ユウマは息を吸って、吐いた。
「……俺さ」
言いかけて、止めるのは簡単だ。
今までずっと、それでやってきた。
危険なことは自分の中に隠して、笑って、前へ進む。
でも、それは――隣を歩く人間を置き去りにする。
ユウマは、視線を戻した。ユナの目を、真正面から見た。
「守るから来い、って言うつもりはない」
ユナの眉が僅かに動く。驚きと、警戒と、期待。
全部が混ざった表情だった。
「俺の……隣にいてほしい」
言葉が落ちた瞬間、空気が薄くなった気がした。
言ってしまった、ではない。
ようやく言えた、だ。
ユウマは続ける。逃げ道を作らないように、慎重に。
「だけど、選ぶのはユナだ。俺の都合で決めない。……置いていくのも、連れていくのも、俺が勝手に決めたくない」
しばらく、ユナは黙っていた。
その沈黙が長いのか短いのか、ユウマには分からなかった。
ただ、指先だけが冷えた。
やがてユナが、息を吐いて笑った。
笑い方が、少し泣きそうだった。
「……最初から決まってたよ」
ユウマの胸の奥で、張り詰めていた糸がほどける。
「私、隣にいる。恋人って言われても、平気。怖いのは……ユウマが一人でどこかへ行っちゃうこと」
ユウマは、言葉を失った。
言い返すべき強がりも、誤魔化しも、出てこなかった。
代わりに、ただ、頷いた。
「……一人で決めない」
「うん」
二人の間に、約束が落ちた。
それは鎖ではなく、道だった。
出発の時間が来る。
馬車の荷台に荷物を積む音が、村の静けさを破っていく。
レンは遠巻きに見ていた。からかいもしない。
ユイも同じだ。誰も、踏み込まない。
――この場面を、ただ見届ける。
ユウマは馬車に乗り込み、ユナに手を差し出した。
ユナはその手を取る。迷いがない。
国境へ向かう道が、伸びている。
次の目的地は、書塔自治国アルキュオン。
馬車が動き出す。
車輪の音が、ゆっくりと村の外へ流れていった。
ユウマは横にいるユナを見て、目を細める。
世界はまだ、優しくない。
でも――隣が空じゃないだけで、少しだけ息ができた。
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