⑭子爵、友人を見送る
「……時間が全然、足りなかった」
「それはそうだろう。いくらなんでも強行軍だった」
シャロンとクロードは、友人夫妻を見送るために港へやって来ていた。グレイセルが残された時間を惜しむような様子に対し、隣にいる子爵はいつも通りの落ち着いた口ぶりで応対している。
商談と新婚旅行を兼ねた日程だったため、夫妻が慌ただしい滞在になったのは致し方のない事情であった。
港に停泊している船は、静かに打ち寄せる波の影響で微かに上下している。灰色の空と海からは、冷たい風が絶えず吹き付けていた。見送りや出立のためにやって来た人々は総じて温かい服装を余儀なくされている。旅装姿の者が荷物を軽くしようと、見送りに来た者達に防寒具を預けようと説得している様子が、船着き場のあちこちで見受けられた。しかし結局は風邪をひくぞ、と見送る側に諭され渋々、厚着のままで別れの挨拶を交わしている。
「……雪を、見てみたかったのですけれど」
慣れない気候を心配したグレイセルによって、マリラも厚い防寒着に包まれている。手袋や襟巻、温かそうな革靴は品の良い温かな色合いで揃えられていた。
この辺りは国内の温かい場所であるので、結局滞在中は雪が降らずじまいだった。シャロンもここ数年の日記を読み返した限りでもしかしたら、と期待していたけれど、こればかりは自然の采配なのでどうしようもない。
「シャロンさん、あちらへ戻ったらお手紙を書きますね」
シャロンは彼女と握手を交わしながら、定期的なやり取りを改めて約束する。顔を合わせたのは短い期間とはいえ、二人は親しい間柄となった。しばらくは会う事ができない事実に、思わず目頭を熱くしながら別れを惜しんだ。
「シャロン嬢、今回は本当に良くしていただいて。おかげでずっと有意義な滞在でした。お二人がこちらへいらっしゃった時には、今回のお礼ができるように」
「いえいえ、私もとても楽しかったです」
夫妻の言葉に、シャロンの心の中が温かくなるようだった。あちこち張り切って案内し、旅程に色々な提案をした甲斐があったものである。
背後ではそろそろ、と船員達が声を張り上げ始めている。そろそろ出航時間が迫っているらしい。
「それじゃあ、……クロードも元気でね、また帰って来る」
常に饒舌に口を開いていたグレイセルは、最後にクロードに何かを言いかけた。しかし結局、短い一言を添えただけに留めた。また必ず、と再会を約束した四人は、船と港にそれぞれ分かれる形になる。夫妻は船に乗り込む人々の最後尾に加わって、こちらを気にしながら港から船へと移った。
「……また必ず会う日があるだろうから」
「ええ、そうですとも」
ぎこちない表情と口調で、どうやらクロードはシャロンを慰めてくれているようだ。手が優しく肩に添えられた。シャロンは子爵の横で目元を押さえつつ、子爵との関係に悩んでいたのが、遠い昔の事のように思えた。
やがて船員達の掛け合う声と共に出航の準備が進められ、船はゆっくりと岸を離れていく。旅立つ人も見送る側もそれぞれ歓声を上げていつまでも手を振り合った。
シャロンはしんみりとした気持ちで、海の向こうへ帰って行った新しい友人達をいつまでも見送っていた。シャロン嬢、と声を掛けてもらって、いつの間にか人の姿がまばらになっていた事に気が付く。
さりげなく自然に腕を貸してもらい、二人は待たせてある馬車へ戻った。乗り込むとひざ掛けが差し出され、既に温かいお茶まで用意されている。受け取って口にしてようやく、寒い場所に長くいたのだとようやく気が付いた。
「私達にとっても、楽しい旅でしたね」
「ああ、そうだとも。……せっかく港まで出て来たから、どこか寄り道でも」
クロードが挙げた行先は、もともとはシャロンが四人で行動している時に提案した中にあった店だった。採用されなかったが、彼はそこに興味があったらしい。
「あら、覚えていて下さったのですか」
「私はその店へ行きたかったが、遠慮して口にしなかっただけだ」
