空の上の記憶
幼い子供にとって、母親というのは特別な存在だと思う。何か困れば必ず助けてくれるし、何か悲しい思いをすれば、優しく抱きしめてなぐさめてくれる。
少しかさついた温かい手で、ふんわりと頬を包み込んでくれる母の手が大好きだった。だった、と過去形にしてしまうのは、小学五年生にもなると母に甘えるのが気恥ずかしくて、少し歳の離れた弟の前でツンと澄ました姉を演じてしまうから。
本当は、母にもっと甘えたい。
でも我儘を言ってしまうと、きっと母を困らせてしまう。でも甘えたい。そんな気持ちをどうしたら良いのか分からなくて、いつも叱られるような事をして気を引いてしまう。
「みのり!アンタはまたそうやって……やる事やってから遊びなさいっていつも言ってるでしょう!」
また、いつものように母が怒鳴る。
学校から帰ったら宿題をして、明日の学校の準備をしてから遊びなさいというのは我が家のルール。それは分かっているのだが、どうにもやる気が出なくてリビングに転がしたままのブロックを組み立てていた。それは自分が悪いと分かってはいるのだが、素直に「ごめんなさい」という言葉を紡ぐ事が出来なかった。
「今やろうと思ってたんだもん」
「思ってたんじゃ駄目でしょ。早くやりな」
母はいつもイライラしているように見える。我が家に父はおらず、母が一人で仕事をして、家の事もしている事は理解していた。
昔は父も一緒に暮らしていたのだが、ある日突然母は荷物を纏め、娘の手を引いて家を出た。どうして父は一緒ではないのかと何度も聞いたが、「もうパパとは一緒にいられないの」としか答えてもらえなかった。それは今でも変わらず、月に一度だけ父と会える日を心待ちにするしかない。今月はまだ会えておらず、今度会えたら何をしようか、何をおねだりしようか考える事が楽しい。
「全く……五年生にもなってこんな事も出来ないんだから……」
ブツブツと苛立ちを呟く母の背中を見つめているうちに、何だかどんどんと嫌な気持ちになってきた。素直に謝って、すぐにやる事を済ませてしまえば良い事はわかっているのに、今は心の中が嵐にでもなってしまったように、頭にカッと血が上って、上手く言葉が出て来ない。
「何でそんなに怒るの?!」
「みのりがきちんとやる事やってれば怒らないわよ」
夕食の支度をし始めた母は、こちらに視線を向ける事すらしない。早くやりなさいと続けて、何か食材を切るのか包丁とまな板を作業台に置いていた。
「怒ってばっかりのママなんて嫌い!」
「怒られないようにすれば良いでしょう」
「ママなんか嫌!パパが良い!」
父はいつだって怒らない。どんなに我儘を言っても、父はニコニコと嬉しそうに笑って、何でも叶えてくれる。きっと父と一緒に生活出来たら幸せだろう。毎日怒られる事もなく、何でも好きな事をさせてくれる。きっとそうだ。
上手く発散出来ない感情が涙となって流れ落ちていくのを、頬が濡れていく事で感じながら、みのりはぎゅうと拳を握りしめた。
「……だったら、パパに連絡してあげる」
母はそれだけ言うと、黙って食事の支度をし続ける。もうこれ以上ここに居ても無駄だ。父に連絡してもらえるのなら、きっとすぐにでも迎えに来てくれるだろう。そうなったら話は早い、すぐに荷物を纏めようと、みのりは寝室へと向かい、ランドセルの他にリュックや手提げに荷物を詰め込み始める。
怒ってばかりの母よりも、いつも甘やかしてくれる父と生活した方が良い。毎日楽しく生活して、母には今の父と同じように月に一度会えればそれで良い。いや、もう二度と会えなくたって良い。ボロボロと止まらない涙を止めようと、一旦荷物を詰め込む手を止め、みのりはベッドに突っ伏して泣いた。
◆◆◆
どれだけ泣いたのか分からない。ふと気が付くと眠っていたようで、みのりはぼんやりとした頭で周囲が暗い事に気が付き、きょろきょろと周囲を見回した。
シン、と静まり返った部屋の中は何となくひんやりとしていて、母の気配もしない。何となく気味が悪くなり、そうっとベッドから降りて部屋を出る。
「ママ……?」
寝室を出ればすぐにリビング。その隣はキッチン。何年も済んでいて慣れている筈の狭い家の中は、いつもと違う。
「え……?」
引き戸を開いたその先は、真っ白な地面と真っ青な空。眩しくて目を開いていられない程明るい世界が広がっていた。
ここはどこ?夢の中?
