⑧子爵、友人の旅行に付き添う
「シャロン、本当に大丈夫なのかい」
「ええ、お父様。あのご友人達が滞在している間が、一番の好機だと思うのです。子爵殿とお近づきになるために」
朝早くに出かける準備を進めているシャロンに、父は心配そうな眼差しを向けて来た。
現在、隣国の魔法使いことグレイセルと細君は新婚旅行を兼ねて、故郷でもある子爵領に里帰り中である。二人はクロードの屋敷に滞在しているというので、シャロンは身支度を整えてさっそく訪問する事にした。合流する旨は、もちろん事前に昨晩の夕食会で伝えてある。
あのクロードと上手く友人として付き合っているグレイセルの立ち回りを見ておく事は、シャロン及びメイベル男爵家に必要なのだ、と家族を説得した。
「よしシャロン。寒さにだけは気を付けて行ってくるといい」
「ありがとうございます、グラント兄様」
まだ不安そうな父とは対照的に、兄は明るく妹を送り出してくれた。
グレイセルは数年前までこちらで生活していたので、ある程度の土地勘があるようだ。しかし数年の間に街も変わったところもあるので、シャロンが昨夜の夕食会の際に張り切って案内役を申し出たのである。
子爵邸の入り口に到着すると、寒い中でクロードが出迎えのために待っていてくれた。
「二人があちこち出かけるのに同行する数日になりそうだが、あなたは本当にそれで構わないのか?」
「ええ、もちろん。土地勘のある子爵殿とご友人殿はともかく、マリラさんに気を遣わなければ」
クロードが屋敷の玄関先まで来る道すがら、念押しするように確認した。彼はいつもの気難しい表情に戻っていたが、シャロンはもう躊躇わなかった。お気遣いありがとうございます、と屋敷の中へと彼に続いて足を踏み入れる。
「集まる際には奇数人より偶数人ですよ、おまけに女性同士ですからね」
いくら彼らが模範的な紳士であろうとも、やはりシャロンが加わった方がやりやすいのは確かだろう。不慣れな旅行先で不安な気持ちにならないように、同性の同行者がいるべきだと考えた。
「ご安心ください、子爵殿。みなさんのお邪魔はしないように気を付けますから」
「……そのような事が言いたいのではなくて」
シャロンはクロードを安心させようと色々な口実を考えたけれど、彼の方は難しい顔のままである。とりあえず冷えるから、と奥へと案内してくれた。
「よく知らない人間と引き合わされて、迷惑ではないか?」
「いいえ、得意分野ですもの。どうかお任せください」
「……それは心底羨ましいことだ」
シャロンが言い切ったので、クロードの方も方針が固まったらしい。どうやら彼はこちらに気を遣わせているのではないか、と心配してくれていたようだ。しかしシャロンが即答したため、呆れと尊敬の入り混じった複雑な表情をいつまでも浮かべていた。
さて、合流した四人はクロードが用意した馬車に乗りこみ、街へ散策に出かけた。昨晩の夕食会で既に判明していたけれど、マリラはこちらの言葉に堪能だった。大抵の場合、よその国の言葉を学んだとしても発音や抑揚まで完璧に習得するのは難しい。しかし彼女と話しても、ほとんど違和感がなかった。
詳しく聞いてみると、海の向こうでは商会の旅客部門で案内やこちらとのやりとりを請け負っているそうだ。上手なわけだ、とシャロンは感心してしまう。今まで何度か、実家の商売の関係で隣国出身者と話をする機会があったけれど、彼女より巧みにこちらの言葉を話せる人間には会った事がなかった。
「マリラさんは、どうやってこちらの国の言葉を学んだのですか?」
「それは、もちろん」
彼女は美しく、そして幸せに満ち足りた表情を浮かべている。偶然知り合って意気投合し、やがて恋仲になる前からグレイセルが何年も付きっきりで教え、ゆっくりと身に着けたのだそうだ。
「彼女は優秀で意欲がありましたから。教える側としても頭が下がる思いでしたよ」
グレイセルが口を挟むと、あら、とマリラは恥ずかしそうにはにかんでいる。移動中の馬車の中では昨日以上に話が弾んで、非常に賑やかだった。
「それにしても、このように風が冷たいのに雪は降らないのですね」
「ええ、今年は暖かくて過ごしやすいと皆が口を揃えているので。難しいかもしれません」
暖かい隣国では雪が降らないそうなので、マリラはさかんに雪を見たがっている。南の国で生まれ育った彼女は、冷たい空気に新鮮な感想を持っているらしい。しかしここ最近の気候を見る限り、今年は雪に関してあまり期待はできそうになかった。今年は寒くなるのがゆっくりだ、というのがここで暮らしている人間の実感である。
その様子を優しい眼差しで見つめている魔法使いに、雪を見せて欲しいと頼んだ方が早そうだ、とシャロンは思う。手紙を小鳥に変えてしまうくらいなので、その気になれば容易い御用なのかもしれない。
クロードの友人、グレイセルは隣国で籍を得て結婚までしていた。大半が見切りをつけて帰国し、生家の伝手で堅実な仕事に就く中では珍しいと言える。異国の美しい細君を連れていかにも成功者、と鼻にかけたような感じはなく、穏やかで話しやすい雰囲気を纏っている。