客人の意向が優先、と子爵はもっともらしい口ぶりである。御者に行き先を伝えて馬車を出してもらった。隣でいつもと同じ小難しい顔をしていても、きっと内心は親友とのしばしの別れに、今はきっとしんみりとした心境に違いない。
「……それにしても、子供の頃はあのグレイセル殿と、とても仲が良かったのですってね」
この気難しそうな子爵にも無邪気な子供時代があったらしい。本人や改めて紹介してもらった彼の父君やグレイセルの話を総合すると、当たり前だが事実である。シャロンが初めて会った時、クロードは既に子爵の地位にあったため、未だに不思議な感覚だった。
「……グレイセルのような優秀な人間がずっと屋敷にいたのも、本音を言えば子供の頃は複雑だった。何をやらせても私より出来がよかったから」
クロードの声と横顔に、非常に複雑な気配が浮かぶ。同じ屋根の下で育つ以上、あらゆる物事に優劣が付いて回るような気がするらしい。シャロン自身はあまり意識しなかったけれど、兄弟姉妹でも周囲から引き比べられて恨み言が残るのは珍しくない。
彼のように幼少期からゆるぎない後継であるとしても、例外ではないようだ。
「あなたには話したが、非常にくだらない理由で諍いをした事もある。その時はわからなかったが、大人になってようやく可哀想な事をしたと思うようになった」
余裕がないのは怖い事だ、と子爵は言う。遊び中の不正行為が発覚して言い合いに発展してしまったという苦い思い出話を、二人でいる時に彼が話してくれた。
「……それでも、子爵殿。友人が悩んでいる時にできるのは、何があっても関係は変わらないと示す事しかないと、お話を聞きながら考えていました」
帰郷した彼の友人は、屈託なく明るい青年という印象だった。普段どのように暮らしているか、寄り添うマリラの幸せそうな様子からも容易に想像できる。
それは当時のクロードが、孤立無援の状況に追いやられたグレイセルに対し、きちんと友情を示した事が大きかったのではないかとも思うのだった。
シャロンも新しい友人が増える一方で、付き合いが少なくなる者も一定数いる。友人を作るよりも続ける方がずっと難しいというのは、成長するにつれて実感していた。
シャロンはそうクロードに伝えたけれど、相手は難しい表情のままだった。
「……私はあなたに、多大な心労と迷惑を掛けてしまった。メイベル男爵の人柄は、アスティンへの態度など、もっとよく見ておくべきところが多くあった。それを、私はよく知っていたはずなのに」
「私の屋敷は婚約がまとまって大喜びですから、大丈夫ですよ」
申し訳なかった、とクロードは頭を下げる。対するシャロンは何でもないような口ぶりで、誤魔化しておいた。彼が頼りになる人がいない苦しい状況の中にいたせいなので、こちらにとっても必要な経験だったのだという結論にしておく。
「……私が子爵領の仕事を誰かに託す時は、もう少し余裕をもたせられるようにする。物事の進め方を実際に見せて話し合い助言しながら、じっくりと時間を掛けて引き継ぐようにしたい。それから突発的な事態が起きないように、健康には常に気を配っておく」
「……ええ、子爵殿は必ずそうされるでしょうから。次の方はきっと楽ができますよ」
シャロンは明るく応じてみせる。そして苦い決意を固めた横顔を眺めながら、手持ちの鞄から日記帳とペンを取り出した。
「では私の方も。グレイセル殿から少し補足していただいたので」
「……友人が何か?」
「実は子供の頃から、魔法が使えたらと思っていたのです。そこで、あなたのご友人の話を日記に書きつけましたから」
シャロンはもっともらしく咳ばらいした。暗記できたらよかったのだが、相手の話がそれなりに長かったので、途中から書き付けておいたのだった。微かに驚いたような子爵に向かって、特に意味もなく手元の筆記用具を魔法使いの杖に見立てるように軽く振って見せた。その間に手元を捲って最後の頁を開く。
「それにしても、魔法使いというのは本当にいらっしゃるのですね」
あの隣国の陽気なグレイセルが明るく笑って、美しい不思議な光景を見せてくれた素敵な時間を思い出す。クロードが本意ではないにしろ、シャロンに向けて送った手紙の事が頭に浮かんだ。