ぱちくりと何度も目を瞬かせ、明るさに慣れようとしているうちに、みのりは体をよろめかせて真っ白な地面に足をつく。裸足の足裏にふかふかとした感触が何だかこそばゆかった。
まるで雲の上にいるかのようなその場所は、昔母に読んでもらった絵本の世界のように思えた。雲の上には楽しい遊園地があって、魔法使いが子供たちを雲の上の遊園地に連れて行ってくれる話。保育園児だったみのりはその絵本が大好きで、何度もせがんで読んでもらった事を覚えている。
「わあ……ふかふかだ」
眩しさに慣れてきたみのりは、恐る恐るではあるが地面の上を歩き始める。地面と思ってはいるが、きっとここは夢の中で、雲の上にいるのだろう。雲の上を歩ける夢なんて素敵だなと少しうきうきした気分で、みのりはあちこちを見まわしながら歩いてみる事にした。
あちこちに不思議な形の建物があり、そのどれもがとても小さい。大人が入れない程小さな家には、これまた小さな扉と窓が付いている。子供のみのりでさえ少し窮屈そうだ。
「ちっちゃい」
小さな窓の向こうを覗いてみると、中には小さなベッドが置いてあり、そこに小さな赤ん坊がすやすやと眠っている。
こんな所に赤ちゃんが一人で眠っているなんて危ないのでは?と不安になりきょろきょろと周囲を見回してみるが、どこにも親らしい大人は見当たらない。
小さな家と、時々小さな赤ちゃんがハイハイをしていたり、もう少し大きな赤ちゃんが歩いていたりするだけ。どこもかしこも赤ん坊だらけだった。
「変な夢」
赤ちゃんが沢山出てくる夢なんて不思議だ。足元に寄ってきた赤ん坊は、不思議そうな顔をしてみのりを見上げ、あぶあーなんて声を漏らす。よだれだらけで汚いな、と思ったが、赤ん坊はよだれだらけの顔をみのりの脚に押し付け、笑った。
「わ……ベタベタじゃん!」
服の袖でよだれをごしごしと拭き、みのりはしゃがみ込んで赤ん坊の頬をつつく。やめてねという気持ちを込めたのだが、赤ん坊は嬉しそうに笑うだけだった。
「おや……里帰りの子かな」
「え……?」
「その子を探していたんだ。見つけてくれてありがとう」
声がした方を見上げると、そこには黒髪の綺麗な少年が立っていた。高校生くらいに見えるその少年は、みのりの足元にいる赤ん坊を抱き上げて、布巾で綺麗に顔を拭いてやる。
「さあ、君の番だ」
優しく微笑んだ少年は、赤ん坊を連れてどこかへ歩いて行く。どこに行くのか気になり、一人でいるのも不安だったみのりは、何となく少年の後ろに付いて行く事にした。
「君、名前は?」
「みのり」
「そう、みのりちゃんね。僕は真。この子はアコちゃん」
アコちゃんと呼ばれた赤ん坊は、小さな手でしっかりと真の着ている白いシャツを握りしめている。真っ黒な瞳でじっとどこかを見つめているようだが、その顔は何だか嬉しそうに見えた。
「どこ行くの?」
「ゲートだよ。君も通った」
「ゲート?」
「そう、ゲート。そこを通って地上に行くんだよ」
真が何を言っているのか分からない。色々と聞きたい事はあるのだが、真は目的地を目指してずんずん歩いてしまう為、置いて行かれないように追いかける事に必死だ。
時々真と同じくらいの少年や少女とすれ違ったが、誰もがみのりに「おかえり」と言ってくれた。何故おかえりと迎えられているのか分からないが、心なしか懐かしいような気持ちになって、小さく「ただいま」と返してみる。
「さあ、アコちゃん。君のお母さんが待っているよ」
ゲートとやらに着いたのか、真は突然足を止める。慌てて足を止めたみのりは、そこが地面にぽっかりと開いた穴である事に気が付いた。
ゲートというからには遊園地の入場ゲートのような場所を思い浮かべていたのだが、どうやらただの穴だけのようだ。
「えーっと……ああ、あの人だね。幸せになるんだよ」
そう言うと、真は迷う事なくアコを穴に落とした。文字通り、落としたのだ。
何てことをするのだと悲鳴を上げたみのりは、アコが落ちて行った穴に飛びついた。見下ろしてみるとそこには何も無く、白いモヤが霧のように立ち込めているだけ。
