第8話 噛み跡と赤い目
翌日。
四人は、街道から少し外れた小さな森の手前に立っていた。
近くの宿場で仕入れた噂によれば――
この森には、隊商を狙う小型の禍鬼が一体、しつこく出没しているという。
レンは腰の剣に手を添えたまま、簡潔に告げた。
「ここでやる」
イツキが、ごくりと喉を鳴らす。
「マジで、やるんだな……禍人の検証」
「今さらやめるのか?」
レンは横目でイツキを見る。
「やめてもいい。これは、ユウマの体を張る検証だ。
嫌なら、今ここで――」
「やるよ」
遮ったのは、ユウマの声だった。
ユナがびくりと肩を震わせ、即座に振り向く。
「ユウマ、本気で言ってるの? 昨日だってあんな話したばっかりなのに……!」
「本気だよ」
ユウマは、あえて笑ってみせた。
「分からないまま進む方が、怖いからさ。
俺がいつ禍鬼になるか分からない爆弾のまま隣にいる方が、嫌だろ?」
「そんなふうに思ったことない!」
ユナは即答した。
その速さに、ユウマは一瞬だけ言葉を失う。
「……でも、もしもの時は」
レンが言葉を継いだ。
「俺が斬る」
昨日と同じ内容の宣言。それでも、何度聞いても重い。
「だからこそ、今日ここでやる。
俺が斬れる距離で、俺の目で見て判断できる場所でな」
イツキは唇を噛み、拳を握る。
(結局、俺の『二回目どうなんだろうな』なんて一言が、ここまで話を転がしたんだよな……)
罪悪感は消えない。
それでも、「やめよう」とは言えなかった。
止めた瞬間、ユウマの決意を否定してしまう気がしたからだ。
レンは森の中を指さした。
「作戦を確認する。
まず俺とイツキが禍鬼を引きつける。ユウマは、合図を出したタイミングで前に出て、右腕を噛ませる。
ユナは後方から、結界札と回復の準備――絶対に前には出るな」
「……はい」
しぶしぶ頷いたユナの顔は、明らかに青い。
彼女の脳裏には、燃える家と、禍鬼の牙と、血まみれになって倒れた両親の姿が、昨日からずっと焼き付いたままだった。
(また……また誰かが、目の前で噛まれて、死ぬかもしれないなんて……)
そう思うだけで、胃の奥がひっくり返りそうになる。
ユウマはそんなユナの様子を横目で見ながら、自分の右肩をさすった。
禍鬼に噛まれた痕は、まだ赤黒く残っている。
そこを中心に、じんじんとした違和感が、微かにうごめいていた。
(昨日、レンさんに言ったんだ。
“もし本当に禍鬼になったら、その時は斬ってくれ”って)
口にした覚悟は、本物だ。
それでも――怖くないわけがない。
「……行くか」
レンの一言で、四人は森の中へと足を踏み入れた。
◆ ◆ ◆
森は、昼間だというのに薄暗かった。
日差しを遮る枝葉の間から、ところどころだけ光が差し込んでいる。
湿った土の匂いに、ほんの少しだけ腐臭が混じる。
ユウマは足を止めた。
(……近い)
言葉にしようのない「嫌な気配」が、肌を撫でる。
背中を、冷たい指でなぞられたような感覚。
前世には存在しなかった、禍鬼特有の匂い。
「レンさん」
「ああ、分かっている」
レンもすでに気付いているのか、わずかに顎をしゃくった。
「この先、小さな開けた場所がある。そこで待とう」
やがて、木々が途切れ、小さな空き地が現れた。
荒れた荷車の残骸がひとつ、朽ちたまま転がっている。
「ここか……」
イツキが短剣を抜き、目を細める。
「ユウマ、お前はあそこの岩に背をつけろ。逃げ道を潰されない位置だ」
レンの指示通り、ユウマは苔むした岩場を背にして立つ。
ユナはその後ろで、札束を握りしめていた。
「ユナ、絶対に前には出るなよ?」
「出ない」
即答した声には、怒りと恐怖が混じっている。
レンとイツキが前に出た瞬間――
空気が、ねじれた。
木陰から、どす黒い影が飛び出してくる。
人型ではあるが、腕は異様に長く、指先は鉤爪のように伸びていた。
皮膚は腐りかけた肉のように裂け、そこから黒い霧が漏れ出している。
「禍鬼……!」
ユナが息を呑む。
禍鬼は、まずレンに飛びかかった。
しかし、その一撃は鋼のような剣にあっさりといなされる。
金属が空気を裂く音。
禍鬼の腕が、浅く切り裂かれて黒い霧を撒き散らす。
「軽いな」
レンが呟く。
「預かっている話よりも、少し小さい」
「それ、全然安心できないんですけど!」
イツキが禍鬼の横から斬りかかり、注意を引きつける。
派手な動きで、禍鬼の視線を自分に集中させるのも役目の一つだ。
ユウマは岩の前で、右腕をまくり上げた。
(ここで、噛ませる)
心臓が、やたらと早くなる。
足先が冷え、手のひらは汗で湿っていた。
そのとき――ユナの声が飛ぶ。
「ユウマ、やっぱりやめ――」
言葉の途中で、禍鬼が跳んだ。
レンとイツキの間をすり抜け、一直線にユウマへ。
「来たぞ、構えろ!」
レンの声が響く。
ユウマは歯を食いしばり、右腕を前に出した。
(来い……!)
