**第8章:逆命の代償**
竹村真一は一歩一歩、祭壇へと近づいていった。その中心にそびえる三層の石塔が、薄暗い光の中で徐々にその輪郭を現していく。塔の表面は黒い苔に覆われ、石壁には複雑で歪んだ文様が刻まれていた。それらの文様はまるで生き物のようにわずかに蠢き、青白い光を放っている。その光景だけで背筋が凍るような恐怖を感じさせた。
「……どう見てもヤバい場所だろ、ここ。」竹村真一は喉を鳴らしながら唾を飲み込み、心の中で自分を罵った。「何でこんな面倒事に首を突っ込んじまったんだよ……」
祭壇の中心には粗く削られた石の台座があり、その上に黒い陶器の壺が置かれていた。その壺の表面には無数のヒビが入り、そこから赤黒い光がじんわりと漏れていた。それはまるで、今にも爆発しそうな時限爆弾のようだった。
竹村真一は壺を睨みながら足を止めた。右手にはしっかりと逆命の符を握りしめ、何かあれば即座に逃げられるように身構えている。
「……なんだこれ、ただの壺じゃねえよな?」真一は低く呟きながら、額の冷や汗が頬を伝って滴り落ちるのを感じた。
その時、壺の中から低く掠れた声が響いた。
「来る者よ……運命を覆したいのか……?」
竹村真一は思わず後ずさりし、手の中の逆命の符を取り落としそうになった。周囲を見回したが、声の発生源が壺であることは間違いなかった。
「誰だ!?誰が喋ってやがる!」真一は声を震わせながら叫んだ。
壺から再び声が響いた。それは錆びた刃物で鉄を削るような、不快で耳障りな笑い声だった。
「私は祭壇の霊……人間よ、逆命の符を持ってここに来た以上、お前は代償を払わねばならない。その命、捧げる覚悟はあるか?」
竹村真一は符を握りしめ、歯を食いしばった。逃げ出したい気持ちを必死で押さえつけ、吠えるように返事をした。「また命かよ!お前らは命命うるせえんだよ!来いよ、でも下手な真似すんなよ!俺だってやられっぱなしじゃねえ!」
壺からは再び笑い声が漏れた。それはまるで彼の虚勢を楽しむかのようだった。
「人間よ、威勢は良い……だが、覚悟が本物か、試させてもらおう。」声が一転し、冷たく鋭いものに変わった。「その命気を火種として燃やせ……逆命の儀を始めるがいい。」
竹村真一は手の中の符を睨み、心臓がドクンドクンと大きく脈打つのを感じた。目の前の壺はただの置物ではない。何か恐ろしい力がそこに宿っていることを彼は直感的に理解していた。
「……頼むぞ、逆命の符。」真一はそう呟くと、意を決して石台の上に符を置いた。
符が石台に置かれると、紙そのものが暗赤色の炎に包まれた。その炎は生き物のように蠢き、細長い触手のような形を取りながら真一の右手に向かって伸びていった。
「うわああっ!!」
触手が真一の手に触れた瞬間、焼けるような激痛が全身を駆け抜けた。彼はその場に膝をつき、顔が蒼白になった。
赤い炎は真一の手から腕へ、そして全身の血管を駆け巡るように広がっていった。血液が燃え上がるような感覚に、彼は歯を食いしばりながら必死に意識を保とうとした。だが、頭の中には不気味な幻影が次々と浮かび上がる。
小さな少女が荒野の中で泣き崩れている。濃霧に包まれた静まり返った村。夜魄の空洞の笑い声が耳元で響き渡り、まるで自分を嘲笑っているようだった。
「……これ……なんなんだよ!」真一は声を振り絞ったが、視界がどんどん暗くなっていく。
その時、壺から再び声が響いた。
「人間よ……命気は符に満たされた……逆命、成る!」
突如、逆命の符から炎が噴き上がり、祭壇全体が赤い光に包まれた。その光はあまりにも眩しく、真一は目を開けていられなかった。
彼の体はついに耐えきれず、地面に倒れ込んだ。意識が遠のく中で、壺の中の笑い声が耳元で囁くように響いていた。
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**裂け目と狂気**
竹村真一は地面に横たわりながら、荒い息を繰り返していた。彼の右手からは鋭い痛みが走り、その手の平には逆命の呪印が深く刻まれていた。その印は灼熱のように熱く、血肉をじわじわと侵食しているようだった。
「……成功したってのかよ。」彼はかすれた声で呟いたが、目の前にある壺から再び声が響いた。
「逆命……成った。しかし、代償なくして運命を覆せるとでも思ったか?」
竹村真一は怒りに駆られ、よろよろと立ち上がった。「……代償だと?何を企んでやがる!」
壺の声は低く冷たい調子で続いた。「代償はすでにその身に刻まれている……凡人よ、逃れることはできぬ。」
その言葉を聞いた瞬間、竹村真一の怒りは爆発した。彼は右手を高く振り上げ、壺をめがけて全力で叩きつけた。
「黙れ!こんなもんぶっ壊してやる!!」
「バリンッ!」
壺は粉々に砕け散り、無数のひび割れがそこから周囲に広がった。その瞬間、強烈な悪臭が漂い、鼻をつくような腐敗臭が真一を襲った。
壺の破片の中から流れ出したのは、混じり合った汚泥のような液体と、それに包まれた黒い数珠で縛られた内臓の塊だった。その内臓は今も蠢き、生き物のように動いている。
「なんだこれ……気持ち悪すぎだろ……」真一はその場から飛び退き、目を逸らしたくなるような光景に震えた。
しかし、その内臓の塊は突如として跳ね上がり、黒い数珠が蛇のように伸びて真一に襲いかかってきた。
「くそっ!」真一は反射的に逃げようとしたが、その瞬間、右手の逆命の呪印がじんわりと熱を帯びた。彼は立ち止まり、渾身の力を振り絞って振り返ると、逆命の印を高々と掲げた。
「消え失せろ……!」
呪印から放たれた赤い光は、鋭利な鎌の刃のように内臓の塊を切り裂いた。
「ギャアアアアアッ!」
祭壇に響き渡る悲鳴と共に、内臓の塊は黒い液体へと崩れ去り、地面に溶け込むように消えていった。
竹村真一はその場にへたり込み、肩で荒い息をついた。右手はまだ微かに震えており、逆命の呪印は不気味な光を放ち続けている。
「……くそっ……俺は命を救いに来たんだぞ……命削るためじゃねえんだよ……!」
壺の声は完全に途絶え、祭壇には再び静寂が訪れた。
竹村真一は自分の右手を見つめながら呟いた。
「この呪印……俺の命、もうこのクソみたいな符に縛られちまったってことかよ……」