⑤子爵、突然の訪問
その後もクロードとは話が進まず、進展のない日々が続いた。父は交渉が上手く行っていない事実を隠せなくなってきた。
ちょうどその頃に、兄のグラントが急遽帰国するという一報が入った。数年前から兄は、海の向こうの隣国へ渡っている。語学能力の向上と仕事で役立つような伝手を作るため、精力的に動いているらしい。あちらで過ごす予定の日数が随分残っているので驚いたけれど、送られて来た手紙は慌てて書き付けた筆跡で、大事な商談のためとある。とりあえず病気や怪我というわけではないようだ。
メイベル男爵家の子供達は三人とも、仲良く育った間柄である。何か不都合があって帰国するわけではなさそうなので、シャロンと弟は久しぶりに兄と顔を合わせるのが純粋に楽しみだった。
その日、二人で外の門のところまで何度か様子を見に行った。散歩を兼ねているので、しばらくして兄の姿がなければまた邸内へ戻ってゆっくりと過ごす。またしばらく時間を空けて、再び外の様子を見に行った。
「姉様、元気ない?」
「いいえ? どうして?」
「……ならいいけど」
「ティムはすっかり元気になったのね、本当によかった」
うん、と年の離れた弟のティムは、連れ立って歩きながらはにかんでいる。薬が苦かったけど、と嬉しそうにするのに釣られて足取りは軽い。二人は建物の裏手へ回って、弟を励ました特別な薔薇の様子を観に行った。花の盛りは終わったけれど、残された枝葉は以前よりも力強い印象を受ける。次の季節も楽しませてくれるに違いない。薔薇も肥料というお薬で頑張っているんだね、と弟が訳知り顔で頷いている。
シャロンが肥料と薬の違いをどう説明したものかと思案していると、馬のいななきと蹄の音が聞こえた。乗騎した兄らしき姿が見えて来て、ティムが待ちきれない様子ではしゃいだ声をあげた。
「……あら、もう一人いらっしゃるようだけど、来客の予定があったかしら?」
「ううん、聞いていない。友達も一緒に帰って来たのかもね」
「……シャロン、ティムまで! 二人とも久しぶりだ。俺の弟はちゃんと元気になったのかな?」
到着した兄のグラントが弟妹の名前を呼んで、馬からひらりと身軽に降りて見せた。陽気で人好きのする兄は馬丁に手綱を預け、駆け寄って来た弟をよしよしと抱き留めた。一年以上会っていない旅装姿の兄は随分と日に焼けている。あちらで過ごした人によくある事だ。よう、とシャロンにも活発な笑みを浮かべながら、グラントは弟の髪を撫でている。
その横で、もう一人が洗練された所作で馬を下りるのが見えた。色味の薄い金の髪と、碧い瞳がこちらを捉えた。年若い青年だが、身分のある人だと一目見れば子供でも理解できる佇まいである。
「……お久しぶりです」
「え、子爵殿……?」
シャロンが何も言えないでいるうちに、兄に髪をくしゃくしゃにされた弟が思わず声を上げた。こちらも慌てて形式的な挨拶の口上を述べる。
「子爵殿、既にご存じかと思いますが。妹のシャロンと、弟がティモシーです」
「ええ、妹君とは何度か」
クロードはいつも通りの、どこか事務的にも聞こえる口調で兄へと応じた。それから弟の元気そうな姿を前に、微かに目を細めたのがわかった。けれどそれは一瞬だけで、改めてこちらへ向き直る。
「予定にない訪問で申し訳ない。しかし、メイベル家の兄君がどうしてもおっしゃって下さって」
「……私、屋敷に知らせてきます」
ゆっくり案内して差し上げて、とシャロンは兄弟に歓迎の準備が整うまでの時間稼ぎを任せた。邸内へ戻って、書斎で歓談していた両親に声を掛けた。グラントは戻ったかい、とのんびり過ごしていた両親は慌てて出迎えの準備を始めた。
それから厨房にも客人のための準備をお願いしに行く。一応今日は兄が帰って来るのが確定していたので、いつもより豪華な一揃いを準備してくれていた。任せてください、と料理長が張り切っている。こちらは問題ないらしい。それ以外の男爵邸は、客人を迎える準備が大急ぎで整えられた。
クロードは不躾な訪問になった旨を一通り詫び、弟が案内した庭が良く整えられていたと庭を褒め称えてからグラントに場を譲った。交代した兄が明るく語り始めたのとは対照的に、子爵はその隣で大人しくカップの中身を注視しているように見えた。
「……つまり子爵家とメイベル男爵家が協力して、隣国にいる魔法使い殿と正式な取り決めを結んだのだ」
グラントは得意満面である。シャロンは昔、子爵から聞いた話を思い出した。彼には隣国へ行って商売を始め、しかし詳しい事情を報せて来ない友人がいるのだと。
それ以外のメイベル一家は話が見えずに、不思議そうに顔を見合わせている。
「ん? もしかして知らない!? 隣国には魔法使いがいるのだ、本物の。彼は誰でも魔法が使えるように、魔法の品物を作って売っている。隣国中が大騒ぎで……」
兄は隣国にいる魔法使いがいかに成功を治め、多額の利益を手にしたのかという話を饒舌に語り出した。あちらの国王が正式に居城へと招き、今やその名前を知らない者はいないらしい。
シャロンが覚えている限りでは、かつて子爵は暮らしぶりを案じているほどだった。けれどその後、友人の事業は大きな成功を治めているようだ。
「……お二人は、冬に庭師アスティンの娘さんが結婚式を挙げた時のあの騒ぎを覚えているでしょう。この場でどう説明するべきかはともかく、あのような不思議な事象を使いこなして、かなりの利益を手にした話を最近になって、ようやく私に報告してきました」
