⑦子爵の手紙
窓ガラスを硬い何かでこつこつと叩くような音が聞こえ、シャロンは顔を上げた。窓の桟のところに、小さな鳥らしき生き物がいる。目が合うと、小さな相手はその場で飛び跳ねたり、羽を大きく広げてみたり。それはまるで人間が離れた場所にいるおおい、と自分の存在に気がついてもらうため、必死になっている時の動きに酷似していた。
近づいてガラス越しによく見てみると、それは確かに小さな鳥の姿をしている。まず目を惹くのは、鮮やかな碧い色をしている事だった。黄色いくちばし、少し長めの尾羽が弧を描く美しい鳥である。けれど周辺で見かける、どの種類にも似ていない。
「まさか、これが……」
飼われているのでもない限り、鳥は人間には近づかないのが普通の反応だ。夢でも見ているのかとしばらく考え込んだ後でようやく思い当たるのは、兄が教えてくれた隣国の港街にいるという魔法使いである。特別な手紙は鳥の姿となって、思い人のところへと飛んでいくのだと。
兄の話を思い出しながら、シャロンはおそるおそる窓を開けてみた。すると小さな姿はいそいそと、飛び跳ねるような動きで中へ入って来た。シャロンの指先までやって来て、まるで愛おしむように額をすりすりと撫でつけて来る。
以前友人の一人が手におさまる大きさの、人懐こい小鳥を見せてくれた事があった。鳥という生き物は時に人間以上に愛情深い生き物であるらしい。その時もいじらしい健気な様子に、うっとりした時間を過ごしたのだった。
「あなた、綺麗で可愛い子ね。とっても素敵」
シャロンは思わず、目の前の小鳥に向かって話しかけてみた。まるで魔法に掛けられているかのように、小鳥の動きから全く目が離せない。隣国の人々を魅了してやまないのだという噂話は、実際に目の当たりにすれば、どのような意味合いかよくわかる。
小鳥は言葉を解しているかのように、何度か瞬きをした。誇らしげに羽をふるわせて、可愛らしい声でさえずり始める。羽の動きに合わせて、灰の中で炎がきらめくように碧い淡い光が輝いた。
そうして最後に、一枚の紙に姿を変える。
「……」
シャロンがその便せんらしき紙を手に取ると、宛名は書かれていない。中身は手紙ですらなかった。なんだか時間つぶしに描かれた子供の悪戯描きのように見える。生き物だとは思いつつ、具体的に何かまでは判別できない。シャロンが考え込んでいると、屋敷の近くで馬のいななきが微かに聞こえた。
今日は来客の予定もないので、外へ用事に出ていた使用人の誰かが出先から戻って来たのだろう。特に気に留めずに便せんに視線を落として考えていると、部屋の扉が合図された。
「お嬢様、子爵殿がお会いしたいと」
「私? 父様や兄様ではなく?」
シャロンは再度聞き返したが、やって来た執事の方も困っている様子である。お嬢様のようですね、と返答した。
シャロンの手の中で、受け取った手紙はもう一度碧い色の鳥に戻った。どこかへ飛んでいくのかと思いきや、腕をつたって肩の上に移ってじっとしている。
「……少し待たせておいてくれるかしら」
今日、シャロンは家族以外の誰とも会うつもりがない日だった。そのため相応に過ごしやすい格好でしかない。侍女が数人来てくれて、急いで衣装や髪形などの面倒を見てくれた。流石に身分のある相手の前に出るので、このままというのはよろしくない。見苦しくない程度に整えていく。
小鳥は今度は鏡台へ飛び移って、羽をせっせと動かしている。まるで身支度を応援してくれているのかのようで、可愛らしい動きだった。
「子爵殿は予定にない訪問がお好きな方なのね」
この短い期間に二回目である。何があったのかは知らないが、これはいずれ結婚したら改めてもらわなければならない。女性に限らず身支度とは時間がかかる、念入りな準備が必要なものなのだ。
シャロンはようやく一階へ降りて行って、クロードを出迎えた。身支度が整ったのを見届けて、小鳥は再び手紙に姿を変えた。シャロンは何となく、その手紙を手に持ったまま部屋を出た。子爵は挨拶もそこそこに、不躾な訪問を詫びた。先を急ぐように話を続ける。