「このクロードはシャロン嬢の前ですから、照れているだけですよ。もしくは、領主らしい振る舞いをしようと気を張っているのでしょう。気難しい顔立ちは昔からなので」
「ははあ、左様でしたか」
「……真に受けないでいただきたい」
グレイセルはクロードとは昔からの友人らしく、訳知り顔で言いたい放題である。今も苦い顔をしている子爵に足を踏まれていた。グレイセルの説明が真実だとするならば、クロードは元々意図的なのか無意識なのかはさておき、冷たい印象を与えてしまうらしい。
このようにして、隣国の二人はシャロンも楽しく過ごせるように取り計らってくれた。旅に同行させてもらえたのは、純粋に楽しい時間となった。
一行は保養地内にある、歩いて散策ができる遊歩道へとやって来ていた。少し歩くと街や港、その向こうに広がる水平線まで一望できる。午後を少し過ぎた頃、天気は冬の日らしくあいにくの曇り空だった。けれど夫妻はそっと寄り添いながら、目に焼き付けておくかのようにじっと景色を見つめている。
シャロンとクロードは二人を邪魔しないよう少し距離をとった。見慣れた景色をぼんやりと、そして新婚夫婦の動向が常に視界に入るようにしてある。二人の気が済めば、また別の場所に移動の予定になっていた。
「いいですね、蜜月というのは。あそこまで仲睦まじいと憧れます」
「……そうだろうか」
シャロンがうっとりとしている横で、クロードは口元が引き攣っている。
「あれは少し、親密が過ぎるかと」
「ええ、隣国の方は私達より情熱的なやりとりを好むそうですからね」
新婚旅行中なのでこんなものだろう、というのがシャロンの感想だった。隣国人は総じて陽気で思った事を口にしやすい人々だと言われている。一方、子爵は友人夫妻の親密な雰囲気にすっかり閉口しているらしい。
「隣国からいらした方達というのは、多かれ少なかれあのように振舞っているでしょう。ましてや、結婚したばかりともなれば」
「マリラ殿はともかく、グレイセルは生まれも育ちもこちらでして。かつては私の屋敷で暮らしていたのだが」
「では、マリラさんに合わせているのでしょう。出身地の異なる者同士の結婚では、言動の温度差が、時折諍いの種に発展するそうですから。グレイセルさんは意識してあのように振舞っているのでは?」
シャロンとしては、今まで見聞きした隣国人の夫婦と比較してもこの二人は随分と大人しいとして映っている。しかしクロードは大層戸惑っているらしい。既婚者とそうでない者との隔絶に葛藤している様子だ。
もっと大胆に振る舞う者も相当数いるではないか、と言いたかったけれど、彼の前で口にするのは憚られる。他に適切な言葉を選びつつ、シャロンは思い切って口を開いた。
「相手の生まれ育った場所を見てみたい、見せてあげたいというのは愛のささやきの類として、大変に微笑ましいではありませんか」
「……」
隣のクロードは困ったような眼差しで、耳の辺りを微かに赤くしながら、苦い表情を浮かべている。まだ納得していないようなので、シャロンは相手の反応を窺いながら言葉を重ねる。
「私だって。……これから先、寄り添って欲しい時もありますよ」
「……それは、相手が私でも当てはまるということだろうか」
ええ、とシャロンは相手と視線を合わさないままで応じた。直接顔を見ながら口にするのは少々恥ずかしかったので、さりげない口調をできるだけ装っておく。
「…………外で突っ立っているとさすがに冷えるな」
ややあってから、クロードがわざとらしくしみじみと呟く。そうですね、とシャロン視線を隣に向けると視線が合った。子爵は立ち位置をわずかにずらした。
「風よけくらいにはなるかもしれない」
「……初めてお話した時も、子爵殿は同じような心配して下さっていましたね」
かつて、クロードが温かいひざ掛けを貸してくれた事をシャロンはよく覚えていた。実はあの品も、魔法使い殿の不思議な作品の一つであるらしい。先ほど馬車の中で、グレイセルが懐かしそうに教えてくれた。どうりで機能性が異様に優れているわけであった。
シャロンも一歩動いて、遠慮なくクロードにくっついて暖をとらせてもらう事にした。あの寒い冬の挙式があった日の事を思い出して、気持ちが温かくなるような気がする。
隣で驚いた気配があったものの、相手は何も言わなかった。シャロンはそのまま立ち位置を楽しむ事にした。
メイベル家は隣国から来ている夫妻と親交を深め、そしてマリラにとってこちらの国での滞在が良い思い出になって欲しい。それからクロードとも距離を縮めておく必要があるという思惑の下、シャロンは非常に忙しかったけれど、見合うだけの収穫は十分だった。
見慣れた景色ではあるものの、クロードに寄り添いながら、いつもとは違う充足感を味わったのだった。