「何してるの!?死んじゃうじゃん!」
「何って……ここがゲートだもん。ここを通らないと地上に行けないし、君は何年も前にここを通っているんだよ。君は死んでいないだろう?」
不思議そうな顔をして、真はぽりぽりと頬を掻く。ぱくぱくと口を動かしたみのりは、有り得ないと首をゆっくり横に振る。
この人絶対に頭がどうかしている。何をどうしたら赤ん坊を穴の中に落とすなんて事を考えるのだろう、実行できるのだろう。
「君は自分から飛び込んだ子だからなあ……」
「意味わかんないんだけど……」
「ああ、覚えてないか。君、もう大きいから」
にっこりと笑った真は、こっちへおいでと手招きをしてまた歩き出す。頭のおかしな人に付いて行くのは怖いが、周りには誰もいない。先程すれ違った人の誰かにまた会えれば、助けを求める事が出来るだろう。
付いて歩くのに必死で道を覚えていなかったみのりは、先程よりも随分と距離を開けて真の後ろを付いて行く。
「ここの事も忘れているかな。ここは赤ちゃんが地上に降りるまでの……そうだなあ、保育園みたいなところだよ」
真が言うに、生まれる前の赤ん坊は皆ここで世話をされているらしい。
空の上から地上を見下ろして、どの母親の元へ生まれるかを選ぶのだそうだ。
「何でか分からないけれど、赤ん坊は母親だけを選ぶんだ。父親も見ている子もいるけれど、基本的には母親だけ選ぶ子が多いね。君も母親だけ選んでたかな」
この人が良いと母親を決めた赤ん坊は、先程の穴に飛び込むか、世話役に落としてもらって地上に降りる。穴は母親の腹の中に繋がっているそうで、別に地面に叩きつけられるようなただの穴ではないのだそうだ。
雲の上で生活している体では、地上で生きる事は出来ない。だから穴から母親の腹の中に入り、地上で生きる為の体をゆっくりと作ってから生まれる。それが、全ての赤ん坊の産まれ方なのだと真は言った。
「君もあの穴からお母さんのお腹に飛び込んで、体を作って生まれたんだ。里帰りしてくるなんて、何かあったのかな?」
「里帰りって……」
「普通、生まれた子供はここに戻ってくる事は無いんだ。ここでの事もどんどん忘れて、大体三歳くらいで全て忘れてしまう。でもたまに、何かを思い出したくてここに戻ってくる子がいるんだ」
歩き続けていた真がそう言うと、ふと足を止めて小さな家の一つを指差した。
「あの家、ずっと前に君が眠っていた家だよ」
薄いピンク色の屋根が可愛らしい家に覚えは無い。そっと近付いて中を覗き込むと、小さな赤ん坊が器用に哺乳瓶を持ってミルクを飲んでいた。
「今は別の子が住んでいるけれどね。君はよくミルクを欲しがる子でね……生まれてからもそうだったんじゃない?」
クスクスと笑った真は、また歩き出す。
あっちは病院、こっちはミルク製造室……楽しそうに道案内をしてくれるのは良いのだが、ここが生まれる前の世界だと言われても「やっぱり変な夢」としか思えなかった。
やけに長い夢だ。
そろそろ起きないと父が迎えに来てしまうかもしれない。起きたいと思っているのに、どうしても目覚める事が出来ないのか、元の自宅に戻る事は出来なかった。
「お母さんと喧嘩でもしたのかな?」
「……うん」
「そういう子、多いんだ。お母さんと喧嘩して、どうしてお母さんを選んだのか忘れてしまった子がここに戻ってくる事がある。君もそうだろう?」
けらけらと笑った真は、大きな桜の木の下に置かれた小さなテーブルと椅子の元へ向かう。椅子の一脚に腰かけると、みのりにも座るように促して、コンコンとテーブルを叩いた。すると、何も無かった筈のテーブルには沢山のお菓子が現れ、好きなものを食べて良いと微笑まれた。
「どれだけ食べても良いよ。折角の里帰りなんだから、楽しんでからお帰り」
目を細めて笑った真は、ゆらゆらと湯気を上げるカップを傾けながらぼんやりと遠くを眺める。真の視線の先には、ぽつぽつと小さな家が建っていて、時々世話をしに来ているのか、少年少女が家の中を覗き込んでいた。
