④シャロン、自覚する
『冬の寒い日に挙式した若い夫婦に、優秀な庭師の父親によって特別な贈り物がされた』
あの不思議な青い薔薇事件以降、子爵領周辺に住む人々はそれ以上の情報を得る事はできなかった。結局はクロードの思惑通り、幸せな挙式だったという美談だけが残った。子爵が周囲に詳しい経緯を明かさないまま逃げ回り続けたためだ。
このような振る舞いは珍しくないようで、あまり社交の場に姿を現さないのがいつもの事であるらしい。クロードは親しみやすい人柄で広く知られていた先代とは、異なる考え方のようだ。
その後、子爵領周辺は大きな混乱もないまま、祭事や日々の営みが滞りなく過ぎていった。穏やかな気候を求めて、国土の北と海の向こうの隣国から続々と人々が集まって来る。新しい当主はしっかりと役目を果たしているのだと解釈し、住民達はのんびりと暮らしていようだ。
そうして不思議な現象が起きた結婚式の話題が落ち着いて季節がいくつか過ぎた頃、シャロンは父の執務室へ呼び出された。母も一緒に来て隣に腰を下ろす。その様子を横目で見る限りでは、既に母は父の話の内容を把握していそうな気配だった。二人とも娘を安心させるような微笑みを浮かべている。
「シャロン、あの教会での話だが。子爵殿と顔を合わせてみて、どうだった?」
「……子爵殿をよく知る方々には慕われているようですし、人柄は申し分ないのでは」
当初は急な世代交代を危ぶむ声もあったけれど、子爵領も落ち着いてきたらしい。大きな事件や混乱もない暮らしが続いているようで、領民たちからも受け入れられつつあるようだ。
「縁談を、正式に申し込んでみようと考えている」
左様ですか、とシャロンは平静を装い、無難かつ好意的に聞こえるような言葉を選んでおいた。別に平静を取り繕うほど何かがあるわけではない、とシャロンは自分に言い聞かせた。少し話をしただけの間柄であるはずなのに、結局未だに意識せずにはいられない気恥ずかしさを、目の前にいる二人に特に気取られたくなかった。
男爵家としては、今後の発展のためにも、子爵殿と縁続きになっておきたいと考えているのだろう。メイベル家は祖父の代に成功を治め、多くの財産を築いた功績が評価されて準貴族の地位を手にしている。しかし、まるで貴族の仲間入りをしたかのようだ、と成功を妬む声は決して小さくはない。
「どうだろう、シャロン。前向きに進めてみてもいいだろうか。とりあえずもう一度、彼とうまく行き会えるといいのだが。中には未だに人柄を不安視するような声もあるが、上手く立ち回れば、きっと良い人生を共に歩めるに違いないと私は思っている」
父としてはメイベル男爵家にとって最善、という形で子爵殿を挙げたのだろう。子爵家は古くからある良家で、もし仮に子爵家と姻戚関係になる事ができれば、こちらは今まで以上に有利な立場を得る事ができる。
「シャロンならきっと大丈夫だ。とりあえず私に任せなさい」
父は随分と張り切っている。一方のシャロンは話がどう転ぶのか予想がつかず、ひどく落ち着かない気分のままだった。両親から話の進展があるまでは、あまり子爵の事は考えないようにしよう、とこっそり決意しておいた。
「……それにしても、本当に色々な殿方がいらっしゃるのね、私達も気を付けなければ」
誰かの一言に、年若い少女達は重々しく同意を示す。シャロンはメイベル男爵邸に友人達、今日は本当に親しい相手だけを招いた。丸いテーブルを囲むのは、自分を入れて五人だけだ。
お茶会の話題はあの不思議な青い薔薇の話から、理想的な挙式とはいかなる条件が必要かという話題へ、ごく自然な流れで移行した。そのためには当日の流れや衣装、装飾品に客人をもてなすための余興や食事まで、各々が自分の理想をうっとりと語った。そしてやはり一番は良き伴侶に恵まれなければ、という結論に達する。すると保護者や上の世代から語られる、教訓と警告を兼ねた噂話に繋がるのは避けられない。
近頃隣国へ渡った貴族青年の一人が、生家の監視の目を逃れて羽目を外し過ぎたらしい。取り返しのつかない失態を犯して強制送還である。どうやら一人の女性にしつこく付きまとった挙句に強硬手段に出ようとしたらしく、あちらの国でも随分な大騒ぎのようだ。既に去年か一昨年の出来事であるはずなのに、未だに話題に上がる一大事件である。港に近いこの一帯は帰国してきた人々の通り道でもあるので、情報は広がりやすい。
さらに揉めた相手に迷惑料の名目で、生家からの仕送りを全て奪われたのだという。領事館に駆け込んだが、残念ながら金銭も名誉は戻らなかった。家族に事情が知られてしまい、強制的に帰国という最低な結末である。