四人は再び馬車へ戻った。今度はクロードの父君に会うために、とある屋敷の前までやって来ている。付近には同じような雰囲気の建物が並び、庭先や屋敷の外観がよく整っている一画だ。ここは子爵家所有の別邸であるらしい。今は療養中の先代、クロードの父君が生活している屋敷である。
先代の子爵は、温厚かつ分け隔てない人柄で広く慕われていた。目的地が近づくと、魔法使いのグレイセル殿は口数が少なくなった。緊張しているらしい。育ての親に等しい相手、とクロードから説明があった。屋敷の前に佇んでから呼び鈴に手を掛けるのに、しばらく時間がかかった。
けれど意を決したように、他の三人が見守る前で来訪を告げるのが見えた。
「……後で迎えに来る。シャロン殿、あなたはこちら」
シャロンはクロードに促されて、別行動である。散歩でもして時間を潰す、という。四人で訪問するものだと思っていたが、彼はさっさと別の方向へ歩きだしていた。
「私も、挨拶しておくべきだと思うのですけれど」
「それはもちろん。だがグレイセルにとっては今回の旅の、主な目的の一つであるようだ。あなたには、私が父に紹介する場と時間をきちんと確保するので」
そこまで約束してくれるのであれば、無礼にはならないだろう。午後になって、思わず目を眇めてしまうくらい冷たい風が強く吹き付けている。シャロンはクロードを追って歩きながら口を開いた。
「散歩より、どこかケーキの美味しいお店に入りたいです。身体が温まる前に、風邪を引いてしまいますよ」
それもそうだ、と彼は頷く。とっておきのお店を知っているとシャロンは張り切って、お気に入りの場所へ案内した。
辿り着いた先は看板が庭の植木に半分隠れていて、お店だと気が付かないままの人も大勢いるに違いない。やや古風な内装や調度品が、女性店主の趣向で品よくまとめられている。他に客はいないけれど、目が合うと微笑んで席へ通してくれた。
「来るのは初めてだ。最近できたのだろうか?」
「いつから店が開いているのか定かではありませんが、あまり大々的に喧伝しているようではないようですね」
知る人ぞ知る、という言葉がぴったりな、シャロンのお気に入りである。提供されるものはこだわっているようで、身分のある相手を連れて来ても十分満足させる事ができるはずだ。
「月並みですけれど、レモンケーキには紅茶を合わせるのが好きです」
「それはその通り」
「やっぱりそうですよね。ところで、個人的に子爵殿にお聞きしたい事がいくつかあるのですが、かまいませんか」
店主がこだわって紅茶も珈琲も淹れてくれるので、運ばれてくるまでに時間がかかるのである。誰かと話をするにはぴったりのお店なのだった。
「普段、領地のお仕事を除いた時間は、何をしていらっしゃるので? 私は、趣味は日記をつける事です。それから刺繍は人並みに」
「趣味は……私は絵も、音楽も不得手なので専ら鑑賞する側。しかし最近は忙しかったから遠のいてしまった」
「あら、ではこれから一緒に出掛けるのが楽しみですね。海の向こうから演目も演出も、新しいものが続々と入ってきますから」
よしよし、とシャロンが今日一日、クロードとその友人夫妻に同行した成果は予想以上である。ほんの数日前までは、クロードとこのような話題を共有できるとは思っていなかった。けれど今のところ、シャロンが懐に入り込もうとするのに、抵抗や拒絶の反応はない。
「本当に、今日は一日付き合わせて申し訳なかった」
「私は楽しかったですよ。あのお二人も、同じように感じていて下さると嬉しいのですけれど。それに子爵殿と色々とお話できて、私は嬉しかったです」
「……あなたは私に対して、率直な物言いをお好みのようだが」
子爵は言い淀んでいる。シャロンは言いたい事が山ほどあったけれど、今はその反応を楽しんだ方が有意義なので、口を閉じて素知らぬ顔を装った。隣国から来たあの魔法使いのおかげで理解したところである。
「あなたは集まりを開けば我先にと希望者が集まり、またあちこちからぜひにと呼ばれる人気者でもあるそうだが、物好きでいらっしゃるな。私の話は総じてつまらないと評判なのに」
「……私はもっと、クロード様の話を聞きたいです。特に悩みとか、上手くいかなくて、伝わらなくて悔しい気持ちになるのだとしたら、なおさら。子供の頃のお話なども」
シャロンはあの初めて言葉を交わしてからずっと抱えていた思いを、クロードに静かに打ち明けた。すると相手は困ったような表情を浮かべたが、今はこの場には二人しかいないのだった。
「では、話すと長くなるが。あのグレイセルと子供の頃に諍いを起こして、それをいつまでも気にして引き摺っているという……」
おや、とシャロンは目を丸くした。二人は子供の頃から同じ屋根の下で育ったという話は聞いているけれど、諍いの話題などは一度も出ていない。
クロードは言葉を切って、店の奥へちらりと視線を投げた。注文した内容が運ばれてくるのではないかと様子を見たようだ。しかしここは時間を気にせず楽しむお店なので、今のところその気配はない。
それを確認して観念したらしく、クロードはようやく重い口を開いたのだった。