表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/16

⑥兄、励ます


 客人は屋敷を辞して、夜になった。シャロンは毎晩の習慣である日記に手をつけようとしたけれど、一向に進まなかった。兄が帰って来ていて、相変わらず元気そうだったという書きやすい話だけで手が止まっている。


 あのクロードが屋敷を訪れ、そして自分と婚約するのだという、何より大きな出来事。シャロンはどのような文面にまとめるべきか、全く思い浮かばなかった。このような事は今までになく、いつもは自室に引っ込む頃には気持ちの整理をつけて、書く事で前向きに向き合う事ができていたはずだった。

 しかし、シャロンはこれから子爵とどのように接していけばいいのか、皆目見当がつかないままである。


「後にしようかな……」


 いつまでも座っているだけなのが嫌になって、部屋の奥から刺繍の箱を持って来た。

 ため息をついて日記帳を閉じ、代わりに刺繍の道具を広げていく。この地方では女性の一般的な趣味として定着している。単に持ち物に飾りや目印をつけるばかりではない。食前の慣習や定期的に教会へ通うのとはまた違った、けれど大切な祈りの形であるとも思っている。


どんな男女も大抵は、何を刺繍するのか決めるところから始まるものなのだ。母は父の持ち物だと分かるよう、何かしら手を入れている。と言っても父は、母からの贈り物はまるで宝物のように大事にしまいこんでしまう。なぜ使わないのか、と母はいつも呆れているのが可笑しかった。


 針と糸と布地に集中していると、余計な事を考えずに済む。いつかはクロードにも渡す事になるのだと思うと、緊張してしまう。彼に好きな色や図案などはあるのだろうかと、どのようにして聞き出したらいいのか、今のシャロンにはわからなかった。



 後ろ向きな気分を頭から追いやるようにして作業を進めていると、部屋の戸が無造作にノックされた。この懐かしい叩き方だけで相手がわかってしまって、思わずシャロンは手を止めて苦笑してしまう。


「どうぞ、兄様。お入りになって」


 やって来た兄のグラントは、ふう、と部屋の長椅子に腰かけた。今頃はきっと食堂に他の家族といて、異国で見聞きした思い出話を披露しているとばかり思っていた。


「……絵の勉強はできましたか、兄様?」

「ああ、大いに刺激を受ける日々だよ」


 兄は語学と、商会の運営に役立ちそうな人脈の形成と称して隣国へ向かった。それに加え、本人の趣味でもある絵の分野を父にも打ち明けずにこっそり勉強しているのを、家族でシャロンだけが知っている。


 というのも、刺繍は広く知られている図案以外にも、自分で一から下絵を描くところから始める人も多い。その下絵を、兄が上手に助言してくれるためだ。シャロンが自分で決めた構図や色づかいを賞賛される半分は、兄の手柄である。


 いつもの陽気で明るい笑みとは少し違う、穏やかで優しい兄はこちらに話を向けた。


「我が妹は、本当は屋敷で大人しく過ごす方が好きだったよな。今夜はもう日記は書いてしまったようだが」

「あら。書く内容を吟味しているところでしたのに」


 商売は人との繋がりから、というのがメイベル男爵家の家訓である。本心がどうであれ、屋敷に籠っているわけにはいかない。シャロンも今のうちから人付き合いの経験を積んで、将来に備えておくのである。

 そうしているうちに、階級に相応しい振る舞いが身についていくのだと周囲から言い含められている。


「……シャロン?」


 兄が心配そうな顔つきで、こちらに視線を向けている。つい考え事をしてしまっていたようで、慌てて話題を取り繕った。

 

「今回は、随分とお急ぎの船旅だったのですね」

「ああ。雑魚寝の三等客室はいびきがうるさいし興奮して寝られなくて、船の甲板から朝焼けを見ていたよ。みんなにも見せてやりたいくらい、美しかった。商談は見逃せないからな」

「それはいいですねえ」


 往路はたしか、兄が雑魚寝はごめんだと正反対な事を主張して、気心の知れた友人達と二等客室を購入していた。帰りは急いでいたので、手配が間に合わなかったのだろう。いかにも旅という思い出話を、シャロンは羨ましく思いながら聞いた。

 

「俺としたことが急いで帰ってきたから、手土産を見繕う暇もなかった。またすぐにあちらへ戻るから、お土産はその時で勘弁して欲しい。ごめんな」


 兄の謝罪を前に、シャロンは思い出した。あちらで流行している図案がわかるような刺繍の指南書を頼んでおいたのである。楽しみにしています、と笑って応じておいた。

 


「……ところで、本当に魔法が使えるのですか、その方」


 シャロンは、改めて異国へ渡っていた兄へ問いかけた。かつてクロードが、魔法と称してからかうのだと言っていた。しかし、本当に不思議な力が実在しているという実感は未だに湧いてこない。失礼かもしれないけれど、手品や奇術をそのように大袈裟に言い立てているという方が、まだ納得しやすいとさえ感じている。