「地上の生活はどう?楽しめているかな」
「どうって……言われても」
真の漠然とした質問にどう答えたら良いのか分からず、みのりは椅子に座りもじもじと手を動かしながら俯いた。
学校はそれなりに楽しいと思う。友達もいるし、勉強はあまり好きでは無いけれど、放課後に仲良しの友人と集まって喋ったり、遊んだりするのは好きだ。
母と過ごすのも好きだ。……と、思う。そう思いたい。眠る前に喧嘩をしてしまったせいで素直に母と過ごす時間を好きだと言えないのだが、心の奥底では楽しいと、好きだと思っているはずだ。
「楽しい、よ」
「そう。それは良かった。君はなかなかお母さんの元へ行けなかった子だからね。楽しいなら良かった」
「なかなか行けなかったって?」
ぱちくりと目を瞬かせたみのりは、少しだけ首を傾げて真の顔をじっと見つめる。
問われた真は少しだけ考えるような素振りをしてから、ゆっくりとお茶を注ぎ始めた。
「まあ、飲みながら話そうよ」
にっこりと笑った真が差し出したのは、ふわりと優しい香りのするミルクティー。折角出してくれたのだからと、みのりは一口飲み込むと、ミルクティーが通った場所がじんわりと温かく、気持ちが良かった。
「君はね、ずっと空からお母さんを見ていたんだよ。他のお母さんには見向きもせず、君のお母さんだけを」
他の赤ん坊は、何人かの母親を見てはどの母親の元に行くのかを決める事が多いと言う。
だが、真が言うにみのりはたった一人、みのりを産んだ母だけを見つめていたそうだ。
「一度、まだ駄目だよって言ってるのに君は勝手にゲートに飛び込んだんだ。でも、君のお母さんのお腹に入る事が出来なかった」
「どうして?」
「お母さんが薬を飲んでいたからね。入りたくても入れなかったんだ。弾かれて、君はまたここに戻ってきたんだよ」
真の言う薬が何なのか、みのりは何となく分かっていた。みのりの母は、毎月酷い腹痛に襲われる為、毎日同じ時間に薬を飲むからだ。それがどういう薬なのかはよくわからないが、母が言うにこれが無いと動けなくなってしまうという事だけは理解していた。
「弾かれてしまった君は、次のチャンスを狙ってずっと空の上からお母さんを見つめていたんだ。でもある日、君のお母さんがとても幸せそうに笑っていて、君のお父さんと一緒にいるところを見て、もう大丈夫だと思ったから、僕は君をゲートから見送ったんだよ」
真の言葉を聞いているうちに、みのりの頭の中に朧げな記憶が蘇る。
今よりも若い母が、父の腕の中で笑っている。その姿を雲の上から見ている景色が頭の中に広がって、みのりはごくりと喉を鳴らした。
きっと今なら大丈夫。今なら、お母さんの所に行ける。あのお母さんなら絶対に幸せになれる、あのお母さんの子供になりたい。
胸のうちに広がったそんな感情が、生まれる前の自分が抱いていた感情なのだろうか。実際の母はいつも、疲れているような、不機嫌そうな顔をしているのに。
「君が、お母さんを幸せにしたかったんでしょ?」
「どういう事?」
「それも忘れちゃったか」
目を細めて笑った真は、カップをもう一度傾けてお茶を飲み込む。細い指をぴっと立てて、それをそのまま一軒の家に向けた。昔、みのりがこの場所で暮らしていたという家だった。
「君と同じ家に来た子だったんだ。とても小さくて、地上で生きていけるか心配だったけれど……元気そうで安心したよ」
昔祖母に聞いた話だが、みのりの母は幼い頃高熱を出して入院した事があるらしい。食も細く、すぐに体調を崩していたと。親になった今も時々頭が痛いと言って寝込む事があるが、生まれる前からそうだったとは思わなかった。
「君のお母さんは死にたい人だった。生きる事に希望なんてものは一つもなくて、死ぬ勇気が無いから生きているだけの人」
「あ……」
真の言葉に、みのりの頭に再び朧気な記憶が蘇る。
母はいつも泣いていた。苦しい、消えたい、死にたいと漏らすのはいつもの事。それを空から見ていて、私が一緒にいたら幸せになれると思っていたのだ。
