⑯子爵、挑戦し続ける姿勢を忘れない
「私は日記に嘘は書きませんからね、子爵殿」
「『お嬢さん』 などと初対面であなたに口走ったか?……いや、したような気もする」
娘が二階へ上がって行った後、夫婦は食堂に残って歓談を楽しんでいた。天気の良い、過ごしやすい日の昼下がりである。
春先は末娘の結婚が控えていたため慌ただしい日々だったのが、ようやく落ち着いた時間を過ごせるようになった。そうして夫婦で思い出話に花を咲かせるうち、寝室に置いてあった日記まで持ち出している。
対するクロードはずっと昔の出来事が脳裏に甦ったのか、非常に複雑そうな表情を浮かべている。シャロンは向かいの席に腰かけたまま、その様子をじっくりと観察した。
「……それにしても、おそろしいほど仔細に記録されているな。あの時はたまたま言葉を交わしただけのように記憶しているが」
「当時の私はよほど、子爵殿の事が気になっていたのですよ。十代の小娘ですからね。偶然行き会った紳士に翻弄されて、舞い上がっていたわけです」
ふふふ、とシャロンは日記で顔の目より下の部分を隠しながら、照れ笑いしておいた。
かつては相手の言動に一喜一憂して、クロードの本心がわからなくて思い悩んだ時期もあった。けれど今はこうして隣で楽しく過ごせている。隣国にいる友人夫妻や家族の協力、そして何より二人でこうして積み上げて来た時間を、愛おしく思うのだった。
「私にも、今のルイーズがそうであるように。楽しい思い出がたくさんありますよ」
「……たしかに、私も今の娘達を見ていると新鮮な気持ちを思い出す事がある」
あら、とシャロンは本日の日記に記載できそうな発言を聞き、目を輝かせた。今日は書く事が多くて嬉しい気分になる。
まず一つは遠くで暮らしている長女、次女から便りがあった。次に少し前に屋敷を訪れた小説家の作品についてクロードから言及があって、それから自分達の昔の思い出話をああでもないこうでもない、と楽しく言い合っている。
「……そういえば、この本の執筆者が屋敷を訪れた際、私の妻も小説ではないが、毎日の習慣として長年日記をまめにつけていると話したのだ」
当時の話題が一段落したところで、クロードが話題を変えた。
「あら、小説家の先生の前でそのようなお話を?」
「ああ。すると古今東西、旅の記録や日々の出来事を綴った文章が各地に残されているのだと、熱心に話してくれたよ。地域によっては、女性の手によって綴られたものも多いようだ」
少し前、子爵邸を研究の一環として尋ねて来た一団に、隣国の小説家がいた。クロードが屋敷や周辺の古い建物を案内したのである。探偵小説という、不可解な事件の謎を解き明かす分野の若手作家であったようだ。
「そういう事情で、……あなたの日記も後々、もしかしたら広く読まれる事になるかもしれない」
「そうですね、お墓に入る時に持って行く分はだめですけれど。本棚に置いてある方は、貴人の日常生活の記録として自信がありますよ」
「……観察対象が私しかいない点を除けばだが」
屋敷での暮らしぶりについてはクロードが朝パンに塗っている味まで記録している。他にも身の回りの生活や、領主業について夫から聞いた事。さらに公の場に出る時の衣装の選び方、流行の変遷についても話をせがんで熱心に書き残している。
シャロンはクロードの話を聞きたくて、定番である刺繍の他にそのような会話から始めたのだった。また一つ若い頃を思い出して、照れくさいような懐かしい気持ちになった。
「いいですね。街にある民俗文化資料館で引き取って頂けたら嬉しい。船の模型が入った酒瓶のお隣に飾って欲しいです」
そこで先生にお願いがあって、などとクロードは口を開いた。丁重に前置きしてからある提案をこちらへ持ち掛けた。
「……日記あるいは旅の紀行文はとりあえず、気の利いた前書きを添えておくものらしい。目を通した後世の人間から、私が妻の名前を騙っているとか、生活の全てを記録するよう命じた奇人のように思われるのは困る。執筆者本人の意思で日々熱心に書き綴っているのだと、冒頭にわかりやすい注釈文をつけておいてくれないか」
「そのような勘違いは誰もしませんよ」
シャロンは笑って流そうとしたけれど、思ったよりもクロードは真剣であるらしい。一応書いておいてくれ、としばらく言い合っていると、階上で物音がした。やがて階段を連れ立って降りる足音が微かに聞こえる。
二人は会話を中断、目配せして素知らぬ顔を装った。
「……お茶をいただきに参りました、お父様、お母様」
「いらっしゃい、そろそろ呼びに行こうかと思っていたところです」
食堂へやって来た娘夫婦に、シャロンは愛想よく応じる。クロードはまたいかにも領主然とした態度に切り替えていた。二人を輪に加えるために、シャロンは椅子の位置をクロードに近づけながら、こっそりと肘で夫をつついた。
「まるで教師のようですって、子爵殿」
「……すぐに全てが修正できるわけではない」
「……お父様?」
何でもない、とクロードは不思議そうな眼差しの娘に応じた。春先に結婚したばかりの末娘ルイーズとその夫、ヒューイは厨房からできたてのお茶菓子が運ばれて来たので、そちらに注目した。
二人は言い争った後のような不穏な空気ではない。深刻な諍いに発展したわけではないようだ。