牙が、迫る。
その瞬間――
「やめて!!」
ユナが飛び出した。
自分でも、なぜ体が動いたのか分からない。
ただ、両親が禍鬼の牙に喰われた光景がフラッシュバックし、「もう二度と同じものを見たくない」 と思った瞬間には、足が勝手に前へ出ていた。
「ユナ!」
牙の進路上に飛び込んでしまったユナの背中が、ユウマの視界を塞ぐ。
禍鬼の口が、彼女の肩へと――
(……ふざけるな)
時間が、伸びたように感じた。
ユウマの頭の中で、言葉にならない叫びが渦を巻く。
(こんなことで、大切な友達を失ってたまるか!!)
その瞬間、右肩の噛み跡が焼け付くように熱を帯びた。
「っ……!」
皮膚の下で、何かが暴れる。
血管が逆流し、骨が軋み、筋肉が裂けては繋がる。
視界の色が、赤く染まった。
ユウマは、ほとんど反射でユナの腰を掴み、横へ引き倒した。
同時に、自分の左腕を禍鬼の口の前に突き出す。
肉を裂く音。
骨に当たる鈍い衝撃。
「っぎ……ぁあああああッ!!」
ユウマの悲鳴が森に響いた。
禍鬼の牙が、左腕に深々と食い込む。
噛み跡から、黒い何かが血管に逆流していくのが分かった。
右肩の痕が、じわじわと広がっていく。
まるで、皮膚の下に黒い痣が樹の根のように伸びていくかのように。
「ユウマ!? ユウマ!!」
ユナの声が遠い。
世界の輪郭が、やけに鮮明になった。
禍鬼の動きが、ゆっくり見える。
レンの刀が、空気を切り裂きながら近づいてくる軌跡までも。
ユウマは、自分の両目に走る熱を感じた。
燃えるような痛み。
次の瞬間、瞼の裏まで赤く染まる。
「……っ!」
レンが、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
振り向いた先で――
ユウマの瞳は、禍鬼と同じように真っ赤に光っていた。
「禍鬼化――」
反射よりも早く、レンの体が動く。
禍鬼の頭上を踏み台にして跳び上がり、その勢いのままユウマの首筋を狙って剣を振り下ろした。
イツキとユナの悲鳴が重なる。
「レンさん!!」
「待っ――!」
ユウマの体が、勝手に動いた。
思考より先に、筋肉が反応する。
青い稲妻のような速度で上体をひねり、地面を蹴った。
剣先が、頬の皮膚を紙一枚分だけかすめて通り過ぎる。
「……っぶな!」
足を滑らせながらも、ユウマは辛うじて距離を取った。
禍鬼の牙は、彼の腕から引き剥がされる。
レンは、あり得ないものを見たような顔で剣を構え直す。
「今のを……避けた?」
自分でも信じられない。
ユウマは左腕から噴き出す血を押さえながら、荒い息のまま叫んだ。
「レンさん! 待って、斬らないで!」
声の調子は、いつものユウマのものだった。
「意識ははっきりしてる! 禍鬼にはなってない!
俺は、まだ俺だ!!」
イツキが慌てて割って入る。
「レンさん、ちょっと待ってやってください!
