⑮子爵、後継を定める
シャロン達が子爵邸に到着したのは、予定より随分遅くなってしまった。いつもであればとっくに寝支度を終えている時間なので、私室ではなく先に浴室へ行くよう夫から促された。
「これから少し寂しくなりますね、お母様。嬉しい事が起きたはずなのに」
長旅を終えて久しぶりに、子爵家の面々は滞在先ではなく自分の屋敷の浴室を使った。湯あみを終えて長椅子で髪を緩く編んでいると、隣に末娘がやって来て口を開く。
「そうね、けれどこれからは三人で賑やかに暮らしていきましょう。あなたのお父様は昔から気難しいところがありますから、私達二人でうんと盛り上げなくてはね」
努めて明るく応じると、娘は何度か瞬きをした。それからふふふ、と笑みを浮かべている。母親の顔を覗き込むようにした後で、心強いと付け加えた。そうしておやすみなさい、と部屋へと引き上げて行った。おっとりとした末娘だが、他の子供の姿が屋敷から遠ざかった途端、大人びて見えるような気がして不思議だった。
寝室へ戻って、シャロンはようやく一息ついた。寝台脇には、小机と座り心地の良さを追求した椅子が置かれている。日記を書く専用の場所だ。たった今感じたやや切ないような不思議な気持ちを忘れないうちに頁の続きを開く。
結婚してから夫のクロードと意見を擦り合わせ、三人いる娘達の成長も考慮しながら、暮らしやすいように整えてきた屋敷である。もちろん内装から調度品の隅々に至るまで、自分の理想が反映されていた。
書き進めていると、扉続きになっている夫の私室から話し声が途切れ途切れに聞こえてきた。家令が主人一家の無事の帰還に安堵し、不在中特筆するような出来事もなかったという報告らしい。
それから次女エリーゼの名前が出て、耳に届くは明るい。結婚して屋敷を出た娘を気遣い、祝福する内容だった。せっせと世話を焼こうとする使用人に、夫は仕事ぶりを穏やかに労ってまた明日以降にと伝えている。
扉の奥が静かになってしばらくした後、ようやくクロードが姿を見せた。寝室と私室を何度か行き来して寝支度を整えている。シャロンは手を止め、横目で夫の視線の動きや表情、所作の端々を観察した。
「……」
やはり苛立っているな、とシャロンは夫の様子に、気が付いていない素振りで机の上の作業を進めた。今日まで八つ当たりのような雑な対応をされた事はないが、機嫌の悪さを心配するとそのような事実はない、と頑なに否定し続ける。というわけで余計な指摘はしないのが、夫婦円満の第一歩である。それならば私の相手を、とにこやかにお願いするのみである。
ペンの蓋を外して、しばらく屋敷を離れていた旨と日程と経緯を簡潔にまとめておく。
次女のエリーゼが結婚した。一家は相手の領地にある教会での式に出席し、今しがた戻って来たところである。
「……毎晩の事ながら、流麗な筆致と速度を両立させて文字を生み出すのは素晴らしい技術だ」
「あら、ありがとうございます。長年の積み重ねの成果でしょうかね」
寝支度を終えたらしいクロードは後ろ手に扉を閉め寝台に腰かけて、文字を読み取らない程度にシャロンの手元を注視している。
日記を書く時は紙面に向かって思いつくままに綴っているだけで、文字を綺麗に書くというあまり意識していない。けれど褒めてもらえるのは嬉しいので、そのまま素直に作業を続けた。
感動的だった娘の結婚式について、記憶が薄れないうちにせっせと手元を走らせる。よく晴れた日、当たり前だが大勢の人々に祝福された娘は幸せそうで美しかった。
元々は子供だった頃、生まれたばかりの弟の愛おしさを日々書き留めようと始めた趣味が、ここまで続くとはシャロン自身も想像していなかった。自身も成長し、結婚して娘を三人も授かって生活様式が変わっても、趣味を手放す事はしていない。
三人の娘達の話をまとめた冊子は別にあって、それはシャロンが誰にも見せずにお墓に一緒に納めてもらう予定でいる。すると日々の出来事を記録する主役であり生活の中心はやはりクロードなのであった。朝食にパンに何を塗っているか、シャロンは同席するたびにこまめに記録する事から一日が始まる。