「ああ、あの青い薔薇……」
「俺としたことが、現物がない。子爵殿、お持ちではありませんか」
兄ががっくりしている横で、クロードは肩を竦めてみせる。そうして慰めるようにして話を引き継いだ。
「そのうち、本人が山と抱えて持参するでしょう。あちらで良縁に恵まれたようで、配偶者に自分が生まれ育った土地を見せるために、近々こちらにも足を運ぶようです。大々的に売り出すのだと、手紙で威勢よく綴られていましたから」
本人が顔を見せたらお知らせします、と子爵が話をまとめた。
「ほら、何年か前まで子爵邸にクロード殿のご友人がいたじゃないか。子供の頃は寝込んでいたけれど、あの彼だったんだ。そこで子爵に手紙を書いて、メイベル家と協力するようにと一筆書いてもらったというわけだ」
兄が彼に興味を持って問い合わせたものの、既に売り先は決まっているという返答だった。しかし諦めきれずに直接顔を合わせる機会を頼み込むと、話だけでもと受けてくれたらしい。すると、あちらは兄の顔を覚えていた。グラントは生家が付近一帯で手広く商売を営み、より多くの利益を上げられるはずだと交渉して了解を取り付けたわけである。その説明に子爵も同意するように、軽く頷いた。
「そういうわけで今日は妹と、それから子爵殿とが、親交を深めるちょうど良い機会だと思ってお連れしたのだ。これからは話し合いの機会も増えるだろうと思って。……シャロンも会いたかっただろう?」
兄を中心にしてクロードが補足して他の人間に説明する、という流れでその場はずっと進行していた。そのため、急に話題を振られたシャロンは思わず硬直した。
「子爵殿、ぜひ受けるとさ」
「……ええ、もしまだ受けていただけるのであればの話ですが、ぜひ。こちらとしても願ってもない縁組で」
クロードの声には緊張と、それからわずかな気まずさがあった。これまで父は積極的に彼と交渉しようとしていたものの、なかなか話を進められないでいた。先方には受ける気がないのでは、それがメイベル家側の認識である。
「あれ、手紙に子爵殿に縁談を持ち掛けると書いてあったじゃないか? シャロン、そうだよな?」
「……ええ、はい。子爵殿とメイベル家の総意であれば、従います」
何照れているんだよ、と兄はシャロンの返答や他の家族達の表情を気に留めなかったようだ。一人だけ満足そうな様子で、お茶の追加を使用人に頼んでいる。夕食もいかがですか、とグラントは子爵を引き留めたけれど、クロードは固辞した。
「それはさすがに。また日を改めて訪問します。友人がこちらに顔を出す日取りが確定したら、またご連絡しますから」
「シャロン、そこまで送ってさしあげ……」
「いえ、今日は兄様だけが帰って来るつもりでしたから。このような格好で子爵殿の隣に立てません」
シャロンは笑って、その場を辞す意向を示した。半分は事実であったので、特に咎められない。頭を下げて、子爵殿と目を合わせないようにして退室する。兄があの調子なので、気まずい空気にならないようにしてくれるはずだ。
「……」
シャロンは部屋まで様子を見に来た使用人に、夕食まで何もしなくて良い、と伝えた。急いでお召し替えしましょうか、と提案してくれたけれど、客人はお帰りになるようだからと後ろ手に自室の扉を閉めた。
急な来客で驚いて疲れたから休みたい、誰も通さないようにと伝えた。
急に色々な事が決まってしまって、シャロンは混乱していた。とにかく子爵と自分との間で、縁談が成立したらしい。してしまったのか、という戸惑いが強かった。では今までは何だったのか、という疑問も湧く。
「……」
咄嗟に言い訳を並べて逃げてしまったけれど、子爵に伝わってしまったのかはわからない。あの場に留まるべきだったのか、既に判断する術はなかった。
談笑する声が微かに聞こえて、シャロンは窓からこっそりと敷地内の様子を窺った。兄と弟とで、子爵殿を見送るらしい。兄が熱心に何か話している。弟とクロードが、それに応じながら歩いていく姿を見つめた。
とりあえず、メイベルに利があるような展開に持ち込む事には成功した。シャロンは頭の中を整理するために、指を一つずつ折り曲げる。
隣国にいるという魔法使いの作り出す様々な魔法の品物については未知数である。けれどクロードが保証し、兄が隣国で見聞きした情報となればそれなりの信憑性が期待できそうだ。
その商談と、こちらが狙っていた縁談も子爵がぜひ、という返答を以て成立した。子爵家という近隣一体の有力者である貴族階級の家柄と姻戚関係に持ち込むという目標が無事に達成された。
子爵側がこれまで興味を示さなかった話に、急に前向きになった。相手を直接訪問してまとめるという実に鮮やかな動きである。
隣国で流通しはじめた魔法の品々が莫大な利益を生み出し、同じ成功をこちらの国で目論んだ結果、メイベル男爵家が商売に明るい点に目を付けたのだろう。それ以外の何物でもない。
これこそが貴族階級に連なる家同士のやり方である。クロードは今までそのようにして生きて来たわけだ。これからはシャロンも、彼の隣で慣例に倣う事になる。結婚という形が見えたにも拘わらず、かえって苦々しい気持ちが強くなってしまったような気がした。
かつて海の向こうへ向かった友人を案じていたあの日のクロードの思いや、シャロンが自分以外の誰にも明かさないつもりだった密やかな恋心。そのあまりに唐突な帰結に、シャロンは大いに戸惑ってしまったのだった。