目はヤバいですけど、喋り方は完全にユウマです!」
「目がヤバいとはなんだ目がヤバいとは!」
思わずツッコんだ自分に、ユウマは内心で驚く。
激痛と異常な力のせいで、テンションがおかしくなっているのかもしれない。
禍鬼が、再び唸り声を上げた。
状況を理解していないのは、あの化け物だけだ。
「とりあえず、それは後回しだ!」
レンが決断する。
「ユウマ、このまま動けるか!」
「……やれと言われたら、やる!」
本当は立っているのもやっとだった。
それでも、体の奥から溢れ出る力が、痛みを上書きしていた。
禍鬼が再び突進してくる。
今度は、遅く見えた。
ユウマは左腕の痛みを無視して一歩踏み込み、腰を落とす。
レンの剣筋を何度も見てきたおかげか、自然と体が似たような動きを選んだ。
「……はっ!」
禍鬼の懐に潜り込み、顎を蹴り上げる。
骨が砕ける嫌な感触。
そのまま背中側に回り込み、レンの斬撃へと追い込む。
「そこだ!」
レンの刀が、禍鬼の首を半ばまで断ち切った。
黒い霧と濃い血が吹き上がる。
禍鬼は最後に一度痙攣し、その場に崩れ落ちた。
ユウマは、ふらりと後ずさる。
「っ、はぁ……は、はァ……!」
肺が燃える。
心臓が爆発しそうなほど暴れる。
視界の赤が、少しずつ薄れていく。
代わりに、右肩と左腕に、さっきまでの数倍の激痛が押し寄せてきた。
「ユウマ!」
ユナが駆け寄ろうとする。
「来るな!」
思わず叫んだ声が、自分のものとは思えないほど荒かった。
「今、近づいたら……巻き込むかも、しれない……!」
膝から力が抜ける。
ユウマはその場に崩れ落ちた。
痣が、右肩から胸の方へと広がっていくのが分かる。
血管が焼け焦げるような痛み。
まるで、体の中で何かが暴れまくったあと、強制的に押し込められていくような感覚だった。
「ユウマ!? ユウマ!!」
ユナが泣きそうな声で名前を呼ぶ。
イツキも横で、どうしていいか分からないといった顔で手を伸ばしたり引っ込めたりしている。
レンは、少し離れた場所からユウマを観察していた。
(目の赤は、徐々に引いている。
痣は残るが……禍鬼のような黒化ではない)
やがて、ユウマの瞳は元の色に戻った。
代わりに、全身の筋肉から力が抜ける。
「……動け、ねぇ……」
地面に倒れ込んだまま、指一本動かせない。
呼吸だけは辛うじてできるが、それだけだ。
「レンさん……これ、大丈夫なんですか」
「今は安静にさせるしかない」
レンは短く答え、ユナに視線を向けた。
「ユナ。痛みを和らげる札を」
「は、はい!」
慌てて袋から札を取り出し、ユウマの体の周囲に並べていく。
柔らかな光が、ほんの少しだけ痛みを和らげた。
それでも、ユウマはしばらくの間、地面に貼り付いたまま動けなかった。
◆ ◆ ◆
どれくらい時間が経ったのか、ユウマにはよく分からなかった。
体感では永遠にも、一瞬にも思える時間のあと――
ようやく指先に、わずかな力が戻ってくる。
「……あ、動く……」
ゆっくりと上体を起こすと、三人の視線が一斉に集まった。
「ユウマ!」
「お前、本当に大丈夫か!?」
「勝手に起きるな。まずは自分の体の状態を確認しろ」
質問が一度に飛んでくる。
ユウマは苦笑を浮かべながら、自分の体を見下ろした。
左腕の傷は、まだ生々しいが、ユナの札のおかげで血は止まっている。
右肩の痣は、もとの噛み跡を中心に、手のひら大ほどに広がっていた。
「……なんか、派手なアザになってるな」
「さっきまではもっと黒かった。今はだいぶ薄くなっている」
レンが冷静に説明する。
「目も今は元に戻っている。意識もはっきりしているようだな」
「うん。夢じゃないなら、全部覚えてる」
ユウマは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「噛まれた瞬間、右肩の痕が焼け付くみたいに熱くなって……
体の中で何かが暴れ出して、視界が赤くなって。
でも、自分が自分じゃない感じは、一切なかった」
ユナがそっと尋ねる。