もっと自分の話を書けばいいのでは、と夫は呆れているが、やめなさいとは言われない。そのため、今日に至るまで継続していた。
「やはり我が家が一番ですね」
シャロンが手にしたペンが文字を刻む音以外、室内は静かだった。時間が遅れているだけで、いつもの寝支度と何ら変わりない。夫はこちらが書き終わって本を閉じるまで、辛抱強く待っている。まだか、という類の声は掛けて来ない。大事な作業であると、よくわかってくれていた。
シャロンは寝室にある本棚の一画を埋める、これまで書き記した膨大な量の日記を目にするたび、幸せな結婚をしたものだとしみじみと感じるのだった。
「……良い式だったではありませんか。あのように広々とした大聖堂で挙式など、私は人生で初めてですよ」
「ああ、そうだろうとも。私もあそこまで格式高い場所へ招待された事はない」
シャロンは紙面から顔を上げないままで、クロードの機嫌を窺いながら口を開く。
ここから離れた場所で行われた式を、自分達は特等席で迎えた。クロードも、幸せな花嫁の父親として参列している。しかし終わった現在、彼の内心が非常に複雑である事は想像に難くない。
子爵家の子供は三人とも女の子である。そのため当主のクロードは、長女に婿を取ってもらう無難な方針を早期に打ち出した。
「まあどうせ、人生は予定通りに進むはずがないという事だ」
「昔からよく言われている教訓ですね」
苦虫を噛み潰したような声と表情を滲ませる夫を、シャロンは冷静に宥めておく。
現在、王都の社交界を騒がせているのは、二人の高位貴族に美しい娘達を嫁がせる事に成功したやり手の子爵家当主。本人にはそのつもりが全くないと釈明しても、誰も信じてはくれないだろう。
双方身分を弁えるべき、と長女の時にも当事者が集まって話し合いが行われたものの、説得には至らなかった。
結局長女、そして次女まで相手から望まれた形で侯爵夫人、公爵夫人という身分にある。先方にもそれぞれ事情と言い分があり、何より必ず幸せにすると誓ったので最終的にクロードが折れた形である。
「……さて、子爵殿はよくおわかりと存じますが」
シャロンは日記を閉じた。寝る前とは思えないほど険しい眼差しを見つめながら、慎重に言葉を選ぶ。
娘達が結婚したのは喜ばしい出来事に違いない。しかし、子爵家が望んでいたのは誠実な娘達の結婚相手、そして後継として家と領地を守ってくれるような人物であった。
「これから先、私達家族の今後に。口を挟みたい者達が、娘の高貴な夫達を含めて山のように大挙して押し寄せるでしょうから。先に断らせていただきます」
子爵領は田舎にある小さな領地に過ぎない。しかし温暖な気候と海に近い立地に恵まれて、過ごしやすく整備された保養地は広く知られるようになった。隣国にいる友人夫妻とシャロンの実家が関わって、一帯を潤す利益を上げている事業もある。クロードは領地を豊かにする努力を怠らず、堅実な運営を積み上げて来た。
そこへ高位貴族との繋がりまで揃ったとなると、さぞかし魅力的に映るに違いない。
「私はこれまでのあなたを、きちんと覚えていますから」
シャロンがこれまで書き留めて来た日記と胸の内に、初めて言葉を交わしたあの時から、クロードの有様が記録されている。
友人との関係に悩みながらも支え続け、体調を崩した父君のために急な代替わりと付随する業務に追われて苦しみながらも、決して理想を曲げなかった。彼自身がそう望んだ姿である。
「……私、あなたが十分に納得した方でなければ。ルイーズの結婚相手として、絶対に認めませんから。どうか最後まで、気を抜かれませぬよう」
あくまで自分達の手で最善を選ばなくてはならない。外部に一つでも口出しを許せば、その先は全てに伺いを立てなくてはならない。クロードには父親として末娘の、領主としてこの土地に関わる全ての人々の生活がかかっている。
後継にはきちんと教えながら引き継いでいきたい。自分がしたような苦労を味わう必要はない。
ずっと前にシャロンに話してくれた声と台詞を、書き留めたおかげで今でも覚えている。理想を捨てずにここまで来たのだと、どうか忘れないでいて欲しかった。