 港町の魔法使いは子爵や目の前の兄と同年代の人物である以外には何もわからない。


 ああ、と兄はソファにもたれながら、やや意地悪な笑みを浮かべながら口を開いた。


「一番有名なのは、書き付けた鳥が手紙に変身して宛名に向かって飛んでいくのだ。一番最初に出て来たのも大きいが、それが一番知られていて、わかりやすいな」

「タネも仕掛けもなしに? 絵本の中にある世界でもないのに?」

「ああ、それにしてもまだ信じていないな。実際に目の当たりにした腰を抜かすぞ」


 一応シャロンは父と共に、青い薔薇という不思議な現象を目撃した事がある。けれどだからと言って、納得しているとは言い難い心境のままだった。

 隣国の港町にいる魔法使いは、魔法が使える道具をせっせと作って売りさばいているらしい。魔法使いという呼び名に相応の怪しい世界観に身を置くのではなく、あくまで人間の世界の一員として暮らしている。


「その彼も商売人だ。街の商会に籍があって宣伝、流通と販売は入念に準備されていたものだろう。実に鮮やかな手並みだった」


 兄は家業の観点からも、その人物を大いに評価しているようだ。シャロンは絵本の中で、黒衣で杖を持った姿を想像しているから上手くいかないのかもしれない。商売人の一面があるという情報が加わると案外、兄のような人の可能性もある。


「一番大切な相手に、特別な気持ちを打ち明ける手紙として売り出したのだ。配偶者や恋人から受け取っていない者は総じて拗ねているらしい。周りがそうやって持て囃していると、使わないといけない空気になるだろう?」


 随分面白い事になっているぞ、と兄は笑っている。ははあ、と想像のつかないシャロンはとりあえず相槌を打っておいた。それから、とグラントは少し真面目な表情を浮かべて話を切り替えた。


「実はさっき父さんから聞いたが、先方との交渉は難航していたらしいな。たしかに子爵殿であれば執務室に、どこぞのご令嬢方の釣り書きが山と積まれていてもおかしくはない。ただシャロンはそこから一枚だけ、選ばれたのだから特段気にする必要はないさ」


 これが商売人の家に生まれた子供のやり方だよ、と兄は一気に饒舌に語った。きっとシャロンに伝えるために部屋までやって来てくれたのだ。

 交渉成立、と兄はわざとらしい言い方をした。妹の不安を少しでも取り除こうとしてくれているらしい。その心遣いが嬉しくて、少し気が楽になった。


「子爵殿は、あまり私に興味がなさそうなご様子でしたから。てっきり公にはできないような禁断の恋に燃えているのではないかと、友人達と予想などしていましたが」

「……なるほど。しかし、昔から誰より堅実な方だからな。その線は薄いと見た」


 兄はくつくつと笑って、妹を咎める事はなかった。


「今日もあちらのお屋敷にお邪魔した時、シャロンに何か気の利いたものを用意しようとしていたが、無理やり連れて来てしまった。それで少し気まずかったのかもしれない。悪い事をしたかもしれないが、大目に見てくれ」

「兄様ったら」

「とにかく、まずは縁起の良さそうな絵柄をハンカチに刺繍してやるといいな。周囲で上手く言っている男女は、大概そこから始めているものだ。シャロンは腕が良いから、きっと子爵殿も感心するだろう」

「そうですね、お気遣いありがとうございます」


 グラントは咳ばらいして、一般的な助言を妹に与えてくれた。シャロンは兄に故郷を離れて良い縁を結べるように、いつも健康であってくれるように、と願いを込めた贈り物を餞別に渡しておいたのを、覚えていてくれたらしい。


「クロード殿は良い方だ。きっと大事にしてもらえるよ」

「まあ、この辺りで生活していれば、わかる事ではありますね」


 彼が子爵の身分を父君から受け継いだのは、あまりに早いと言われていた。けれど若く、経験不足だと揶揄する声は、年々小さくなっている。朗らかなで穏やかな物腰で人気があった先代と比べれば愛想はないかもしれないが、これから良い領主として徐々に親しまれる存在になるのだろう。


 彼の両肩には家と領地に暮らす人々の存在が重くのしかかっている。いつか、その重みを分けて一緒に背負っていけたら、とシャロンは思った。


 




 それから数日後、そろそろ兄は帰還するので今日は夕食を豪華にしようかという予定が立てられていた。今日は外出も、客人の訪問も予定されていない。シャロンは家族とのんびり過ごしていた。

 忘れないうちに兄へ新しく刺繍したものを渡そうと自室へ戻った時、窓をこつこつと、軽くたたく音を聞いた。不思議に思って顔をあげると、ガラスの向こうには不思議な光景が広がっていた。


 淡い碧い色をした小鳥が、こちらと視線が合って、嬉しそうに羽を広げるのが見えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