「ママに、笑ってほしかったの」
ぽつりと零れた言葉は、みのりが生まれる前に抱いた気持ちだった。
「君のお母さん、とても強くなったね。僕も時々上から覗いていたけれど、昔に比べたらとても強くなった」
真が見てきたみのりの母は、昔はすぐに死を考えていたが、今は現状をどうにかしようと努力するようになっていた。
「君がいるからだよ、みのりちゃん」
真の言葉の意味が分からず、みのりは手にしたままのカップを傾けて、もう一口ミルクティーを飲んだ。
「母は強しって言ってね。君がいるから、君のお母さんは強くあれるんだ」
「……いつも怒るのに?」
「君が大事だから、きちんとした大人になってほしくて怒るんだよ。まあ……疲れて苛々してて八つ当たりみたいになってる時もあるだろうけれど、そういう時は君の寝顔を見て謝ってるんだよ」
小さく笑った真の言葉に、みのりは小さく口元を緩めて笑う。少し前、母に叱られた日の夜にふと目が覚めた。頭を撫でられている感覚が気になって起きたのだが、それが母の手である事に気が付いて、何となく寝たふりをし続けたのだ。
「怒りすぎてごめんね、大好きだよ」
少し涙声の母の声だった。
大好きよ、ママの宝物。そう続けた母がみのりの額に頬を寄せ、布団を掛け直して自分のベッドに入って行く気配を感じていた。
幼い頃、母はいつもみのりを「ママの大事な宝物」と言っていた。幼い頃はそれがとても嬉しくて、ママ大好きと言いながら母に抱き付いていた。何時の頃からか気恥ずかしくなってそういう事はしなくなったが、今でも母が宝物だと思っていてくれることは嬉しかった。
「君がいるから、お母さんは幸せなんだよ」
「パパがいなくても?」
「うん、そうだよ。勿論、お父さんも一緒だったらこれ以上ない程幸せだったんだろうけど、みのりちゃんが居てくれたらそれで良いんだよ」
真はそう言うが、みのりにはその言葉を素直に信じる事が出来なかった。
自分がいるから、母は無理をしているのではないか。自分のせいで、母はいつも疲れているのではないか。そんな事を考えてしまう事があるからだ。
「そろそろ朝になるね」
「え……?」
「起きる時間だ。目を閉じて、僕の声をよく聞いてね」
「ちょ……」
真の掌が、みのりの目元を覆う。
不思議な夢だが、どうしてだか心地良い。カップに残ったミルクティーはまだある。まだ飲んでいたい。まだ眠ったままでいたい。
「君の名前はみのり。お母さんが考えたんだ」
真の声がゆっくりと遠くなっていく。代わりに、母の嬉しそうな声が耳元で優しく響く。
—「実りある人生になるように」で、みのり。
—みのり、元気に生まれておいで。
—みのり、早く抱っこしたいなぁ。
—みのり、お洋服のお洗濯終わったよ。君はこんなに小さいのね、楽しみだよ。
母の声が何度も響く。みのり、みのりと何度も名前を呼ぶ。そのどれもが、幸せそうで、嬉しそうで、優しく響く。水の中で聞いているように雑音も混じってはいるが、母の言っている言葉は、何となく理解出来た。
「う……」
ぶるりと身を震わせ、みのりはうっすらと目を開く。少しひんやりとした部屋の中、いつもの自分のベッドの上で目を覚ました事に気が付き、眠っている間に蹴ったらしい布団を肩まで引き上げた。
まだ朝方なのか、寝室は薄暗い。ごろりと体を転がすと、いつものように母は自分のベッドで眠っていた。
「……ママ」
そっと声をかけ、みのりは母のベッドの脇にしゃがみ込む。母はぐっすりと眠っているようで、みのりの声には気付かない。それが何となく面白くなくて、みのりは少し冷えた手を母の背中にくっつける。母の反応は無い。
「あったか……」
思ったよりも布団の中が温かく、みのりはゆっくりと母の布団に潜り込んでみた。冷え切った手足を母の体にくっつけて体温を堪能していると、流石に母も目が覚めたようで、迷惑そうな顔をしながら「やめて」と言った。
「もっと普通に起こせないの……まだ薄暗いし!」
「起きちゃった」