「……ああ、そうだ。もちろん、わかっているとも」
クロードは苦々しい顔つきと声だったが、少し冷静さを取り戻している。
「年齢を重ねると、意地を張るのにも体力を消耗するのでな」
「あらあら。では気力を維持するために、あなたの過去の言動を読み上げて差し上げましょうか。若い頃の情熱を思い出すかもしれませんよ」
「……ありがたく、気持ちだけで結構。楽な方法があるにも拘わらず自分で意地を張って、不必要な労苦に喘いでいた時期の事はよく覚えている」
たまに夢に見るよ、とクロードは苦笑した。
「夢を見ている時には思い出せないのがもどかしい。目が覚めて初めて、とっくの昔に過ぎた出来事だと、起きてもしばらくは苦々しいままだ」
「……枕の下にでも入れておきますか? 夢の中で思い出せるかも」
シャロンは冗談のつもりでそう提案して、日記を差し出した。するとクロードは受け取って、本当に枕の下に入れてしまったので、思わず笑ってしまう。いい夢を見られそうだ、と満足そうに付け加えるのが可笑しかった。
「たまには、あなたも冗談を口にするのですね」
今の発言は珍しいから書き加えたい、とシャロンは笑いながら日記を手元に戻そうとしたけれど、クロードは身体を横たえて頭の下に敷いてしまった。
「おやすみ、もう明日にしなさい。お互い疲れているだろうから」
彼は目をこすりながら、明かりの方へ手を伸ばす。シャロンが仕方なく寝台へ移ったところで、部屋を暗くした。横になりながら、明日の朝まで今のやり取りを覚えていられるように、頭の中に念入りに刻み込んでおく。そうしてようやく、我が家に帰りついた安堵と心地よい疲労に身を任せた。
「いつもすまないな、……」
「どういたしまして……」
クロードの声に、シャロンも半ば夢の中で応じる。ずっとお慕いしていますから、と付け加えた時に、相手も何か続けて口にしたらしい。愛しているよ、と聞こえたような気もしたけれど、問いただすのは翌日になりそうだった。
クロードは屋敷を空ける事が多くなった。今度こそ子爵家と領地の運営を任せられる若者を探すため、様々な伝手を頼って有望そうな人物を紹介してもらっているらしい。末娘の結婚相手でもあるので、慎重に吟味を重ねているのだと本人は主張している。
子爵は数年がかりで検討を重ねて、ある夜に目に見えて上機嫌で帰宅した夜があった。使用人に上着を預け、末娘に手土産と不在中の色々な話題に花を咲かせた後、シャロンにさりげなく囁いた。
「ようやく、話がまとまった」
あら、とシャロンは目を丸くしつつもその場で騒ぎ立てる事はしない。後で二人の時に詳細を改めて尋ねた。
「その方は、今、どちらに?」
「北へ向かった。それで奨学金の返済が免除されるそうで、任務が終わったらこちらに来てくれる」
いつ紹介してくれるのかと尋ねると、クロードは短く返答した。どうやら相手は軍に所属しているらしい。
王都を挟んで領地とは反対の方角、北の国境線の向こうは政治的に不安定だと噂されている。万が一に備え、軍が動いているそうだ。
「奨学金を肩代わりして差し上げる提案はしなかったので?」
「したとも。そのうえで、これだけは譲れないと断られた」
「左様でしたか。そこまで不穏ではない状況だと報じられているようですが、心配ですね」
「そう願いたいところだ。……だが、こちらの申し出をはっきりと断ったのが、私としては印象が良かった」
良い若者だった、クロードは大いに納得した様子である。何枚かの書類を大事そうに金庫へとしまいながら、シャロンに向かって付け加えた。
「ルイーズも、もちろんあなたも、きっと好きになるだろう」
夫の口ぶりに、シャロンは思わず目を瞠った。この様子では、よほど人選に自信があるらしい。頷きながら応じつつ、しかし内心では複雑である。すぐに顔合わせができるわけではなく、任務とはいえ安全な場所にいるわけではない。
それにしても、とシャロンは考えを巡らせる。クロードが気に入った、と太鼓判を押した若者な上に軍人である。いかにも厳しい眼差しの年若い青年を、とりあえず思い浮かべておいた。