「怖く……なかったの?」
「怖かったよ」
ユウマは即答した。
「でも、それよりも――ユナが噛まれそうだったのが、もっと怖かった」
その言葉に、ユナは顔を赤くして俯いた。
「……ありがとう」
小さく絞り出された声は、かすかに震えていた。
イツキが、場の空気を変えようとわざとらしく手を叩く。
「とりあえずだ。
さっきのお前、マジで引くくらい速かったぞ?」
「褒め言葉として受け取っておく」
「禍鬼に噛まれた瞬間、目が真っ赤になってさ。
あのまま噛まれ続けてたら、全身真っ赤になって“熟れたトマト禍鬼”みたいになってたんじゃねーの?」
「やめろ不吉な想像をするな」
ユウマが即座にツッコむ。
レンは少し考え込んでから、まとめに入った。
「今のところ分かったことは、一つ」
彼は、禍鬼の死骸を一瞥する。
「禍人は、二度噛まれても即座に禍鬼にはならない。
その代わり、短時間だけ身体能力が飛躍的に上がり、その反動で一分前後まったく動けなくなる」
「……オーバードライブ、みたいなものか」
ユウマが呟く。
前の世界で見たゲーム用語が頭をよぎる。
「ただし、発動条件はまだ分からない。
現時点では“禍鬼に噛まれる”ことが引き金になっているように見えるが……」
「そこは、今後さらに検証が必要だな」
レンはそう締めくくった。
(噛まれたから、ああなった――今はそういうことにしておく)
そう思いながらも、彼の胸には別の疑念も残っていた。
ユウマが禍鬼に噛まれるより、ほんの一瞬だけ早く――
彼の瞳の奥に燃え上がった、強烈な“何か”を、レンは見逃していない。
◆ ◆ ◆
その夜。
森を少し離れた丘の上で、四人は野営をしていた。
月は丸く、雲一つない。
焚き火の火は小さく抑えられ、周囲は静かだった。
ユナとイツキはすでに寝息を立てている。
レンも目を閉じ、浅い眠りに落ちているようだった。
ユウマひとりだけが、仰向けになって空を見上げていた。
(……すごかったな、あの力)
思い出すだけで、体がぞわりとする。
禍鬼の動きが、まるでスローモーションのように見えた。
レンの太刀筋を、避けられるほどの反応速度。
筋肉が、自分の意思より先に動いていた感覚。
(あれだけ動ければ……多分、戦力になれる)
今までは守られる側だった。
村でも、禍鬼の夜でも、ただ必死にしがみついているだけだった自分が――
(あの力を使いこなせれば、誰も失わずに済むかもしれない)
心臓が、静かに早くなる。
(でも、あの痛みは……)
右肩の痣が、じんと疼いた気がした。
全身の骨が軋み、筋肉が裂けるような感覚。
そして、その後に襲ってくる、全身の脱力と虚脱。
(できれば、二度とやりたくない)
本音だ。
あんな激痛と、動けなくなるリスクを抱えたまま戦うのは、怖い。
(でも――)
ユナが禍鬼に噛まれかけた瞬間のことを思い出す。
あのとき、頭の中で何度も繰り返した言葉。
(失うのは、もう絶対に嫌だ)
両親を喪ったユナ。
村を喪ったイツキ。
前の世界で、全てを奪われた自分。
せっかく手に入れた「今」を、また理不尽で失いたくなかった。
(俺が弱いままだったら、きっとまた誰かを失う)
胸の奥が熱くなる。
その感情が、右肩の痣に向かって流れ込んでいくのが分かった。
「――っ!」
次の瞬間、痣が灼け石のように熱を持った。
「う、わッ……ああああああああッ!!」
思わず、叫び声が漏れる。
全身が跳ね起きた。
視界が赤に染まり、血管が爆ぜるような痛みが走る。
禍鬼の気配は、ない。
噛まれたわけでもない。
それでも――あのときと同じ「禍人化」が、勝手に発動していた。
「ユウマ!?」
「何だ今の叫び声!」
飛び起きたイツキが短剣を抜き、周囲を見回す。
レンも即座に剣を掴み、辺りの気配を探る。
「禍鬼……の気配はない。今の声はユウマだな?」
ユナも寝袋から飛び出し、ユウマのもとへ駆け寄る。
「ユウマ!? どこか噛まれたの!? 傷は――」
「ち、違っ……」
ユウマは、必死に言葉を紡いだ。