この事件に関し、周囲の反応は様々だった。きっと揉めた相手が悪かったのだと庇い立てするような人から、縛られて海に放り込まれないだけ運が良い、と冷笑的なもので多岐にわたる。おかげで肩身が狭い、とあちらに滞在予定の者達が憤る声も多く聞く。他国に身を置く限られた期間だけの交際相手を上手く扱えなかっただけ、と呆れた声もあった。
シャロンには兄がいて、現在あちらの国へ留学し商売について勉強中である。手紙で尋ねてみると、こちらでの噂以上に同情の余地に乏しい経緯だったようだ。数年後には社交界へ出て行く年齢の年若い少女達は上手い話、身分に関係なく妙に馴れ馴れしい異性には気を付けなければ、とまるで合言葉のように繰り返していた。
「最近は身分があるからと言って安泰、というわけでもないようですし。やはり信頼できる繋がりと、情報収集は欠かせませんね」
シャロン達は小難しい表情を浮かべてお茶とお菓子を囲んでいる。この話が広まる少し前まで話題だったのは、零落したとある伯爵家の噂話だった。領地経営が苦しくなった結果、新規事業に手を出したが上手くいかない。失敗を埋め合わせしようとして更なる負債を重ねて、最後には虚偽の投資話に騙されたのがとどめ、という絵に描いたような転落劇だった。
少しずつ時代が動いている。貴族階級だけが力を持つのではなく、これからは商売人が台頭する世の中になるのだと両親や兄、最近本格的に勉強を始めた弟まで、揃って張り切っているわけだった。
「このあたりはまだ安穏としていますけれど、他所から入って来る人は多いですものね。身なりと容貌が良いからと言って、善人とは限りません」
「子爵殿の影響がありますから、海の向こうで起きたような不埒な事件はないでしょうけれど」
シャロンは何気なく子爵の話題を持ち出した。社交の場にはあまり姿を現さないが、やはり堅実に領地を治めているクロードの影響力は無視できない。良くも悪くも上の立場にある人間の為人が、全体の雰囲気に大きく寄与するものなのだ。隣国で大失態を犯した青年の話が延々と当てこすられているのも、その影響が大きい。
「……シャロンさんの方はいかがなのかしら」
「父が尽力していますけれど、あまり芳しくはないですね」
友人の一人が、意を決したようにこちらへ問いかけた。誰一人好奇心ではなく、純粋に心配してくれているとよくわかる表情や眼差しである。
シャロンは隠さず正直に、集まってくれた友人達にありのままを報告した。皆、一様に難しい顔でお茶に口をつけながら、あまり面白いとは言えない話を熱心に聞いてくれた。
メイベル男爵家は、子爵に縁談を持ち掛けようとしている。父は思惑を隠さず、かえって競合相手が減って助かるという認識だった。各所の集まりで偶然を装って子爵と遭遇し、年頃の娘の縁談を吟味している話をすれば、相手もこちらの意図は察するに違いない。
『このように評判通りの明るいお嬢さんとなれば、周囲が放っておかないでしょう』
しかし、クロードは形式的な挨拶と口上を述べるのみである。その表情や口ぶりからしても、シャロンに興味があるとは思えなかった。そもそも夜会等へ顔を出しても長居はしないため、個人的なやり取りをする機会もない。滅多に現れない子爵が姿を現したとなれば我先にと人々が詰め掛けるので、挨拶と二言三言だけでもやり取りができただけ良い方である、と言えなくもないけれど。
はたから見れば、男爵親子が子爵にしつこく付きまとっているが、あまり相手にされていない状態だった。既にあちらこちらで話題になっているかもしれない。
『子爵殿は商売人がお嫌いだそうよ。既にご存じかもしれないけれど』
シャロンに向かって、このようにしたり顔で声を掛けて来る者までいる始末である。
子爵領と男爵領の位置関係や、メイベル家の実績を鑑みれば、先方にとっても決して悪い話ではない。というのがこちらの考えだったが、先方からすれば古く由緒正しい家柄と、最近爵位を得た男爵家では釣り合わないという認識なのかもしれなかった。
「手強いですね、子爵殿」
「良い形にまとまって欲しいのですけれど」
友人達は一様に難しい表情を浮かべている。嘲笑や好奇心とは程遠い温かなものだった。優しい気遣いがシャロンにはありがたく、そして心地良い。こうして気の合う者同士で集まって、楽しく歓談する。情報収集の場でもあるけれど、それは自分や家のためでもある。それを抜きにしても、友情というものは得難く貴重なものであると改めて認識させられた。
「お父上殿は張り切っておられるようですけれど、シャロンさんとしてはどうなのですか?」
「……挨拶をして、お互い感じの良い文句を並べ合って……より前に進めないですね」