「お腹空いたんでしょー。ご飯食べずに寝ちゃうんだから。てか冷たいな!また布団蹴ったね!」
こんなに冷えてる!と文句を言いながら、母はみのりの体をしっかりと抱きしめ、布団で包んでくれた。背中を何度も摩り、ぶちぶちと文句を言うが、声色はとても優しかった。
「ねー、ママ」
「うん?」
「ママさあ、幸せ?」
「何、いきなり……」
久しぶりに母の腕の中を堪能しながら、みのりはふと浮かんだ疑問を何と無しに口にする。
母は少し笑って、わしわしとみのりの髪を掻き回しながら言った。
「みのりがいるからね!ママ幸せ!」
「本当に?」
「何疑ってんのよー。みのりはね、ママの宝物なんだよってちっちゃーい頃から言ってるでしょ?何、最近怒ってばっかりだから不安になった?」
よしよしと頭を撫でてくれる母の手はとても優しい。昔からそうだ。怒られる事が重なり、寂しくなって甘えると、母はいつもこうして甘やかしてくれた。大丈夫だよ、大好きだよと繰り返し囁きながら、みのりが満足するまで抱きしめてくれるのだ。
「ごめんね、ママ最近苛々してたね。みのりの事怒りすぎてた」
「ちゃんとやる事やらなかったから……」
「それはそうなんだけどさあ、こんなに怒らなくても良かったなって反省してたんだよ。でもちゃんとやる事やれる子になってほしくて怒るんだよ。怒りすぎは本当に良くないんだけど……」
怒るのって難しいんだよねと母は続けて、もう一度ぎゅうと腕に力を込めてしっかりとみのりを抱きしめた。
鼻の奥がツンと痛んで、それを誤魔化すようにみのりは母の背中に回した腕に力を籠める。
「……酷い事言って、ごめんなさい」
「えー?何か言ったっけ?」
「パパが良いって」
「あー……あれね。慣れてるって。みのりはちっちゃい頃からママに叱られると、もう良い!パパが良い!ママ嫌!ってよく怒ってたから」
けらけらと笑った母は、今更だと言ってみのりの頭を撫でた。本気で言っていない事くらい分かっていると続け、母はにんまりと笑いながらみのりの顔を覗き込んだ。
「ママ大好きだって事くらい知ってるよ。パパには今度美味しいものご馳走してもらおう!ついでに遊びに連れてってもらってお小遣い貰ったれ!」
「怒ってないの?」
「怒らん怒らんこれくらいでー。荷物纏めてたのは笑っちゃったけどさ」
後で片付けなさいと言って、母はゆっくりと体を起こす。スマホの画面を確認して「本当に早いな!」と喚くと、ぼりぼりと自分の後頭部を掻いた。
「くっそー休みの日に早起きする程嫌な事は無い……腹立つからパン屋行こうか。ちょっと豪勢な朝ご飯にしよ」
「……ウィンナーある?」
「スープも付けてやろ」
「着替える!」
「はい競争!寒い!」
疲れていない時の、いつもの母だ。
三十歳はとうに超えているというのに、やけにテンションの高い人。ニヤニヤ笑いながら布団を引っぺがし、早く着替えろとみのりを急かす。枕元に置かれている目覚まし時計はまだ六時を少し過ぎた頃で、流石にパン屋が開くには早すぎるだろう。
母がそれに気付くのはいつになるだろう。先に掃除を済ませてからパン屋に行けば丁度良いだろうか。寒い寒いと言いながら服を脱ぎ始めた母をぼんやりと見つめながら、みのりは温かくなった手で耳に触れた。
—君の名前はみのり
夢の中で出会った少年の声が聞こえたような気がした。あの少年の名前は何だっけ。どこか不思議な場所にいる夢だったような気がするが、どんな夢だったのか殆ど思い出す事が出来ない。
「ママ、ミルクティーも飲みたい!」
「おっしゃ任せな」
パーカーから頭を出した母の寝癖を笑いながら、みのりも着替えるべく服を脱ぐ。ひやりと冷たい空気に一瞬動きを止めた瞬間、ニヤニヤと笑った母が無慈悲に服を奪い取った。
娘が3歳くらいの頃に話してくれた「産まれる前にいた世界」の話を元にしたお話です。
幼児の話を聞きとるのは大変でしたが、面白かったのでアレンジしてみました。詳しくはXの方でツリーに繋げますが、パパではなくママを選ぶんだというのは一番驚いた事でした。パパ涙目……