「ここへ、鳥が飛んできませんでしたか、水色の小さな鳥」
「ええ、先ほど。私の部屋に。もう手紙に変身しましたけれど」
シャロンはありのままを述べた。こちらの返答に対し、この時に浮かべたクロードの表情を、きっと生涯忘れないだろう。いつもの生真面目で人を寄せ付けない、冷たい雰囲気の子爵ではない。口元も目元も、焦りと羞恥で引き攣っている。
「あなたには、大変失礼してしまったようだ。あの便せんは決して出すつもりなどなかった。手紙と呼べる代物ではなく、ただの走り書きで。……私にお返しくださいませんか」
なるほど、手紙の中身は精査したものではないらしい。クロードは耳元まで真っ赤になっていて、ひどく恥じている様子である。
シャロンはその姿を、思わずまじまじと見つめてしまった。今まで顔を合わせても、彼はこちらにそつのない姿しか見せてくれなかったためだ。
「……」
「……? あの、シャロン殿?」
おそらくこのような場面では聞き分けの良い顔で、手の中にあるものを子爵に返却するのが正解であるはずだ。頭の中では上手にそれができているにも拘わらず、シャロンはどうしてか、言葉に出す事ができなかった。
それとは全く別の考えが、頭に浮かんで離れない。もし今から自分がそちらを選択したら、目の前の相手はどのような反応をするのだろう。そればかりが気になってしまって仕方がなかった。
心臓の鼓動が早くなっているのを感じた。ここ数日ぐるぐると考え込んでいた事が、頭の中を大きく占めている。
シャロンはこれまで、貴族の仲間入りを果たした家の子女としてふさわしい振る舞いとは何かを突き詰めるべきだと考えていた。しかしそのように努めても、思うような成果は挙げられていない。
「手紙は……」
兄曰く、先ほどの美しい小鳥は大切な人に、特別な思いを伝えるのに使う魔法であるそうだ。配偶者や恋人からいつまでももらえない者は拗ねてしまって、機嫌を直してもらうのに一苦労であるらしい。その微笑ましいようないたたまれないような一幕が、隣国では既にたくさん起きているのだと。
兄から話を聞いていたにも拘わらず、シャロンは自分がどのような反応をするべきなのか考えていなかった。子爵の説明では手違いで送ってしまったような口ぶりなので、尚更である。
「あなたが、……書いて下さったのなら」
シャロンが好きな相手は目の前にいる。冬の日の朝に短い言葉のやり取りをしただけの相手に何を、と笑われても構わない。それでも、会いたかった。なかった事にしないで欲しいと、心の底から強く感じた。
しかし今までと同じ対応をしたら彼はこちらの内心には気が付かず、きっとまた同じ日々が続くだけだ。あの時交わした言葉、それから手の中にある可愛らしい小鳥の事を、シャロンはもっと詳しく尋ねてみたかった。
先ほどの不思議な小鳥の手紙は、目の当たりにした者に魔法を掛けるのではないかと、シャロンは思う。きらめく淡い光が、まだ目の奥に焼き付いているかのようだった。そうでなければ今、クロードの目の前で子供じみたわがままを口にする勇気はきっと湧いてこなかった。
「クロード様、この手紙は隣国で、愛おしい特別な方に向けて飛ばす魔法なのですって。ですから、手放したくありません。形はどうであれ、私があなたから受け取った初めての贈り物なのです」
シャロンは便せんを、一層大事に抱え込んだ。別に意地悪でこうしているわけではないので精一杯真剣さが伝わるように、こちらの考えを述べた。自分の考えをはっきりと伝えなければ幸せな未来には繋がらない、と信じて譲らなかった。
「……もう一度形式を整えて出し直す、というのは」
「……」
子爵は口元を引き攣らせたまま、シャロンの譲歩する気がない固い決意を前に逡巡している。ややあって妥協案を挙げたが、こちらに換わらず譲歩の意思がないのと、他の家族達も集まって来たのを見て諦めたらしい。