「こちらで調達した日用品が揃い始めていて、それから棚を買ってもらえると。ありがとうございます、いつか私物で溢れんばかりにできるよう精進します」
ヒューイがここへ到着した時、今後使う物は現地調達するべきだと思ったらしい。屋敷へ持ち込んだ私物は最低限だった。この土地で暮らしていく中で、少しずつ増やしていくつもりらしい。
「お義父殿と、お義母殿はどのようなお話を?」
「……ああでもないこうでもないと思い出話をしていたところだ」
お母様は日記が趣味なのです、と机の上に積み上げられている数冊に気が付いて、娘が解説してくれた。するとヒューイが実は自分も、と続ける。
「手帳に二言三言、程度ですが。なるべく忘れないように心がけています」
「あら、嬉しい。お仲間が増えると心強いですね」
意外な共通点を見つけて、シャロンは嬉しくなる。これから先、一緒に暮らしていく中で親しくなるきっかけの一つになるのかもしれない。
いいですね、と最初はにこやかだったヒューイだが、シャロンは弟が生まれた時からずっと日々の出来事を記録し、現在は書棚の一画を占領していると知ると、神妙な顔つきになった。
「……それからこちらは、以前にこの屋敷を訪問した小説家が送って寄越した作品だ。ヒューイ君もどうかね?」
「……お義父殿も探偵小説を?」
クロードが、彼がここにやって来る少し前の客人達について説明した。その声に耳を傾けながらお茶とお茶菓子を囲み、食堂には穏やかな空気が流れている。
早くも食べ終わったヒューイは受け取った小説の頁に目を通しはじめた。その捲る速度からして、どうやら熱心に読み込むよりも全体の大まかな流れを追っているらしい。
「……とすると、このお屋敷が舞台なのですか」
「さすがに間取りなどはそのままではないが、数ある構成要素に含まれている可能性はある」
クロード曰く、作品内にも子爵位を持つ男性が登場する。恰幅の良い髭の紳士で、探偵役の推理に相槌や情報を補足する人物であるようだ。
「……おしどり夫婦として高名な領主様、となるとお義父上そのものですね。容姿は違うようですが。それでこの後、領主館に招待された主人公が奇怪な事件に巻き込まれると」
鍵のかかった部屋で首のない死体がいくつも見つかるのだ、とクロードがお茶に口をつけながら物騒な発言をした。ええ? と娘が目を丸くしている。大体どの探偵小説でも奇怪な事件が起きる、と付け加えられて更に困惑した表情を浮かべた。
「これ以上は内容に触れるので控えるが、なかなか興味深い物語だった」
「となるとやはり、屋敷の主人の奥様には日記をつける習慣があるので?」
それはぜひ読み進めてから、とクロードは肩を竦める。どうやらこの場で話題を続けるよりも、まだ目を通していない人間の楽しみを邪魔しない方を選んだようだ。
「……それにしても、たしかに私には妻の日記があるので心強いな。怪しげな事件に巻き込まれ疑われても、狼狽えずに無実を証明できる」
「たしかにそうですね。何日の何時何分どこにいて誰とお話したのか、きちんと書いておいて差し上げますから」
「……そのような理由だったのですか? お母様がずっと日記をつけていらっしゃるの」
そうですよ、とシャロンは娘に冗談めかして同意しておく。その時クロードがわざとらしく咳ばらいして、こちらと一瞬目が合った。
「『私は領主だぞ! 君は私を疑うというのかね?』『もうたくさんだ、私は部屋に戻る。朝まで放っておいてくれ!』 ……という次の頁で死体になっていてもおかしくない台詞を口にしても、私には妻が書き付けてくれた日記が味方するというわけだ」
突然仰々しい台詞を口にしたクロードが今のはどうだ、と言わんばかりの視線がこちらに向いた。シャロンはしばらく理解するのに時間がかかったけれど、夫なりに冗句を飛ばしたつもりらしい。
そういえば次に被害者となる人物がそれらしい台詞を口にするという法則があるのだと、先ほど教えてもらったばかりであった。
「……あまり面白くなかったか? 難しいな」
「いやあのすみません、真面目なお顔のまま突然冗句を飛ばすとは思わなくて」
つまりクロードなりに、親しみのある子爵家当主として振舞ったつもりであるらしい。内容はともかく、シャロンはついさっき指摘したばかりの点を、この場で即座に実行した心意気にうっかり感動してしまった。反射的に手元の日記で顔を隠しておく。
長い時間一緒に暮らしてきても、まだこのように予想外の行動に遭遇する。この人と結婚してよかった、とシャロンは今頃笑いだしそうなのを我慢しつつ、強く感じたのだった。
「……お義父殿も、冗談を口に、……されるのですね」
ヒューイは途切れ途切れにそのような主旨の事を口にした後、我慢できなかったように顔を伏せた。心配そうに肩をさする娘も、笑いをこらえているかのように口元が引き攣っている。この調子で娘夫婦どころか、たまたま追加でお茶を淹れに来た使用人の手元まで、不自然に震えていた。
「……」
当のクロードは慣れない冗句を口にしたためか、今頃顔を赤くしている。それでも屋敷の主に相応しい威厳を取り戻そうと、何食わぬ顔を装って隣のシャロンを肘でつついて来た。
お上手でしたよ、と我慢できずに笑ってしまっているシャロンが伝えるのには、もうしばらく時間が掛かりそうだった。