シャロンは気にしている素振りを感じさせないような口調で説明した。クロードは常に人に囲まれている。よくあの包囲を突破して帰途につくものだと、毎回感心していた。それはともかくとして、子爵はシャロンとかつて個人的に同じ場に居合わせ、話をした記憶などないように振舞う。
最近はまるであの朝、教会で、昔の友人の話をしてくれた事など、あの青い薔薇が消え失せてしまったのと同じように、ゆめまぼろしだったような気がしてきたほどである。
「あの、私。先日たまたま居合わせていたのですが、シャロンさんがおっしゃるほどには、悪くないように思えましたけれど」
隣に座っていた相手が、時間がゆっくり得られれば、というような内容を口にする。シャロンは穏やかに同意を示しつつ、ずっと気が楽になるのを感じた。具体的な解決策が提示されるわけではないが、こうして心からの慰めがあるだけ、幸せな立場だと自分に言い聞かせた。
「どこかに、意中の方でもいらっしゃるのでしょうか? あのように普段、感情を表に出さない方の秘めたる想いというのは、私は大いに興味がありますけれど」
これ以上友人達に気を遣わせるのも悪いと思って、シャロンはいつも通りの噂好きという印象を与えるように、努めて明るい表情を取り繕っておく。
クロードはメイベル男爵家に特別に冷たいというわけではない。子爵は朗らかで社交的だった先代とは違う方針であるらしい、というのは既に周囲の共通認識かつ、シャロンにとっても慰めであった。
というわけで身分違い、許されざる禁断の関係、距離と時間とに隔てられた激しい情熱。この場がお開きとなるまでに、子爵が抱えている事情についての勝手な予想が熱く取り交わされた。
「随分楽しそうだったのね? でも、気疲れしているかもしれないから」
友人達が帰って行った後、わざわざ母が部屋まで様子を見にやって来た。今夜はよく休むのよ、と母親は何気ない口調でシャロンに声を掛けてくれた。しばらく雑談をして、夕食の準備にはもう少し時間がかかると教えてくれた。
かつての母は、周囲で評判になるほど綺麗な女性で、父はその視界に入るために大層苦労したらしい。大勢の競合者を蹴落とし、ようやく求婚するに至ったそうだ。父にとってはメイベル男爵家の更なる繁栄と発展こそが使命である。母親そっくりだとよく言われるという娘のシャロンも、大事にされて育ったという自覚は十二分にある。
このまま子爵に相手にされないとしても、両親は家の利となるような縁談を、すぐに確保してくれるに違いない。家族と友人に恵まれ、自分の今後に憂いはないはずだった。
先に日記を書いておこう、とシャロンは思い立つ。今日の出来事、友人の発言や衣装や途中のお菓子の話まで詳細に記録し始めた。会話を思い返していくうちに、やはり友人達から心配されているのをありありと感じてしまって、思わず手が止まってしまう。
「……私は」
まさか、とシャロンはつぶやいた。時間が経って、思い違いを起こしている可能性もある。頁を遡って、あの冬に起きた田舎町の一大事件を指先が開いた。読み返してみると当日の寒さや挙式の詳細に加えて、クロードがシャロンに話してくれた台詞が驚くほど仔細に書き付けてあった。
そしてあの青い不思議な花々を見るに、隣国の港町には本当に彼の言う通り、魔法使いが暮らしているのかもしれない、と興奮した内容が記されている。まるで、特別な出来事だったと言わんばかりである。
「……『もし本当に上手くいっていないのであれば、友人に自分の現状を知られたくないのだろう』」
シャロンはあの早朝の教会で、少しだけ自分の友人の話を懐かしそうに、複雑そうに教えてくれたクロードを忘れられないでいた。寒くないように気を遣ってくれて、それから出席した式の進行を邪魔しないように振舞ったあの日の子爵を、ずっと探している。
けれど子爵の方は、その出来事などなかったかのような態度だった。それが悲しくてたまらないのだと、シャロンはわかってしまった。
自分達の階級においては、縁談は自分だけで決めるものではない。必ず家の思惑が付いて回る。婚約を結んだ相手と上手な関係を築いていくのが、恋や愛として認識されている。
シャロンは父が子爵殿と縁談を結ぶ意向を明らかにした時の、あの不思議な感覚をはっきりと覚えている。まだ見ぬ未来に対する緊張や不安を含めた高揚が一体何だったのか、今頃になってようやく理解した。
あの日のクロードにもう一度会いたかったけれど、相手にその気はないらしい。両親にも友人にも知られたくない、決して表沙汰にはしない恋情という秘密を、シャロンは抱えてしまったのだった。