「シャロン、一体どうしたんだ?」
「……わかりました、この上なく不本意ですが、そのような顔をされると奪い返せません」
「子爵殿が、私にわざわざ贈り物を」
「あの……できれば他の方には見せないように」
不躾にすみません、と子爵は自分が書いて飛ばしてしまった手紙から注意を逸らそうと必死になっている。屋敷の奥から家族が、そしてクロードの後ろからも見慣れない青年が顔を覗かせた。
「はじめまして、メイベル家の皆様方。兄君と、それから子爵から話をお聞き及びとは思いますが」
青年はレンズの厚い眼鏡を掛けているのが特徴で、佇まいからは品の良さを感じた。きっと子爵が顔を出すような先で顔を合わせるような、身なりの整った青年である。
更にその後ろから顔を出し、こちらに向かって微笑みかけたのが、魔法使いの愛しの細君に違いない。緩やかに波打つ美しい黒髪と、小麦色の肌は隣国人に多い容貌である。
「グレイセル殿!」
兄が明るく応じて、この人がそうなのかと残りの面々は目を丸くした。相手は丁寧に訪問の挨拶を述べ、それから隣国にある商会に所属している身分を明かした。
グラントがすかさず彼と固い握手を交わしている。この二人こそが隣国から来訪し、そしてメイベル家の大事な客人である旨を説明した。
「あの小鳥の姿に変身する手紙ですが、本来は、高い場所から空に放たないと使えないようにしてあるのです。クロードに渡したのは最初の頃に作ったもので、誤作動か何かを起こしたのでしょう」
あくる日、男爵家は改めて子爵とその友人夫妻を夕食へと招いた。彼はグレイセル、細君はマリラという名前らしい。簡単な自己紹介や隣国での仕事の話で、その場は大いに盛り上がっている。
「ええ、けれど贈られて嬉しかったので問題などどこにも」
小鳥の手紙を作ったグレイセル殿の見解を受けて、シャロンも正直な感想で応じてみせる。まあ、とにこやかな笑みを浮かべているマリラとは、これから仲良くなれそうな気がした。
港町で魔法使いとして知られているグレイセルは、鮮やかな炎や美しい花々、見た事がないような華やかな鳥達を次々と披露して見せた。家族達はもちろん、忙しく支度をしていた使用人達も摩訶不思議な光景を前に、給仕の合間に目を見開いて彼の挙動を見つめている。
魔法使いのグレイセル殿は、子爵の友人というので彼のような人柄を勝手に想像していたけれど、シャロンの兄と良い勝負で終始喋り通している。
その輪から少し離れたクロードだけは既に見慣れているのか、苦虫を嚙み潰したような表情で、もくもくと食事に手を付けている。歓談の場が大いに盛り上がっているのをよそに、シャロンはさりげなく、クロードの隣に腰を下ろす事に成功した。彼は少し目を瞠ったけれど、邪険にはされなかった。
「子爵殿、私もあなたに、お手紙をお書きしてもよろしいでしょうか? お聞きしたい事、お話したい事が、私はたくさんあります」
「……二階の窓など、なるべく高い場所から飛ばすのが正しい使い方のようですから、くれぐれもお気をつけて」
「ええ、そうします」
もう委縮するのはやめて、自分がするべきだと感じた事は口に出すと決めてしまうと、随分と気が楽になったような気がした。ここ数日思いつめていた空気は、賑やかな客人に釣られるようにして、少し晴れたような気分である。
「せっかくグレイセル殿達がいらっしゃるので、クロード様に以前いただいた素敵な薔薇の花も、ここで一緒に披露しようと思うのです。それから、好きな刺繍の図案等はありますか? ぜひ教えてくださいね、大体のものはできますよ」
場の賑やかな空気にすっかり閉口していたクロードも、シャロンの提案に応じてくれた。気難しいと噂の子爵も、いつもよりは穏やかな表情を浮かべているような気がしたのだった。
「それは素晴らしい」
彼はようやく、こちらを見てくれたような気がした。まずは好きな刺繍の図案を尋ねるところから、二人の関係は始まるのである。