手紙は不思議で可愛らしい、きらきらした碧い小鳥に変身した。その時感じた高揚感が、まだシャロンの中に残っているらしい。
魔法が使えたら、という荒唐無稽な願いは既に過去の物だった。商品として大々的に売り出しているそうなので、近いうちにこちらの国でも使えるようになる。未来は明るい希望に満ちていた。
クロードがいない間に教えてくれたのは、かつてグレイセルが生家に治療費の援助を打ち切られて、肩身の狭い思いを過ごしていた時の話だった。子爵邸に迎えられて初めて、信頼できる友人を得たのだと。
「あなたがグレイセルさんに、一緒に隣国へ行こうとお誘いしたそうですね。いつもは小難しい顔をしている少年が嬉しそうに教えてくれて、とても嬉しかったそうですよ。肺の病気のせいでずっと気が塞いでいたのが、その時まるで空が晴れ渡るような光景が見えたような気がしたと。辛かった時の支えだった、そう私に教えてくれました」
どうかよろしく頼みます、と魔法使い殿はこちらに頭を下げた。任せてください、とシャロンは応じつつ、初めて教会で行き会った時の話を打ち明けておいた。今思えばあの不思議な青い薔薇が、自分達を引き合わせたような気がする。
「というお話を、あなたが席を外しているほんの短い間に」
「……」
クロードは目を瞠ったまま、シャロンの話を静かに聞いていた。彼の胸中は今この時と、そして複雑な心境だった子供時代とを行き来していたようだった。
こちらとしてはあの寒い日の教会でからかわれた意趣返しが、ようやくできたような気がする。
ややあって、クロードは少し目じりを拭った。何度か瞬きをして、息を吐いた。
「もうずっと前だが、彼を誘った時に。……その後で諍いになったから、随分無神経だったと一人で反省したのを思い出した。彼は身体が悪くてずっと横になっていた上に家族から見放され、この先どのようにして生きていのか、見通しが立たなかった頃だった」
「グレイセルさんは、決してそうではなかったとおっしゃっていましたよ。あなたのお誘いが、とても助けになったと」
子供の頃の話なので既に十年近くの歳月が流れている。今更だと言われようとも、抱えていた気持ちが少しでも楽になって欲しい。シャロンは心の底からそう思った。
「この数日、私は色々とお話できて楽しく有意義でしたから。これからもぜひ、遠慮せず頼ってくださいね。必ず私が、子爵殿の力になって見せますから」
しんみりとした表情のクロードが明るい気持ちになるように、シャロンは冗談めかしつつもすかさず宣伝に移った。今後は子爵側とメイベル家で、協力して領地周辺の運営に臨みたいところである。
手始めに次回、特に予定はなくてもまた屋敷を尋ねたい、またどこかへ出かけるのはどうだろうかと悩んでいると、クロードが口を開いた。
「……あなたのような女性と」
クロードはしんみりと、幼き日の一幕に思いを馳せているに違いないとシャロンは大変満足していた。それが急に自分の話に戻ったので、半分ほどは聞き流した。
「生涯、これから共に時間を過ごすのなら。私はこの上なく、幸せな男だろう」
「…………あの、感動的な台詞はちゃんと記録しますから。子爵殿、これからは口に出す前に一言おっしゃってくださいな」
シャロンは今、クロードが何を口にしたのか、ようやく理解して恥ずかしいような嬉しいような気分で慌てているのに対し、相手は平然としている。
それから慌ただしさに流されてしまっていたが、クロードには伝えるべき事柄がたくさんあった。屋敷を訪ねるのであれば必ず事前連絡、淑女たるものきちんと歓迎の準備を整えておきたい。これを始めとして、まだまだ山のようにある。
今の台詞をもう一度、とシャロンはお願いしたが、クロードは笑って沈黙するばかりである。結局、覚えている限りで子爵の台詞を書き付けておくほかない。
ペンを手に何かが違う、とシャロンは一字一句まで思い出そうと四苦八苦する羽目になった。隣に素知らぬ顔で座る子爵は、馬車の窓の外が少し晴れて来たと言って、いつまでも静かにしていた。