「禍鬼は……いない。噛まれても、いない。
さっきみたいな、気配も……何も……」
「なのに、その目と痣か」
レンが低く言う。
ユウマの目は、再び赤く光っていた。
右肩の痣も、先ほど以上に濃くなっている。
ただ、さっきと決定的に違うのは――
周囲に禍鬼の死臭が一切ないことだった。
「落ち着いて、深呼吸しろ」
「っ……はぁ……はっ……!」
ユウマは、なんとか呼吸を整えようとする。
右肩から胸へと広がる熱に、必死で耐えながら。
やがて、少しずつ赤みが引いていく。
痣も、じわじわと色を薄めていった。
さっきよりも、体の痛みはわずかにマシだ。
代わりに、ものすごい疲労感が押し寄せてきた。
ユウマはその場にへたり込み、額の汗を拭った。
「……ごめん。起こした」
「謝る前に説明しろ」
レンが、焚き火の側に刀を置きながら言う。
「何が起きた」
「……考え事してて」
ユウマは、ゆっくりと話し始めた。
「あの力のことを、どうするか。
あれがあれば、きっと戦力になれる。誰も失わずに済むかもしれないって。
でも痛みもリスクもデカすぎて、怖いって」
言葉を探しながら続ける。
「それでも、“もう誰も失いたくない”って、強く思った瞬間……
勝手に、あの状態になった」
三人が黙り込む。
最初に口を開いたのは、イツキだった。
「……ってことはさ」
彼は頭をかきながら、わざと軽い口調を装う。
「禍鬼に噛まれたから、ああなったってわけじゃなくて。
“誰かを失いたくない”って本気で思うと、あの禍人モードになるってことか?」
「禍人モードって名前やめろ」
ユウマが即座にツッコむ。
「でも、たぶん……そんな感じなんだと思う」
ユナが複雑そうに眉を寄せた。
「それ、本当に大丈夫なの……?
だって、“誰かを失いたくない”って、たぶん何度でも思っちゃうよ。
そのたびにあの状態になって、体ボロボロになったりしない?」
「そこは、使い方次第だな」
レンが静かに言う。
「少なくとも今分かったのは、禍人化の引き金が“禍鬼に噛まれること”だけじゃないということだ。
強い感情――特に『誰かを守りたい』『失いたくない』という方向性の感情が、条件になっている可能性が高い」
イツキは腕を組んで、しばらく唸ったあと。
「……お前さ」
ぽつりと言った。
「実は結構、情緒不安定なんだな」
「お前にだけは言われたくない」
即答したユウマの声に、三人の緊張が少しだけ緩む。
ユナが、くすっと笑った。
「でも、ちょっと分かるかも。
ユウマって、普段は諦めたみたいな顔してるくせに、変なところで頑固だし」
「変なところ、とは」
「“失いたくない”とか、“守りたい”とか、そういうのになると急に暴走しそう」
「否定できないのが余計に腹立つな……」
焚き火の火が、ぱちぱちと音を立てる。
ユウマは、改めて右肩の痣を見下ろした。
(俺の“弱さ”と、“守りたい”が、直結してるってことか)
その事実は、少しだけ恥ずかしくて、少しだけ心強かった。
レンは、火越しにユウマを見て小さく息を吐く。
(感情をトリガーにした出力。代償は激痛と一時的な機能停止。
扱いを誤れば、自滅にも他人の死にも直結する刃だ)
それでも――
彼は、この刃を完全に折ろうとは思わなかった。
(この先、もっと大きな“禍”に立ち向かうとき。
この感情が、こいつと俺たちを生かす場面もきっと来る)
「今日はもう寝ろ」
レンが立ち上がり、夜空を一瞥する。
「これ以上発動させたら、本当に体が壊れる」
「そうしてもらえると助かる……」
ユウマは寝袋に潜り込みながら、小さく笑った。
その笑いは、痛みと不安に満ちているのに――
どこか、少しだけ前向きでもあった。
月は相変わらず静かに輝いている。
禍人の赤い目も、今は閉じられていた。
ただ、その瞼の裏には――
「もう二度と失いたくない」という、どうしようもないほど人間くさい感情が、確かに燃え続けていた。
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